映画『THE END』|#今日の1枚

イギリスのテッド・エヴァンズ氏が監督を務めて制作された短編映画『THE END』。彼自身もろう者であるそうだ。これまでのろう者やろう文化への知識・理解の浅さを恥じてしまう映画だった。

そもそもどうしてこの映画を観たのかというと、ドラマ『silent』がきっかけだった。世間ではめちゃめちゃ流行っていたが、私はすごく夢中になっていたわけではないけれども、「異なる場所にいる人々がわかり合おうとする物語」として興味があり、観ていた。

特に恋愛的な描写よりも、篠原涼子の演じる主人公の母親や、風間俊介演じる男性とろう者の関係性など、やはり「違う立場にいることで葛藤が生じるけど、雪解けで関係性が変化する」みたいな描写に心を温めながら観ていたのだった。

が、多くの人が指摘しているように、中途失聴の主人公の甥っ子に「優生」という名前が付けられていたり、その母親であり主人公の姉が「自分の子どもは耳が聞こえていてよかった」と泣いて喜ぶシーンがあったりで、ちょっとモヤモヤしていて。

そこで、こんな感想動画を見つけた。日本手話を母語としている方が、辛辣だけれども決して無視してはいけないのだろうなと思わせられる意見を発していた。

・日本手話を母語とする方から見ると、作中での手話描写はかなり違和感がある。
・ろう者の役を聴者が演じていることもあり(夏帆がそうだった)、日本手話を母語としている人からみると「ネイティブではない手話」にしか見えない(例えば海外の映画で、日本語を母語としない人が、あたかもそれが正しいかのように日本語を扱っているのと同じ)
・そもそも日本手話は消滅の危機にある「言語」なので、間違った手話が全国放送として流れるのは危うい

以上のことが語られていて、「そもそも日本手話というのは一つの言語であり、ろうコミュニティなどの一つのカルチャーがある」ことを今さらながら学んだのだった。

そりゃ、そうだ。私は日本語を母語としているので、同じ日本語を母語としている人とコミュニティを作るし、たまたま私は聴者なので周囲にそういう人も多いわけだ。でもろう者は生まれつき聴こえないことが「普通」なので、「聞こえなくてかわいそう」なんてことはまったくないのだ。そんな当たり前のことを、今さら改めて認識したのだった。
(※念の為付け加えておくと、今は『silent』に登場した佐倉想のような中途失聴者ではなく、言語獲得前から音が聞こえないろう者の話をしている)

その流れで、ラジオ番組「アフター6ジャンクション」で過去に放送された「映画で学ぶ"ろう文化"特集」を聴いた。そこで映画作家の牧原依里さんが、ろう者が登場していたりろう文化を描いた映画作品として『THE END』をお薦めしていたので、観てみたのだった。

恐ろしかった。国が治療費を賄う形で、ろう者を聴者のようにする「治療」を施す物語で、ドキュメンタリーのような映像が流れている。

何度も繰り返される「治療することで、ろう者により良い生活を提供したい」という治療提供者の言葉。「より良い」という言葉の無慈悲さよ。「ろう者は耳が聞こえないかわいそうな存在だ」という前提に立っていて、聴者になることで「より良い生活」が得られるのだと。まるで、ろう者の生活に何かが欠けていると言わんばかりの言葉だ。

映画は1987年から順を追う形で描かれる。10年、20年と経つごとに、多くのろう者は聴者になる。ろう者はいなくなり、ろうコミュニティという独自のカルチャーも姿を消していく。それを世間や国は良しとしている。治療を受けたがらないろう者に対して、「え、なんで?」というような態度を周りはとる。「聴者になったら、幸せになれるのに」と。

すべての人の属性やアイデンティティは、良し悪しを付けられるものではない。マジョリティがマイノリティをあわれむのは、非常に図々しいことなのであるはず。そのあわれみは、一体誰のものなのか。あわれむことで失われる居場所やコミュニティ、アイデンティティがあるのならば、結局誰が得をしているというのだろう。そして怖いことに、あわれみを受ける方の行く末を決めるのは、いつもあわれむ側=マジョリティでもある。

なんとも恐ろしい物語だ。そしてこれは物語ではなく、実際に近いことが現実でも生じているのだと牧原さんは話していた。

イギリスの場合には、聴者の学校に入るためには人工内耳をつけなければいけない、というのがあるんですね。つけなければ(聴者の学校に)入れないというのがあるんです。
(中略)日本では今、ろう学校で日本手話ではなくて、やはり日本語対応手話の方が多いですね、使われるのが。声をつけて喋りながら手話をしてください、という。そして今、札幌のろう学校では日本手話のクラスが閉じられようとしているんですね。日本手話のクラスがあるんだけど、それが閉じられようとしていて、今その反対活動とか署名活動をしているんです。
引用元:映画で学ぶ「ろう文化」ラジオ特集・文字起こし【後編】
https://www.tbsradio.jp/articles/53741/

世の中は、どうしてもマジョリティのためにデザインされている。これは聴者/ろう者に限ったことではなくて、わかりやすい例えで言うと世の中に右利きの方が多いがために、ハサミや何かの取っ手などで左利きが不便をすることが多いことが多いわけだ。それもあってか、マジョリティはどうしても勝手に自分を優位だと考えて、自分とは異なる立場の人やマイノリティを「かわいそう」と思うことが多い。

でもそれは、自分の世界をすべてだと思う偏狭な考え方なのだなと感じる。見方を変えれば自分だってマイノリティに当てはまることなんていくらでもあるし、何かの拍子でいとも簡単に「かわいそうな人」に陥る可能性があると言うのに。これは聞こえるかどうかではなく、「結婚する/しない」「子どもをもつ/もたない」といったことにも当てはまる。

聴者/ろう者に限らず、どんな属性にあっても、一人ひとりの居場所や大切にしているものを尊重できる人間でいたいなと思う。これは放置ではなく、その場所で困っている人がいれば、手を差し出す。必要な助けがあれば、施す。ただし困っているからといって、その居場所を「かわいそうだ」と決めつけて侵さない。そんな人間でいたいし、社会であってほしい。何かを貶める考え方は、最終的に回り回って自分のことすら貶めることにも繋がるのだから。

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