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音楽家のジストニア体験集1 シューマン、西川さん他

この記事は『演奏不安・ジストニアよ、さようなら 音楽家のための神経学』の補足、深堀りです。
本は神経系全般についてのため、ジストニアの症例がありません。
こちらに記載します。

ローベルト・シューマン(1810〜1856年)

シューマンが16歳のとき、姉が心の病で自殺をしてしまい、父もその年に亡くなり、彼は鬱状態に陥ります。

右手を故障、ピアノを断念

シューマンの手の障害に関しては、1978年、British medical journal4月8日号に「Shumann’s hand injury」が載り、以後、論争が繰り広げらます。膨大な量あるので、ポイントのみピックアップします。

義理の兄弟 によると、シューマンは、スプリング付きの音の出ない携帯用鍵盤を旅に持参していた。

彼の手の障害は、指を鍛える器具を使用したため。指を独立させるために練習のあいだ指を中に入れて引っ張っておく吊り紐、第 4指を鍛えるため、天井に取り付けられた加重のかかった滑車など。
第 3指は不自由になってしまい、右手の他の指も障害されてしまった。

妻のクララ・シューマンは、「原因は固いキーボード模型の上で練習したためと思っていた」という引用もある。

シューマンは、 1831年(21才)、伝記的記述に「テクニック的な練習をやりすぎた。右手が不自由になってしまった」と記している。
1839年「何本かの指は本当に弱くなってしまった (間違いなく、若い頃たくさん作曲し、演奏しすぎたためである)。そのため、私はこれらの指をほとんど使えない。」

作曲家として大成

ピアニストの道をあきらめた彼は、音楽評論家、作曲家として活動していきます。
ピアノの師であったフリードリヒ・ヴィークの娘で、天才ピアニストだったクララと恋に落ち、この時期にシューマンが作曲した曲は、クララのために書かれたピアノ曲が主でした。

義父ヴィークに結婚を反対され、法廷抗争を経て、1840年(30歳)にクララとやっと結婚します。結婚した年は、たくさんのリート、歌曲を作曲しました。

クララとともに、バッハやベートーヴェンの楽曲から学び、1841年(41歳)には初となる交響曲を作曲します。
1852年(42歳)、弦楽四重奏曲やピアノ三重奏曲など室内楽曲を完成させました。しかし、夏には、神経過敏、鬱、聴覚不良、言語障害を発症してしまいます。

20年以上に渡ってシューマンは多くの不可解な症状、眩暈、耳鳴り、けいれん、自律神経症状、記憶障害、精神異常などを呈します。
1856年(46歳)入院先の精神病院にて死去しました。

まだジストニアという疾患がなかった

この頃はまだ、ジストニアという病気の概念がなく、シューマンは梅毒治療の水銀による神経障害と考えられていました。
1850年以降、演奏中のピアニストの指が意思に反して曲がる症状が報告されるようになり、機能性痙攣、職業性神経症と呼ばれて、フォーカルジストニアの概念ができてきます。

シューマンは、ピアノは弾けませんでしたが、1832年以降、彼は全148曲ほとんどをペンで書き、自筆譜の写真には、細かい音符がぎっしりと書き込まれています。また、「Neue Zeitchrift fur Musik」を執筆し、数百通の手紙を書いています。拇指と示指、中指でペンを把持することができ、書く運動は可能だったと捉えられています。

現在、シューマンの手の故障は、梅毒や水銀による神経障害説や後骨間神経ニューロパチー説ではなく、ジストニアであったとする見方が有力です。

金子隆博さん

超人気バンド、そして、発症

1964年生まれ。1983年からサックス奏者として活動をスタートし、 米米CLUBのメンバー、かつ、音楽面をプロデュースを担当する。
作曲家、BIG HORNS BEE、NHK歌謡番組「うたコン」指揮者
1995年、映画『河童』で第18回日本アカデミー賞音楽賞優秀賞を受賞
2021〜22年、NHK『カムカムエヴリバディ』にて劇中曲を担当

『カムカムエヴリバディ』再びジャズがドラマを動かす!より
〜42歳のとき、サックスを吹こうと思っても、サックスをうまくくわえられず、意思に反して首が逃げてしまう。神経科で、震えを止める薬を10種類以上処方されるものの、まったく効果が出ない。あらゆる東洋治療も行いましたが、治る気配がなく、その状態が4年余り続き、ふとしたきっかけでジストニアという病名を知りました。

1つのフレーズを吹けるように繰り返しやるものですが、自分としては喜々としてやっていることが、実は体にとってはちょっと負担になっていたということなのだと思っています。
サックスに関しては、プロとして19歳の時から本気で演奏してきたので、渡辺貞夫さんのように「一生かけてサックスと向き合い、自分の音を見つけていこう」とずっと思っていたので、それなりのショックはあったと思います。

3年ぐらいはサックスを吹くことができず、どうしようか悩み続けていました。42歳だったので、演奏以外に音楽のクリエイティブな楽しさも十分に知っていました。作曲をしたり、音楽で自分なりに表現できることって何だろうと考えるようになりました。
発症する数年前から毎年ニューオリンズを訪れて、生のピアノにとても感銘を受けていたので、練習しようと決意。ちょうど米米CLUB再結成の時期とも重なりました。

自分自身のソウル・ミュージック

『カムカムエヴリバディ』のために作った音楽でもありますし、自分の人生を表現した音楽でもあると思ってます。自分のソウルとなる音楽を提出して、皆さんに聴いていただきたいと思って作った曲です。
自分にとってのソウル、自分にとってのゴスペル、自分にとってのジャズというように、自分が一番好きな音楽を当てはめて想像してもらうとわかりやすいかと思います。

北村英治さんは92歳です。それなのに一日8時間、「もっとうまくなりたい」「もっといい演奏したい」といまだにバリバリ練習されています。
「野望は92歳まで音楽を」年を重ねるほど人生は面白い より

次の世代へ

1990年代、米米CLUBは超人気バンドでした。『君がいるだけで』は売上289.5万枚。最近で言うところのNiziUや三代目 J SOUL BROTHERSのようなパフォーマンスバンドでもありました。

金子さんの20代30代は、超人気、多忙、メンバーの脱退やバンドの存続問題など、精神的負担は大きかったと思います。金子さんもシューマン同様、演奏ができなくなったことをきっかけに、自分の楽器以外で、やりたいことに進まれました。

『カムカムエヴリバディ』での作品を通して、先輩音楽家が歩んできた道を、次の世代、音楽家に伝えているようです。

西川悟平さん

15歳からピアノを始める。
1999年ニューヨークへ招待され、 同年6月、リンカーンセンター・アリスタリーホールにてニューヨークデビュー。2年後の2001年、左手の指が勝手に曲がり、程なくして両手の指が内側に曲ってしまう。病院を何軒も回り、局所性ジストニアと診断される。

『「二度とピアノを弾くことはできない」という宣告。死が頭をよぎりました』リハビリにより、右手の機能と左手の指2本を快復させ、現在に至る。
2021年東京パラリンピックの閉会式でピアノ演奏を披露。

西川悟平さんの本、『7本指のピアニスト』より引用です。
15歳で音大受験を志し、「僕は皆の倍の時間練習する!」と意気込んだ。
毎日ハノン全60曲全部弾き、ツェルニーを暗譜し、バッハ、ベートーヴェン、ショパンなども。毎日5〜12時間練習していた。

不合格、劣等感

西川さんは、大阪音楽大学短大から大学への編入試験に3年連続で落ち、絶望します。先生から「いくら頑張っても始めたのが遅いあなたにはちゃんとした演奏は無理」という内容のことを言われます。そのときの言葉がリフレインするようになり、強い劣等感にさいなまれます。

3才くらいから英才教育を受けてきた演奏家と15才からピアノを始めた僕を比べると、英語を3才から話す人と学生になってABCを覚えた人くらいの差があるんじゃないか…。ずっと抱き続けていたコンプレックスです。
西川悟平『7本指のピアニスト』より

自分で気づけない、力みや心理的負担

心理的な傷は記憶にあっても、本人がジストニアやイップス症状との関連がわかりません。また、15歳からピアノを始めたら、運指に力が入っていた可能性は大きいです。自分自身は力が入っていることに気づけません。

力が入った状態で運指していた可能性、運指のトレーニングのような練習を毎日たくさんする、編入試験の不合格や先生から言われた言葉など心理的外傷、演奏にコンプレックスがあるなど、ジストニアになりやすい要素が重なっていたと思います。
「ジストニアやイップスになる共通点」

音楽家として大きく成長

「バカがつくほどポジティブ」な西川さんの破天荒なお話は、痛快です。
音楽は、何才から始めようが関係ない。様々な経験を積んだり、困難を乗り越えるからこそ、音楽家として大きく成長するということを教えられます。

智内武雄(ちないたけお)さん

1976年生まれ。父は絵描き、母は声楽家。生まれる前からピアノが家にあり、物心つく頃にはすでに弾いていました。以下、左手のピアニスト・智内威雄 公式サイトより

7歳より東京音楽大学付属教室、同付属高等学校、同大学ピアノ演奏科コース。
2000年 ドイツ・ハノーファー音楽大学に入学。グリーグ国際コンクール入賞。マルサラ国際コンクール3位入賞。

ドイツにて、2001年 右手に局所性ジストニアを発症、大学を休学し付属医療機関にてリハビリを開始。
2002年 教授のすすめにより、スクリャービンの前奏曲と夜想曲、バッハ・ブラームスのシャコンヌ等、左手の音楽世界と出会う。
2003年より左手のピアニストとして活動を再開。

帰国
2006年に広島交響楽団とラヴェルの「左手のための協奏曲」を共演し絶賛され、同年日本デビュー。
2008年 兵庫・大阪を中心としてサロンコンサートを積極的に行う。
2010年 歴史的楽曲(戦争などの厳しい状況下でも音楽を心の支えに生きたピアニスト達の歴史、優れた楽曲)の復興と、片手演奏の普及を目指し「左手のアーカイブ」プロジェクト設立。

リハビリから左手のピアノへ

小さい頃から壁に立ち向かうのは慣れていました。1日30分やればいいリハビリを6時間はしていました。

日常の動作が出来るまで回復はしたものの、演奏できるまでは戻らないとわかった時は、自分が空っぽになってしまったような感覚でかなり落ち込みました。他の楽器や声楽などにも挑戦しましたが、自分にはしっくりきませんでした。

恩師の支えでピアノに向き合うことができ、スクリャービンの曲の表現力に改めて気づいたことで、左手の演奏で、ピアノの世界で生きていこうと決心したんです。

音楽は本来、心の回復や癒しのために必要な素晴らしいものです。左手のピアノはその事を教えてくれます。

両手は音の数が多い分、音が濁りやすい。左手だけだと音が少ない分、響きをコントロールしやすい。響きでの表現がより豊かになる。
両手が小説のような長文で、左手が短歌のような短文でしょうか。素朴で深い魅力があります。
「左手のピアニスト 智内威雄さん」より

熱心さ

智内さんは、シューマンと同じく右手で弾けなくなりましたが、ピアノ以外の道ではなくピアノを続けられました。
ドイツ留学中にコンクール出場、また、右手を使えなくなるほど練習し、リハビリもストイックにやってしまうなど、ジストニアになりやすい素因はあったように思います。

プロにもアマチュアにも左手のピアノの魅力をしっかり伝える、それを通じて社会に音楽体験することの素晴らしさを広めていくことが、僕の使命、そして存在意義だと考えています。

とても、感銘を受けました。ご活躍をお祈り致します。

次回は、他の演奏家の方の体験集です♪

『演奏不安・ジストニアよ、さようなら 音楽家のための神経学』
春秋社のページへ 目次あり♪
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新堂浩子HP;https://www.music-body.com/


3/22発売の本『演奏不安・ジストニアよ、さようなら:音楽家のための神経学』にまつわる記事をアップしています。 読みたいと思われている方、読んでもっと理解したい方のために、 わかりやすい説明、補足や裏話を載せていきます♪