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ブランチとコヒーレント (2)

2021年7月のブランチ

6月の週末にはそのメイド喫茶に足繁く通うようになり、土曜日か日曜日どちらかは存在を確認する事ができていたのに、7月に入ってからは空振りが続く。

一方でいい歳こいたおっさんという自覚が、妙齢のウェイトレスさんを目当てにお店に通うのを心の中で良しとしなかった。言い訳にもならないけど、勤務シフトを調べたりすること無く、あくまでお店に行った時に偶然いたって事で、と自分自身に課す。

ところが7月の1ヶ月間全て空振りともなると抑えが効かなくなり、自分の中で課していた禁を破って情報の海へ漕ぎ出す。

まずはそのメイド喫茶のウェイトレス紹介ページからねこさんのNoteへ。ねこNoteには毎月の活動予定やその時々の思いが綴られていた。そうか7月は出勤が無かったんだ。

限られた情報ながらねこさんの過去の活動を知る。ねこさんがボーカルを務めるバンドや別編成ライブの動画を観る。「シャンプー水で薄めてごめんね」の歌詞を繰り返し読み、すっかり風化していた、若かりし頃の自分の悶絶するような記憶と歌詞の部分的なフレーズを無理矢理重ね合わせてみる。

Twitterのアカウントをフォローし、ツイートをちょっと遡る。初めてねこさんと出会った5月4日その夜の彼女のツイートに、初めて且つ3ヶ月遅れの呑気なレスをする。

そして黎明期のひどいインターネッツをくぐり抜けてきた老練な勇者は情報の海を泳ぐだけでなく躊躇なくドブさらいもする。一つの消息筋を掬い上げる。

まだねこNoteに情報は無い。しかしこれはいけない流れだ。自分が知らない、届きもしない領域で情報は共有され、情報弱者はただその波に飲まれるのみ。ちょっとだけがっかりしながらも、本当は実にがっかりしながらも一縷の望みを捨てずにいようと思った。

が、こう言う悪い事はその通りになるもので、自分がドブ掬いした22時間後に本人からそのメイド喫茶の「卒業」が発表され、あっさりと裏付けられる事になった。勇者は情報の海で溺れて死んだ。

2021年8月のコヒーレント

一度死んだ勇者は一週間後に転生し、さっそく体面を気にせず全てを受け入れる。偶然に任せてではなく予定を確認し、たとえご馳走様でしたの一言を発するのみであっても、残りわずかに許された機会を全うすることとした。

それにしても、あまりにもねこさんの事を知らなさ過ぎ、共通項が無さすぎる。いざ対面してもコミュ障を発揮して会話を切り出すこともままならないだろう。話したとしてもきっとぶっきらぼうだし、何か応答が返ってきても、自分の返事はきっと明後日の方向に飛んでいくのだろう。



それまで意識していなかったのだけど、年齢を重ねていく毎に、仕事を先に進めるためにじっと耐え忍んで糾弾や非難を受け止める事が増え、感情を捨てて人と話すことが癖になっていて、それがいつの間にか日常のあらゆるコミュニケーションに適用されていた。周りの人はそれを穏やかと解釈した。自分は歳をとって鈍くなっただけだと思っていた。

けどそんな内容が無くて向きも定まらない会話であっても、しがらみも駆け引きも何も無い会話は、泥沼の戦場の最前線で鎧を脱いで一休みするかのような、緊張がほぐれる感覚があった。
7月の間ねこさんと出会えなかった時間が、結果的には自分がこれまで鎧を着ていつも防御姿勢でいたと気づかせてくれる時間になった。

そして残り限られた機会、一期一会を繰り返すようにそのメイド喫茶に通う週末。

一方ねこさんはもうすぐお別れの日が来るなんて素振りも見せず、いつも通りツインテールを弾ませながら店内を歩く。

「ねえ、これみて、パワーワードだよね」

自分の目前に突き出されたけど老眼で焦点が合わず、ちょっと離してもらったスマホにはTシャツが映っていて、縦書きで [猫の下僕] とプリントされている。

自分は確かに変なTシャツを着るけど、これを見た特定セグメントの人々の反応は想定がつかない。内心躊躇しつつ、またこの前の様に笑って誤魔化した。ねこさんは再びお給仕に戻る。

しかしもう出会える機会は無い。そのメイド喫茶の卒業の日くらいはいいか、と、間もなく来てしまう最後の日に間に合うようその場で注文した。再びねこさんが通りかかり、意を決して話しかける。

「今、注文したよ」
「ホントに買ったんだー」

またある日、お店はいつもより空いていた。それまでは、きっかけになったアニメの劇中で主人公が座るテーブル席を割と好んでいたが、意を決して違う場所に座る。

ウェイトレスさん達がお客さんに出す食事の仕上げや飲み物を作るカウンター。カウンター越しにウェイトレスさん達と向かい合う、会話のチャンスが一番多い席。しかし自分は要領を得ず、頭上のモニターに繰り返し映るアニメの断片をぼーっと眺める。

カウンターの向こうで通りかかったねこさんがおもむろに話しかけてくれる。

「今から休憩ー。今日のお昼何がいい?」
「海鮮丼…、ここの海鮮丼って美味しいね」
「うん、美味しいよね。そうしよう」

しばらくした後、休憩のために海鮮丼をお盆に乗せて、行ってきますと裏に消えていくねこさん、いってらっしゃいと言う自分。たわいもない会話。

ほんとどうでもいい内容なのに、その会話ひとつひとつで自分の鎧が外れていく。

とうとう来てしまったそのメイド喫茶のねこさんお給仕最終日、自分は猫の下僕Tシャツ。家の出がけに妻は「妻の下僕」って書き換えようかしら、なんて一刺し。妻ごめん、ちょっと行ってくる。

混雑した店内、主役のねこさんは給仕したりインスタントカメラで写真を撮ったり忙しない。9月ねこさんの誕生日にはねこさん主催のイベントNECO Rockがあることを知り、参加を申し込んだのでこれで最後ではなくなった。

にしても、対話することはもう無いんだろうな、とツインテールを弾ませながら忙しそうに駆けまわるねこさんを遠目に眺めつつ思う。

繁盛するお店は入店待ちの列ができ始めていた。一度お店を出て、きっかけになったアニメの聖地の一つ、誰もいない神社の境内へ。

甚だ蛇足だがこのネコさんは去勢されたオスだ。

この後数時間秋葉原を探検し、再びそのメイド喫茶に。卒業セレモニーを見届け、閉店時間となる。そのメイド喫茶で最後となる会話、お会計の時に言葉を交わしたはずだが、あまり覚えていない。しかしこれでお別れというニュアンスの言葉は無かった気がする。

スタンプがいっぱいになり新たに追加されたポイントカードの名前欄に、ねこさんの文字で書かれた自分の名は

[まだ ますくめろん さま]

次に姿を見るのは2週間後のステージに立つねこさんで、当日は話もできぬまま自分はライブハウスを後にするのだろう、それが最後なのだろうなと心の片隅で思う。だけど "まだ" という副詞から、これからも会話を交わせる機会があるのではないかとも。

ちょろいもんだね。

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