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がん体験備忘録 ♯9甲状腺編~⑨音楽会を乗り切った話 Part.2

前回、「音楽会を乗り切った話 Part1」を書いた。

 今日はその続きといきたいところだが、その前に少し寄り道

 手術後、嚥下障害はあったものの体には日に日に力が戻って、回復を実感していた。退院を前に日常生活に戻った時の声が出ない不安はあったが、それよりも「音楽会をどうにかしなければ」という喫緊の課題の方が重要であった。

 この時にふと思い出したのが、オーストリアの精神科医、ヴィクトール・フランクルのことである。

こんな人   1905~1997

 アウシュビッツ収容所を生き延びたフランクルは、後にその著書「夜と霧」の中で、「収容所を生き延びることができた人には共通点がある。自分にはやるべきことがあるという使命感をもっていること、待っている人がいると思うことだ(つまり、未来に希望をもっていること)」というようなことを述べている。(正確な表現は少し異なります。ご容赦ください。)

V.E.フランクル著 「夜と霧」 みすず書房



 収容所の過酷さと、たかだが手術後の自分の状況を重ね合わせるなんておこがましいにもほどがあるが、音楽会のことを考えて日に日に体に力がみなぎってくる自分を観察して、つくづく「するべきことがあること」が人間を強くすることを実感し、フランクルの言うことはその通りだなぁと思ったものだ。

 「待っている人がいる」というのも同様。家族はもちろん私の回復を心待ちにしているし、職場も「待っている」は大げさとしても、2学期には私が戻っていることを前提としていた。

 困難な状況に遭遇した時など、先人の知恵や思想は大きな助けとなる。中でもフランクルの実存主義の思想には今でも大きく助けられている。 

 「夜と霧」と合わせてこちらも私にとってはバイブル的な本だ。

V.E.フランクル著 「それでも人生にイエスと言う」  春秋社


さて、本題。

 約束した日、HARUちゃんとHAKUちゃんは、首はコチコチ、瞼はつぶれ声が出ない私の姿に少し驚いた様子ではあったが、いつもと変わらない明るさで、すぐに練習に取りかかってくれた。私は鎖骨から上がガチガチの状態でどうにかピアノ伴奏を弾き、5・6年生の曲それぞれ、ソプラノ、アルト、二重唱の3種類を録音することおよそ2時間。完璧な練習用音源を確保することができた。これで一安心だ。これを聞けば、子供は音を覚えられる。二人が歌ってくれた音源をCDに焼いたものを手に、2学期を迎えた。  

学校のテンションとしては、こんな感じ

 2学期始業式、体育館で立っているのもやっとだった。6年生の担任K先生が、始業式のあと子供を体育館に残し、話す時間を取ってくれた。子供達の前に出た瞬間、私の姿を見た子供達はシンとなり、心配そうな目が集まった。

 再び子供達の前に立てた嬉しさと同時に、子供達に心配をかけていることが申し訳なくなり涙が出そうになった。K先生が「Musiklehrerin先生は今声が出ないから、みんなの力がこれまで以上に必要なんだよ。小学校生活最後の大きな行事だから、みんなで力を合わせて成功させられるようにがんばっていこうね」というようなことを話してくれた。私は「こんな状態でごめんね。先生もがんばるから、みんなでがんばろうね」というようなことをささやくような声で言ったと思う。体育館は水を打ったように静まり返り、子供達は「聞こえたよ」とうなずいてくれた。

 その後、11月2週目の本番までどのように過ごしていたのかはよく覚えていない。とにかく毎日必死だった。HARUちゃんとHAKUちゃんが歌ってくれた範唱音源は完璧だった。4・5・6年生いずれも、美しい二人の声に聞き惚れながら集中して聴き、ソプラノ、アルト双方の音を難なく覚えた。私はといえば、マイク越しに「上手!」とか「その調子!」とか言いながらCDデッキのリモコンを押すだけ。その後のパート分けもスムーズに決まり、ほどなく二部合唱もできるようになった。HARUちゃん、HAKUちゃんの力がなかったら、とてもできない合唱だった。

 合奏練習は1学期中に子供達にある程度見通しをもたせていたので、「せんせー わかりませーん」の嵐はなく、自分達で練習を進められた。あとは、1学期に自分達でつくった音楽を舞台発表できる形に修正して恰好を整え、合奏の打楽器など個別練習が必要な子を呼んで、休み時間などに指導をすればよい。結局これまでの音楽会同様のペースで練習は進み、「ここまでできたらよし」のレベルまで到達させて本番を迎えることができた。

みんながんばった

 終わってみれば、がんが発覚する前に計画していたことは全て実施できた。10月の授業参観を見た保護者からのアンケートには、「先生の体が辛そうだった」という記述があったが、音楽会当日は、見ていた保護者もそれほど大きな違和感はなかったと思う。感想も温かな好意的なものばかりで、とてもありがたかった。これまで通り遜色なくこの一大イベントを終えることができたことに加え、何よりも子供達の振り返りの言葉が満足感に溢れていたことに、心底ほっとした。

 この後コロナ禍がやってきて秋の行事は一旦中止。その後行事のスタイルが変更になり、実質この時の音楽会が、今のところの私にとって「最後の音楽会」となっている。これまで音楽専科として主導した音楽会は計5回。病気のことは抜きにしても、この時の音楽会が、自分なりに最も納得できる内容のものとなった。

 この一大イベントを無事に乗り切ることができたのは、酷暑の中遠路はるばる我が家まで駆けつけて歌ってくれたHARUちゃん、HAKUちゃんのおかげ。
HARUちゃん、HAKUちゃん、ありがとう! このことはずっと忘れないよ!
もちろん、担任の先生たちの多大な協力があったことは言うまでもない。

 追伸…この春、当時の6年生が中学校を卒業した。やんちゃだったYくんが学校に遊びに来た時に、「先生!声、出るようになりましたね!」と言ってくれた!(^^)!

♯小学校音楽会




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