幡随院長兵衛の墓

浅草源空寺

幡随院長兵衛の墓(1622〜1657?)

仇敵水野の墓に行った次の日、ちょうど浅草へ行くことになったので訪れることができました。

父親は唐津藩士で元は武士、という設定が一般的なようですが真相は不明。
本名塚本伊太郎

幼少の頃、当時神田にあった幡随院の和尚にひきとられたことからこの二つ名がついたそうです。

妻おきんの父親が花川戸で口入屋(人材派遣業)を営んでいたことから稼業を継ぎ、男伊達の侠名とともに、家光治世の土木建築バブルに乗ってその名を知られるようになりました。

あくまで博打打ちである江戸後期の国定忠治などと違って、手に職を持ちながら荒くれ者をまとめあげたところが真の侠客たるゆえんでしょう。
戦後の動乱を生き抜いた山口組三代目田岡一雄も、おれは幡随院長兵衛に倣う、やくざは手に職をもたなければいけないと常々いっていたそうです。

自分が水野に殺されることで町奴、旗本奴の対立に終止符を打ち、江戸町民を安堵させたいという気持ちから覚悟を決めて水野邸へとおもむく長兵衛。
人は一代、名は末代

咲いて牡丹と呼ばれるよりも、散って桜の幡随院

身内はかわいそうですが、おれが責任をとる!と言い切る腹の太さ。理想の上司ですね。

お墓のほうはといえば、墓地の入口すぐのところに夫婦ならんで建っています。うしろには小さなお地蔵さんも。
同墓地には日本地図で有名な伊能忠敬の墓もあります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?