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ブランチとコヒーレント (1)

プロローグ

築40年の狭い我が家には子供達の部屋はあるけど、仕事から寝に帰るだけだった自分には無い。

リビングの片隅に高さ180センチくらいの本棚があり、そこが自分の唯一のスペース。その中は、買った当時は最先端だったのに今は古典と言われる技術書、Nikonのカメラ3台と二十数年かけて少しずつ増えてきた40本弱の手動焦点レンズ、20本ちょっとの未開栓のLaphroaigというスコッチウイスキー。

それを背にしたところに座っての在宅勤務の毎日。それは突然始まり、妻や子供達の協力を得ながら1年超仕事をこなしてきた。社会人になってから何度も仕事で窮地に追い込まれてきたけど、くたびれはしても荒んだ気持ちを家に持ち帰ることはできなかった。

しかし在宅勤務になると、仕事中の姿をそのまま妻に見せることになり、心配される頻度が今までに無いくらい増えた。加えてリビングでくつろげない家族のストレスは溜まり、たまにそれも自分へと跳ね返ってくる。

リビングにいる時の自分の視野は仕事時のそれと同一となり、仕事とプライベートの区分けがつかなくなる。
自分の時間と空間が何かに侵食されていく感覚。

そんな感覚を纏ったままのゴールデンウィークは、ほんと久しぶりに暦通りの休みになった。外出が推奨されない連休の中、何週目かのアニメをまた1話からぼーっと観る。劇中には秋葉原の風景。最後に遊びで行ってから25年は経っていて、今の秋葉原を自分は知らない。ふと秋葉原を探検してみようかと家を出た。

2021年5月4日のコヒーレント

行きがけの空いた電車の中でアニメの題名から検索して、劇中のメイド喫茶のモデルになったお店のHPに辿り着く。このジャンルのお店では老舗で、メイドさんではなくウェイトレスさんと呼ぶらしく、配膳時のおまじないも無いらしい。自分に合いそうなのでまずそこを目指すことに。

目的地に到着すると、

「おかえりなさいませ旦那様ー」
「初めてですか、アニメご覧になっていらっしゃったんですか?」
「あの席今空いてますよ。ほらあそこです。よろしかったらそちらにー」

と案内された。

白とピンクの内装。客室の2辺はカウンターになっていて、テーブル席もそこそこある。入口から見て奥の壁は棚になっていてアニメのキャラクターグッズが並べられていた。店内は数人のお客さんがいて、思い思いの事をしている。

ウェイトレスさんが丁寧にメニューの説明をしてくれる。肩から袈裟懸けされた小さなポーチの肩紐には色々なものと一緒に [まゆみ] と書かれたネームプレートがついていた。自分の人生初めてのメイドさんはまゆみさんとなった。ウェイトレスさんだけど。

メニューを眺めると、劇中で見たオムライスが目に留まった。テーブル上の小さな銀色のベルをつまんで軽くチリンと鳴らし「世界がヤバいお願いします。」

食べ終わり、想像してたより豊かな香りの紅茶を口に軽く含みながら、ここに来るきっかけになったそのアニメとはなんの関係もない中古カメラ屋に次の目的地を設定。ここはお会計する事に。

お店の出入り口にあるレジの前に立つと、華奢なウェイトレスさんがカウンターでの仕事の手を止めてレジに向かってきた。光った絹糸のように照明を受けて輝く、胸まである濡羽色の髪はツインテールにまとめられていて、歩みの度にぽんぽんと跳ねる。

「ポイントカード作りますか?」

と尋ねられお願いすると

「お名前は?」

本名の苗字を名乗ったら、にゃはははと笑われた。マスクをしていて顔全部は見えないけど、笑顔で下がった目尻がマスクをしている分強く印象に残る。

「ハンドルネームとかないんですか?」

そか、秋葉原か。数秒目を逸らし返事ができずに固まっていたら

「じゃ、マスクメロンさん」

着ていたTシャツの絵がどストレートに採用された。

受け取ったポイントカードの名前の欄には [マスクメロン(仮)]と書かれていた。

ご馳走様でしたと挨拶してお店を後すると、ドアのベルの音がチリンと鳴ったので振り返った。そのウェイトレスさんが立っていた。

「私の好きな駄洒落は、『このキャベツ虫がついてる、きゃー別のに変えて』」

唐突に、あまり抑揚なく淡々と述べるその姿に軽いめまいを覚えつつ、返事に困り笑って誤魔化す。ふと見たネームプレートには「ねこ」と書いてあった。また来ますね、と階段を降りる。姿が見えなくなるまで、ねこさんはお店の出口に立って自分を見送ってくれた。

通りに出る。Tシャツで心地よい初夏の夕方。
おもむろにスマホを取り出す。自分の衰えた脳から消える前に、さっきの駄洒落と「ねこ」という名前をメモに入力した。

2021年6月のコヒーレント

それから週末になると、駅ビルのコーヒーチェーン店と中古カメラ屋とそのメイド喫茶に通うようになっていた。外出がためらわれる状況であり、ねこさんはいつ出勤するのか分からず、けどそのまま家に篭っていたらオンオフの切り替えができず。ふらっと寄った時にいたらいいな程度の期待をしつつ。

そのメイド喫茶に足を向けること何回か、運良く出会えた時には命名してもらった名前で呼ばれた。マスクしてるしほとんど会話も無いのによく覚えてるもんだなと毎回感心した。まあ、ちょっとだけ癖があるTシャツで記憶されているだけだろう。

出会えないこともあった。ウェイトレスさんのシフト交代時間を跨いでお店に滞在したことがあり、シフトに前後半があることを知る。なるほど、もしかしたらその日出勤していても別の時間にいたのかもしれない、休憩時間中だったかもしれない。平日と週末どちらが出勤多いのだろうか、週末だといいななどと考えながら過ごす事もあった。

ねこさんから見たら自分はその他大勢なのに、偶然出会えた回数がカウントアップされていく毎に、自分を識別してくれる事に気を良くして、在宅勤務の窮屈さを晴らす散歩から、僅か十数秒のたわいもない会話をすることに目的が移り変わっていき、滞在時間は短くもその頻度は増えていった。

しかし7月に入ると、ねこさんの姿を見かける事がぱたりと無くなった。

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