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未だ些細な違い

左利きである。
左利きだからと言って、家が借りられないわけではない。
左利きだからと言って、店から追い出されることもない。
左利きだからと言って、結婚できないことはないし、子供を産めないわけでもない。
左利きだからと言って、就職できないわけではないし、殺されることはない。

ただ横口お玉を使えばこぼし、
駅の改札では身を捩り
食卓では左端か斜めに腰かけ
鋏は切れず
カッターは使いづらく
急須は体ごと傾けて注ぎ
時たま少し高価な専用品を買わざるえず
好きなデザインを諦め
握手の度に微妙な空気となり
精算機の小銭入れが遠く
外食をすれば箸と器を置き直し
食事を伴にした人からは新鮮に驚かれ
なぜ矯正しないのか不思議がられ
悪気なく特定の用語で蔑まれ
育ちや知能を疑われ
あるいは意味もなく羨まれる。

なんてことはない、たいしたことない、ありふれた不便の積み重ねの、極小の差別の中にいる。

左利きであるということは、他人からは見ることでしかわからないのに、見た目ではわからない。
医師の診断などはないし(両親は受けた可能性があるが)、自分にとって快であるということしか支えはない。基本的に。
他人から見て左利きであるということは、ただ行為の中にある......

職場で私の席に座った同僚は、皆口々に冗談めかした非難を残す。
マウスを左利き用に設定しているためだ。
変だ。不思議だ。不便だ。

それならば、いつか「不便な家」を造ってみたい。
不便でない家を言うものをおそらく私は経験したことがないのだろう。
だからこそ、悲しいことに、この「不便な家」が私のとっての不便でない家、ストレスフリーな家になるとは限らない。そしておそらくそうならないだろう。
私は右利きの社会で育ってきたし、そこにある程度適応して生きてきたから。
例えば書くのは右手でやる、というように。

ただ、家という限定的な生活範囲で、そこに適用されている透明な「右利き用」を全て反転させた時、
もうしかするとそれは「家」という全体の枠組みからすれば些細な変化なのかもしれないが、
そこで生活する私に何が起きるのか、どのような違和感を感じるのか。それを知りたい。
「私は左利きである」という意識が透明になった生活で、私は十全たる左利きに生成できるのか?
仮にできたとして私は左利きという要素に飲み込まれたことになるのだろうか?

私は自分の中に刻まれた右利きに気付けるだろうか?

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