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1日3回×365日×83年=90,885回

父が亡くなる数日前の病院食(父撮影)。

毎日は食事と共にある。朝ごはんを食べて昼ごはんを食べて夕ごはんを食べる。何百回何千回何万回と食事をする。生涯が80年とすると(赤ちゃんのときとかがあるので厳密ではないが)、1日3回×365日×80年=87600回の食事をするという計算になる。父は83歳で亡くなったので3年足して3回×365日×3年=3285回。87600回にプラスして90885回。おそらく写真の食事はその最後の方だっただろう。90,880回目くらいだろうか。

そのうちの何度、父と共に食事をしただろう。父が作ってくれた食事は何度あったろうか。あるいは大人になった私が作った食事を父に振舞ったのは何回くらいだろうか。30回くらいだろうか。

いろいろなところに連れて行ってもらい、美味しい食事をいただいた。そのお返しに、拙い腕で食事を作ったりした。もっと料理が上手になって、作った食事を食べてもらいたかったと思う。実際に作ったものが美味しかったかというとそうでもなかっただろうけど、それでも自分の子どもが作った食事を食べるという行為は大事だ。僕はまだ経験がない。

今も食事をしながら、いつもではないけれど、食卓を通して父と一緒に居た記憶は甦る。甦るというか染みついている。食卓を通して、対面する人と対話し、かつてそこにいた人の記憶と対話する。そんな対話の場をできるだけ豊かにしたいと思う。豊かにするにはできるだけ美味しい食事を提供できればと思う。だから日々食事のメニューを磨きたい、と思うのは確かにひとつの理由ではあるけれど、もちろんそれだけではなくて、ただ単純に「美味しいものが食べたい」というそれだけであったりもする。

何気なく過ごしていると忘れがちなことだが、何にでも期限がある。いつも意識するわけではないけれど、例えば母と一緒に食事をするのだって、回数は1000回もいかないだろう。1回1回を大切にしたい。できるだけ上機嫌に。

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