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機械と生きるための覚書

機械に対して無性に腹が立つことがある。例えば他人に、人に同じ事をされたとしても何とも思わない様なことでも。友人達は機械に対して怒ってもどうにもならないので無駄だ(人間に腹を立てる方が自然だ)と言う。
 私はそうは思わない。思っていないから腹が立つのだと思う。怒る理由があり、怒るという行為でそれに応えられると考えているのだと思う。
 機械、というものを暴力的に簡単に言えば「“働きかけ(action)ると反応(reaction)がある”という仕組み」だと思う。これが反応しない場合というのは、働きかけ(action)方が間違っているか、仕組み(つまり機械自体)が破綻しているかのどちらかである。そしてどちらであれ、そうなってしまった場合に私にできる事はほぼない。大概の場合、自らがそうと思ってそうした場合に自分でその間違いに気づく事は難しいし、仕組みや機構を理解しないままでも使えるのが機械というものだから。詰まるところ、私は自分の不甲斐なさや解決策の無さに困惑し、腹を立て、それを自分の中で処理するために怒るのだ(と思う)。
 もしかすると私は、人に対して怒るという事を、怒るという感情の動きの発生というよりも怒っているという態度(attitude)を示す事で相手に働きかけ(action)ることだ、と捉えているのかもしれない。これはその態度(attitude)をとったことこそに意味を見ているのだとは思うが。人間は機械ではないので、大別すればある程度反応(reaction)を予測できる事が多いとはいえ、働きかけ(action)ても、あるいは働きかけ(action)たとこちらが思っていても、求めていた反応が無い事は当然、ある。他人が思い通りにならない事は当たり前で、その方が健全で善い事だとも感じる。これをねじ伏せる程の期待、つまり信頼というものはその尊さとは別に、どこか非人間的で、静的で、生命の匂いが薄い。個人に対するなにかしらの信頼は、その個人のある種の死で、死んでいるからこそ価値がある。
 何にせよ、私は人に対し怒りに対し、それを表明する必要がある場面は存在するが、単に人に働きかけるのであればそれは雑で、急進的過ぎ、不必要な反応を多く産むものだと考えている。
 私は人には期待しない事を機械に期待するし、機械を尊重する必要は感じないが人を尊重する必要を当然に感じている。道具、仕組み、機構、システムとして機械を見ている(当たり前と言えば当たり前だが)。クオリアを持つ、と私が考えられないものに対して私は冷淡で、そこには二項対立の冷え冷えとした感覚がある(そしてそこからの逃走線はまだ引けていない)。機械に怒る時、その怒りは内向的なもので、自分の感情をチューニングするものでしか無い。機械が変わることに期待など無い。機械じみている生命という理由で昆虫が苦手なので、いずれこの基準がどんどんとズレていき、現在尊重しているものがそうできなくなるかもしれない、という恐怖がある。あるいは現在この基準の外にいる、と私が考えているものにも“それ(ら)”がある、と知った場合、私はそれを受け入れられるだろうか?という不安も。私はアトムを見、そして見られることに耐えられるだろうか。アトムを尊重できるだろうか。つまりそれは「“耐えられる”、尊重”できる“」などという言葉が出なくなる、という事だけど。
ありがたいことに/酷い話だが、機械には主観も感覚も無い──少なくとも今は。

 無力感や理不尽への困惑を怒りで消化するのは不健全だし、機械は目的があって使う道具(tool)なのだから解決への行動へと昇華した方が良い(≒怒るだけ時間の無駄)と言われれば、まあ、確かに、そうなのだが。

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