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人は皆ピン芸人と思え。

はてさて。自分の整理のためにここにメモ書きをしているんだけど、そうすることで頭が整理される気がする。出来るだけ毎日書きたいんだけど、なかなか腰が重くなってしまうのは気を張っているからだろうか。


自分が自分でいるために何が出来るんだろう。たくさんやりたいことはあるんだけど、ぐちゃぐちゃになってしまうからと一旦全部やめて、占いだけに絞ってやり始めたのが一年前のこと。そう、路上に出てから一年が経つのだ。早い。その間に何が起こったのかというと、自分自身はただ占いをしながら少しづつ再生する時間を過ごしていたように思う。前より少しは客観的に、自分を見ることができて居たらいいな。

占いも一年続けてみると、それなりの人数を占っていて、中にはリピートしてくれる人なんかもいてありがたい話だ。後半はもう少し、zoomやら動画やら違う可能性も模索して行きたい。特に動画とこのnoteを日々のワイフワークにしたい。最近やっと自室にネット環境を整えたので、これで気兼ねなく引きこもりが出来るというもの(前から引きこもりだけれど)。

そういえば、夏休みになった。今回の休みは久しぶりに工作をしようかと思って材料だけは用意したんだけど、むしろ工作は疲れていても出来るので平常時にやってもいいのではないかと思いなおしたり。むしろこうして何記事か書いたり、メニューページを作り直したりする方がいいかしら。とかとか。いずれにせよ何かしら作ったり考えたりするのを止めなくていい時間というのは自分にとっては大変嬉しいものだ。


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基本夜型なので、昼間は植物の世話や洗濯をしながら過ごして、夜の方がなにかするのにもやる気になるんだけど、反対に昼間は出かけなきゃいけないような焦燥感に駆られる時がある。これもきっと名残で、もうすぐ消える単なる勘違い。外に出れば何か有意義なことをした気になるというのは、一種の刷り込みなのだと思う。実際には自宅で何か作ったりしている方が有意義なのに。「何か大事なものは自分の外側にある」ような錯覚あるいは刷り込みを持っているのかも知れない。でもそれはまやかしで、何かを消費することで何かをした気になるのは危険な気がする。誰かと会った、何かをした、あるいは何かを消費した。自分の場合、そういう外的アプローチで自分が満ちることはないんだけど。誰とも会わない時間より、誰かと会っている方がいいはずと感じるのは私ではない誰かの成分なのだと思う。

現に、一人暮らしをしていて寂しいと思ったことはない。逆に、実家にいたり誰かといる方が虚しいことが多い。もちろん相手によるけど。自分とは全く違う理念で生きている人といるのはとても苦痛なのだと思う。

基本的には人は一人なのだと思う。適度な距離感で接している方が楽で、人の輪の中にいるようで、その気になればするりと抜けられる。そのくらいの適切な距離感で人と接していたい。

基本的にヒューマノイドというのは群れないものなのだという。群れないというと適切じゃないかな。でも、個人と個人が自立して立っていないと、手を取り合うことはできないのだと思う。そして、個々人の特性が全く違うのがヒューマノイドなのだから、もともとそれぞれ自分だけで完結することが可能なのだろう。基本的にはピンなのだ。ペアやコンビではなく。ピン同士がコラボすることはあるけど。ずっとピンなのだと思う。

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