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『フォードvsフェラーリ』

2020年も始まったばかりだが、早速今年ベスト級の「アメリカ映画」の傑作を見たので、簡単に感想を。

フランスの24時間レース「ル・マン」でフェラーリ社に勝利しようとするフォード社にレーシングカー開発の任を託された元レーサーのエンジニア、キャロル・シェルビーと、ドライバーのケン・マイルズの友情とフォード社重役との対立、彼らシェルビーアメリカンのプロフェッショナルとしての仕事が描かれる。ネットで指摘している人もいたが、内容的には『フォードvsフェラーリ』というより『フォード』、或いは『フォードvsシェルビーアメリカン』とでもいうような内容。タイトルだけがこの映画で唯一外しているところだといえる。

こう言ってしまえるくらいにこの映画はタイトルに反してフェラーリ社の描写はほとんどなく、基本的にはフォード社、さらに言うとシェルビーアメリカンの人々の仕事にスポットを当てている。整備工場での改善と、試運転が繰り返し。車の走行シーン以外でこの映画の大部分を占める会話劇も基本的には仕事の話で構成される。山田宏一が『ハワード・ホークス読本』にて、一連のホークス映画における男たちをプロフェッショナルの友情集団(『コンドル』のケイリー・グラントをはじめとする民間航空会社の人々や『リオ・ブラボー』、『エル・ドラド』のジョン・ウェインをはじめとする西部の男たちなど)と言い表していたが、本作のシェルビーアメリカン一同に自分は少なからずホークス映画の彼らを重ねてしまったし、まさに『リオ・ブラボー』の保安官事務所や、『コンドル』の民間航空会社のように、本作の整備工場やサーキットは一連のホークス映画にあったようなプロフェッショナルのたまり場としてのバイブスを確かに連想させた。一切その対話、やり取りでは湿っぽくならず、気骨でプロフェッショナルな男たちが本気で遊んでいるような感覚。

逆に、彼らの友情、そして待っている苦いエピローグを紡ぐ所謂「ドラマ」というエモーショナルに機能する部分は、セリフや会話ではないショットや細部の反復の演出によって託されている。家の向かいの公道、投げられるレンチ、閉まらないドア/トランクなど。かつてあいつともみ合い喧嘩した場所で、その息子と話す。映画の前半の様々な光景が後半、シチュエーションや構図、小道具の反復によって、観客の頭に反芻される。きわめて映画的なエモーショナルの高め方だろう。思えば、ジェームズ・マンゴールドは、これこそ現代によみがえったアクション活劇!といいたくなるような、上下左右、落下を捉えるアクションで画面が停滞した物語の語り口を一切しない『ナイト&デイ』や、ミュージシャン伝記ものでありつつ、きわめて繊細で映像的細部が豊かなラブストーリーに仕上げて見せた『ウォーク・ザ・ライン』を見ても、物語の語りやドラマをこそ、画面内のアクションや細部に宿らせる映画作家であった。そしてそれは、脚本単位で制作されやすい(あるいは見られやすい)現代の映画には非常に少なくなっている語り口の上質さであり、映像の豊かさである。例えば、前述したハワード・ホークス監督の『コンドル』のマッチやコインなどの小道具遣いの妙はどうだろう。酒をおごるという行為のあの映画の中での重要性は。これらの視覚的な語り口は、前述した気骨さと合わせて、かつてのアメリカ映画からジェームズ・マンゴールドが受け継ぎ、何とか現代の役者を使った現代の映画でやろうとしている部分だろう。そういう意味での彼の、純アメリカ映画作家っぷりは、今作で十分に堪能できると思われる。

言及したいシーンがあと二つほどある。一つはマジックアワーの中、ケン・マイルズがコース上で息子と会話をするシーン。マイルズと息子がコース上の地べたに座り、その後ろにはマジックアワーが照らし出す薄明りのように広がっているビル街が見えるというこのショット。奥行きのある画面、照明撮影ともに素晴らしく映画らしいライティングなのは言わずもがなだが(ちなみに多くの人が指摘しているように自分もこのシーンで制作に名を連ね、前任の監督候補であったマイケル・マン御大のことは連想した)、そこで彼は息子に、本物の奴だけが見えるコーナーの話をする。前から彼らを捉えているカメラの向こう側の光景について話すマイルズの言う7000回転で初めて味わえる世界は、そこにかぶさる電子音っぽい劇伴の未知的な雰囲気も含め、まるで見ているこちら側には想像できない、ましては画面内に収まることのない世界の話をしているようにも思う。勿論クライマックス、7000回転の向こう側の世界を味わっている彼と、減速というアクションによって現実に戻ってくる綿密な編集によって紡がれたショットの素晴らしさも筆舌しがたいものがある。

しかし自分が二つ目に言及したいのは、ラストシーン。マイルズの息子と会話をしたシェルビーは、かつて自分が何度も彼を迎えに来ていた場所で一人動揺したように車に乗る。自分はその直後に画面外から聞こえるクラクションの音と、それに不意に振り向いてしまうシェルビーの細かいアクションに不意打ち的に涙腺を刺激された。マイルズという男は向こう側の世界に行ってしまった。それは到底凡人など到達できない領域であり、その世界は決して画面に収められることのない世界なのだ。まるで向こう側の世界から鳴らされたように聞こえるクラクションと、それを聞いて反射的に振り返ってしまう何気ないこの一連を捉えた芸の細かさは、アクションにこそ物語の核を宿らせるマンゴールドの「アメリカ映画的」資質とも一致する。その振り返りの後、車はスピードを出し前進する、この映画が正真正銘の「アメリカ映画」の新たな傑作であることを意味する完璧な幕引きだろう。

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