「理解」という暴力
個別化されたこの世界で、人と生きるために絶対にやってはいけないことと、するべきこと。
痛覚
ヴィーガンが動物を食べない理由は、動物は殺される時に恐怖し、痛がるように見えるからである。裏を返せば、植物は痛がっていないように見えるから食べて良いのである。
では、痛がっていなさそうな植物が本当に痛がっていないかというと、それはわからない。少なくとも、「傷つけられた」という情報を全身に伝えるホルモンのカスケードは存在するらしい。
キャッチアンドリリースの精神において、魚は顎に針が刺さっても痛くないのかということが議論されてきたが、後に痛覚があるということが発見されたという話もある。
他者性
究極的に、他者は理解できないものである。これは絶対的な原理である。我々は他者そのものを知覚することができず、その表象から間接的に推測することしかできない。
動かない生物が痛がっているかどうかはわからないし、ひょっとしたら菌や石、空気、酸素原子、さらに言えばロシア連邦やペガサス、四角形なんかも痛がっているのかもしれない。目の前にいる人が傷ついているかどうかは、四角形が痛がっているかと同じくらい「わからない」ものなのである。まずはこれを理解して欲しい。
しかしながら、いや、だからこそ我々は、暗闇の中で仲間を探すように、お互いを求めて手を伸ばすのである。
個体的存在者は、それに触れようとする、こちら側のアクセスから、どこまでも退いて隠れてしまう。それゆえ、個体的存在者と直接的に関係しようとはたらきかけても、それはつねに挫折せざるをえない。ただむこう側から発せられる表面的な性質を媒介にして、間接的に関係することしかできないのだ。
感情移入と自己投影
電線に止まるカラスを見て、彼らに対して「あんなに高いところにいたら怖いに違いない」と思う人はいないであろう。しかし、題材が替わればそういう誤謬をする人が多い。
感情移入というのは、ある状況に置かれている他者の心情に共感することである。対して自己投影というのは、もし自分がその環境に置かれたらどう思うか、をイメージすることである。
ゴミを漁るカラスに対して「お腹が空いていたのかな」と思うのが感情移入で、「ゴミなんか食べてかわいそう」と思うのが自己投影である。
この2つを混同すると、最悪な事態が起こる。もし自分だったらこう思うから、きっとその人も似たような感情になるだろう、という誤謬である。黄金律に代表されるこの言明によって、無差別殺人のように抽象と捨象が行われ、多くのマイノリティが迫害されてきた。
この安易な演繹は、ほんの少しであれば他者を理解できるのではないか、という傲慢の産物でしかない。ここでいう「理解」とは、対象を自分の文脈に落とし込むことである。「共感」と「理解」は、絶対に混じり合わない。他者はどこまでも他者であって、あなたの物語の登場人物ではない。
父性
そんな中で、もし我々が社会を形成できるとすれば、持たなければならない物は「父性」である。
他者とは分かり合えない以上、ある人にとって幸せな環境はあなたにとって幸せではないかもしれない。皆が幸せな世界は、皆がそれぞれそれなりに不幸な世界である。それを許容する心の器、それが「父性」である。
それは「忖度」と言ってもいい。お互いが相手の反応を伺いながら、積極的に不幸になる。皆が、「理解できなさ」に対して投資を行う。そうやって緩く首を差し出しながら、コミュニティ全体がリゾームを形成する。
人のことを「理解」できると考えることは、暴力と同じである。
理解できないならば、ありのままを受け入れるだけの器を持たねばならない。
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