フライヤー

私が演出をやる理由

演出

それは、とてつもなく幅広くて、すべてを分かっているフリをしながら、自分の中の偏見と向き合う、そんな役割。

私は、そんな演出をやり始めてもう3年以上になりました。キッカケ自体は単純でしたが、今では天職だと本気で思っています。

演出をやるためには、キャラクターにのめりこむことが、とても重要になってきます。この時、この人はどんなことを考えているのかと、考えながら指示しなければなりません。
私はどうやら変なクセをもっているようで、キャラクターに対して感情移入しすぎるところがあるようです。
「あー、この人、今DV受けてる人みたいな感じだろうなー」
「あいつは自分のことしか考えられんのか」
そうやって考えていくと、だんだん苦しくなってきて、最近では頭が痛くなるようになりました。だから、ドラマも面白くなる前に見られなくなってしまう。あまりにも損です。

だからこそ、私は演出という役割にのめりこめるのかもしれないとも思っています。客観的な視点を忘れずに、なおかつ第一人、第二人視点からも、ものを見れるって、それは得じゃないですか?
このnoteを書いてる時点で、演劇の魔物に取りつかれているのかもしれないけど、でも、私にしかできない演出があるから、演出って楽しいです。

そんな演出をするときに、大事にしていることがあります。それは、自分勝手にならないこと。

演出という仕事は、自分と自分じゃない人の感覚をすり合わせて統一感を持たせるようにする役割だと、私は思います。だからこそ、ほかの人の感覚を大事にしたい。
私がすべてを指示すれば、役者は私の操り人形になってしまいます。もちろん、すべてが自分の感覚ですから、世界観は統一されて、少なくとも演出にとっては最高のものが出来上がるでしょう。しかし、それではいつか、自分の中にある引き出しがカラッポになってしまいます。自分だけでこじらせていく、ということは大変に難しいことなのです。すくなくとも私にとっては、無理です。

そもそも、演じるという単語は、英語に訳すとplay、遊ぶということなのです。これは、人の感覚を共有する遊びです。自分じゃない何かの気持ちを少しだけ理解することが、演劇の醍醐味だと私は考えます。だから、役者にも、自分が自分じゃなくなる瞬間を存分に楽しんでほしい。自分の中にある、自分じゃないと思い込んでいる何かに向き合って、すこしでいいから受け入れてみてほしい。きっと、それは楽しいことだけではないでしょう、でも、向き合う前と後では、まったく違う自分になれているはずです。そういう成長を見たくて、私はこの役割をしています。

自分を乖離させる気持ちよさ。あなたも、演劇を通して体験してみませんか?(なんか宗教勧誘みたいになっちゃった・・・。)

今回は、1時間にカットしたバージョンです。しかもリーディング公演。私みたいに、物語に入り込んで苦しくなっちゃうような人は、こういうリーディングみたいなとこから演劇を見てみてください。きっと魔法にかかったみたいに、演劇がやりたくなったり、見たくなったりすると思います。というかそうなってほしくて頑張ってます。
10/19は、ぜひ長野大学にお越しください。ボランティアのついでとかでも構わないので、来てほしいです。

よろしくお願いします。

レッツ!クマ囲みライフ!