日記と夢日記16

何か夢を見ていたと思われるが、目覚めた瞬間からその音楽とはFountains of Wayneの「Troubled Times」が流れ出して、夢の内容をすっかり忘れてしまった。高校生の頃に愛聴した曲だ。当時、こういうバタ臭くて甘ったるい曲が好き好きで仕方がなかった。今聴くとアレンジに赤面してしまうのだが、思春期とはこの曲のように浮足立ち、ベタベタしたものではなかったか。夜になって、FoWのメンバー、アダム・シュレシンジャーがコロナに感染したことを知る。回復をただ願うばかり。

昨日の日記にも書いたが、前歯の隣の歯が欠けた。おそらく虫歯が原因だ。人から見える場所だから「みっともなくてイヤ!」なんて思っていたが、バラカンさんとご一緒したイベントにお越しいただいたお客さんから洗えるマスクを頂戴したので、今こうして隠すことができている。本当にありがとうございます。歯医者は予約しました。しかし、よくよく調べたらネットでボロクソに書かれており、不安になったのでキャンセルしようと思っています。

二日前の日記でこんなことを書いた。「こうした非常時に堂々と自分の意見を述べて、周囲の人間を勇気付けることができる人はすごい。自分には到底できないと思ってたじろんでしまう。」

芸人が使うツッコミの常套句に「真面目か」というものがある。これはボケを担当する芸人が周囲からボケることを期待されている場面で、意図して、あるいは不本意ながら真面目なことを言った場合にされるツッコミだ。このツッコミにより、ボケるべき場面でボケないというボケが顕在化する。

「男子たるものかくあるべし」という言葉の中の指示語に当てはまりそうなリファレンスには、芸人、戦国武将、有名企業の社長、ロックスター、スポーツ選手などが挙げられるが、中でも芸人の振る舞いは参照されがちだ。それは芸人が言葉を扱う職業だからだろう。

芸人の話術というものは、素人である我々のコミュニケーションにも反映されやすく、この「真面目か」というツッコミは日常生活においても耳にすることが少なくない。我々素人は芸人ではないし、必ずしもボケる必要はないのだが、仲間内でのコミュニケーションの場において、ボケないことは文字通り洒落を解さない退屈な奴と見做され、疎まれる場合が多い。

SNSなどで何か意見を表明するときは、別に身内に向けて何かを言うわけではなく、不特定多数に向けて考えを発信していることになる。ただし、その不特定多数に身内は含まれているから、意見を表明するときに身内から「真面目か」とからかわれるのも癪だし、周りが鼻白むようなことを言うのもいささか気が引けるから、結局言わず仕舞いというパターンが多い。

身内がややもすれば「意識が高い」と揶揄されてしまうような人間ばかりであれば、堂々と意見を表明することに躊躇はないだろう。おそらく。周囲と同じような言葉使いで似たような考えを述べれば安心感を抱いたりもする。

けれども、「露悪的な意識の低さ」とでもいうようなものによって結びつけられたコミュニティに属している場合、歯が浮くような台詞を堂々と口に出すことはなかなかに難しい。2ちゃんねるで生まれたような皮肉っぽいネットスラングがリアルにおいてもぽんぽん飛び交うようなコミュニティにいながらにして、社会問題について真面目な意見を言うことは勇気のいることだ。

例えば、何歳になっても「男子中高生の悪ノリ」を維持していたいと考える人によって形成されたコミュニティに属しつつも、本当はもっと真面目なトーンで物事を考えたいし、意見も表明したいと思ったときにどうすれば良いのか。

躊躇なく皮肉っぽいネットスラングを使う人であっても真面目なことを言いたくなることはあるだろう。いつもふざけていたい、真面目なことなんて言いたくないと考えている人ほど根は真面目だったりする。真面目さの裏返しでどんな非常時でもふざけていなきゃいけないと考えてしまう。世間がシリアスになっているときに性器や便に関する言葉を言わずにはいられないという人がいるが、当方としてはかなり真面目な人なんだなという印象を受ける。そんな真面目な人だから、ときには真面目なことも考えるし、真面目なことを言いたくなる場面もある。おそらく人は誰しもシリアスとユーモアという二面性を持っている。

シリアスとユーモアを本音と建前と言い換えても良いかもしれない。男子中高生のノリというものは、基本的に本気にならない、常にふざけたがるというものだが、これは仲間内の建前に過ぎず、個々人は本音の部分で様々な思いを抱えているはずだ。

ゆえに風向きが変われば本音と建前が反転することもあるだろう。だから、自分が先導を切って、今は真面目なことを言うべきタイミングであるというよう空気を醸せば良いのではないか。

しかし、他人を説得するというのは非常に困難なことで、自分が押し付けがましく他人からああしろこうしろと言われたくないのであれば、やはり人に差し出がましくとやかく指図すべきではない。

自分で何を書いているのかわからなくなってきた。

いつも別に結論ありきで何かを書いているわけでないものの、なんとなくこういうことが書きたいという方向だけは自分の中にある。脇道にそれたりしつつもなんとなく返ってこれるように方向感覚は忘れずにいようと意識している。しかし、今回は完全に迷子になってしまった。就活していたときに、面談でしどろもどろになりながら口をぱくぱくさせて質問に答えつつも、頭の中では「え、なにこの結論。こんなはずじゃなかったのに・・・」といつも思っていた。こんな調子だからどこも受からなかったし、早々に心が折れてしまった。折れるな。みんな折れてもやってんだよ、という話なのだが。

今でもどうしたらもっとうまくやれたか考えることがある。とにかく世間知らずだったから、自分の殻に閉じこもっていないで、もっと外に出て色んな人と話すべきだったのか。たくさんアルバイトして失敗の母数を増やせば良かったのか。とにかくおこちゃますぎた。今でもおこちゃまなのだが。

就活をしているときに忘れがたい出来事があった。ある面接の待ち時間に隣の清潔感のある就活生に話しかけられた。

「結構待ちますね」「あ、そうですねえ」「早く終わってほしいですね」「ねえ、本当に」

面接を前にして気を張っていたときに、気怠げなことを言われたので、やや脱力した。彼の気怠げな態度に触発されて「そうだよ、気怠いんだよ!俺だって」と少し自分の中のモードを変えてみた。

そうこうするうちに隣の就活生と面接の部屋へ通された。集団面接だったのだ。面接が始まるやいなや、気怠げな学生の表情がみるみる豹変し、溌剌とした就活生と様変わりしていた。他の者が話している間も、その者の顔を見て、「うんうん、そうなんですか!なるほどですね!」という調子で小さく頷いているので、「おい!おまえ!さっきの気怠げな感じはどうした!」と不信感を抱いてしまった。

この場合、態度に一貫性を求めるこちらがどう考えてもおかしい。なぜなら我々が取り組んでいたのが就職活動だからだ。気怠げなまま面接を受ける頓珍漢はいない。でも、彼には部屋に通されるやいなや「ちょ、待たせすぎじゃないスかぁ(苦笑)」ぐらいのことは言ってほしかった。

それはさておき、就活を通じてはっきりしたことは、自分がしかるべきタイミングでスイッチを入れて明るく振る舞うことができないということだった。それ以前にも、サークルの先輩に誘われてOBがカラオケしているところにお邪魔したのだが、店に入る前に先輩から「もうちょっとテンションあげていこうな」と優しく釘を刺されたことがあった。しかし、明るく振る舞うことができず、頑なにノリを合わせない陰気な奴と見做され、見かねたOBの方に「鳥居くんはサ、せっかくうちのサークル選んでくれたわけじゃんか。だから、もうちょっとコミットしてくれても良いと思うんだよ」と言われてしまった。自分ではそんなつもりは全然ないのに、「ああー、つまんねえの。しょうもねえな」とでも言わんばかりの態度になっていたようだ。

ウチらの吉田くんが共感百景で残した名作に「塾での俺が本当の俺」というものがある。人はいろんな顔を持っており、その時々、その場面場面で顔を使い分けている。しかし、どうも当方には仏頂面しかなかったようなのだ。いわゆるペルソナというなものを使い分けることができない。実生活における大根役者と言ったところだろうか。

こうしたことはおそらく先に述べた「こうした非常時に堂々と自分の意見を述べて、周囲の人間を勇気付けることができる人はすごい。自分には到底できないと思ってたじろんでしまう。」といったことにも関係している。

ロック・スターないしアーティストっぽい言い回しってあるでしょう。一般的な日本語表現から逸脱していて、具体性は乏しく、文意は不明瞭。けれどもなんか良いことを言っていることだけは伝わってくる。なんとなくかっこいい。

ものすごくダサいことを言ってしまうと、ああいう言い回しができる人に嫉妬にも似た感情を覚えてしまう。それは面接で豹変した就活生にも抱いた感情である。

自分の作った音楽はすべて何かのパロディだと言い切ることができる。オリジナリティがあるものはないに等しい。もちろん発明のような音楽を作ることに強い憧れはあるが、今のところ成功した例はない。

言葉というものも基本的には借り物だ。人が話すのを真似して覚えて、自分でも使うようになるものだ。言語表現というのはパロディであることが宿命付けられている。あのときの就活生は就活生のパロディを演じていたのだし、ロック・スターないしアーティストっぽい言い回しの人はロック・スターないしアーティストのパロディを演じているし、非常時に堂々と自分の意見を述べて、周囲の人間を勇気付けることができる人は非常時に堂々と自分の意見を述べて、周囲の人間を勇気付けることができる人のパロディを演じているのだと言って差し支えないだろう。それはさすがに穿ち過ぎじゃない?と思わないこともないのだが。

別にここには「あなた、作ってますね?」と指摘する意図があるわけではない。とにかくそうしたパロディこそが言葉を使うということだと言いたいのだ。自分だって誰かのパロディで言葉を話したり、書いたりしているし、そこから免れることはできないと思っている。

しかし、当方の場合、いつの間にかセルフパロディ以外のことができなくなっていた。鳥居はこんなこと言わない、これはいかにも鳥居が言いそうなことといったものを自ら規定している。ペルソナが使い分けられないということはそういうことだ。仏頂面の鳥居という仮面しか手元にない状態なのだ。

ひょっとして小学生の頃に「おまえ、女子の前だとかっこつけて話すよな!」と言われたことを未だに根にもっているのだろうか。しかし、そんなことを言われた記憶も特にない。誰かに言った可能性はあるが・・・。

いまだに心のどこかで「本当の俺」を見つけたときの俺はやばいぞなんて考えているのかもしれない。そんなものは存在しないというのに。

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