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捨てるということ

<まだまだ捨てる>

父が使っていたプリンターが3台あり、それらももうほぼ使えないので処分することにした。他にもラジカセとか、古くてもう使わないだろうというものは捨てる。いくつかを車に積んで明日ゴミ処理場に向かうが(4回目)、それでもまだまだ家が片付いた感じはしない。

週末は兄も帰ってきていて色々と片付けをしていた。次々と何かしらが出てくる。父の退職金の書類とかが出てきて家族で驚いたりした。父は本当に何でも取っておく性分だった。というわけで、これからもまだまだ色々と出てくるだろう。


<海洋散骨>

片付けと同時に名義変更とか解約とか保険とか、そういう手続きも進めていく。主に母がそれらをやっているけれど、順番が回ってくれば自分がやることでもある。父の意向で遺骨は海洋散骨にする予定なのだけど、海洋散骨といってもただ撒けばいいというわけでもない。骨を粉にしたり、撒くための許可が必要だったり、当然そこには相当の費用が必要になったりと、今まで知らなかったことを知る。

海洋散骨のパンフレットを初めて見た。そんな世界があるのだなと感心したり、それなりの費用もかかることを知った。船に同上して撒くのと、業者さんに頼んで撒くのとでは費用が全然違う。船員をしていた父の意向は「できれば太平洋に撒いてほしい」というものだった。それを叶えるべく、葬儀屋さんに相談して候補を出してもらい、あとは日取りを決めたりする。

沢山のものを捨て、そういえば父の意向でもある散骨は「海に捨てる」ということで、生前「断捨離が嫌い」と言っていた父は多くのもの残し、それを捨てることを日々やっているし、父の骨自体も海に捨てる。今はそれらがやるべきこととして目の前にありやっていかなければならないのだが、そもそも「捨てる」ってなんだろう?持たなきゃいい、そういうことでもない。父がいなければ私もいなかった、ということでもない。仮に海上散骨に立ち会うことになり、船の上から父の遺骨を撒くとしたら、何を思うだろう。

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