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鳥居ゼミ 第2回 トーキング・ヘッズ『Remain in Light』


イントロダクション

「鳥居ゼミ」というイベントを不定期で開催しています。名盤と呼ばれているようなアルバムを1枚取り上げて、小一時間かけて解説をしたのち、良い音響で一曲ずつ聴いていくという内容となっております。

会場は神田商会がプロデュースするKanda Guitar Baseというスペースです。なぜ私がここを会場にしてイベントをしているのか。それは神田商会が扱っているイギリスの弦のメーカー、ロト・サウンドのエンドーサーを私が務めているからです。こうした縁があってお声がけいただいたのでした。

既に5回ほど開催しています。これまでに取り上げたアルバムは、スティーリー・ダン『Aja』、トーキング・ヘッズ『Remain In Light』、ニルヴァーナ『Nevermind』、シュギー・オーティス『Inspiration Information』、ザ・スミス『Queen Is Dead』です。

今年の2月、トーキング・ヘッズのマイルストーン的なコンサート映画『ストップ・メイキング・センス』が40周年を記念してリマスター上映されます。私の周囲でもすでに盛り上がりを見せています。映画に限らず、トーキング・ヘッズというバンドそのものにも注目が集まっているといって差し支えないでしょう。

トーキング・ヘッズの代表作である『Remain In Light』は、アフリカ音楽の影響が云々されがちなアルバムです。「たしかにアフリカっぽい!」と思わないわけではありません。しかし他方で、「具体的にどこがどうアフリカっぽいのだろうか」「そもそもアフリカっぽいって何なの」といった疑問もつきまといます。『Remain In Light』を取り上げた第2回鳥居ゼミは、まさにこの疑問に取り組んだ回でした。

以下、2023年4月23日にKanda Guitar Baseで開催した「鳥居ゼミ 第二回」のために作ったスライドを再構成した文章となります。※当日に配布したスライドへの追加情報は特にありません。

ざっくりと『Remain in Light』とは?

『Remain in Light』はトーキング・ヘッズが1980年にリリースした4枚目のアルバムです。USアルバム・チャートの最高順位は19位。『ローリング・ストーン』誌が選んだ「オールタイム・グレイテスト・アルバム500」(2020年版)では39位にランクインしています。

ざっくりとトーキング・ヘッズとは?

トーキング・ヘッズは、ニューヨークを拠点に活動した4人組のバンドです。美術大学のロードアイランド・スクール・オブ・デザインの生徒だったデヴィッド・バーン(Gt, Vo)、クリス・フランツ(Dr)、ティナ・ウェイマス(Ba)の三人によって結成されました。当時はThe Artisiticsと名乗っていたそうです。いわゆるアートスクール・バンドです。

1975年、3人はロードアイランドからニューヨークに移住します。CBGBというライブハウスを中心に活動し、ニューヨーク・パンク・シーンで頭角を現します。

トーキング・ヘッズはサイアーレコードと契約し、シングル「Love → Building on Fire」でデビューします。その後、元モダン・ラヴァーズのジェリー・ハリソン(Gt, Key)が加入して4人組のバンドとなります。モダン・ラヴァーズはジョナサン・リッチマンが在籍したバンドです。

そして、1977年にデビューアルバムの『サイコ・キラー'77』(Talking Heads: 77)をリリースします。

『Remain in Light』リリースまでのあらまし①

1978年、セカンド・アルバムの『モア・ソングス』(More Songs About Buildings and Food)をリリースします。プロデューサーは、ブライアン・イーノです。

トーキング・ヘッズは元々、イーノが在籍していたロキシー・ミュージックのファンでした。たしかにバーンの歌唱には、ブライアン・フェリーからの影響が見られます。

トーキング・ヘッズとイーノの邂逅はこうです。イーノがジョン・ケイルとラモーンズが共演するライブを観に行くと、前座がトーキング・ヘッズでした。彼らに興味をもったイーノは、翌日デヴィッド・バーンをアパートを招き、一緒に音楽を聴きます。そこで聴いたのがフェラ・クティだったそうです。ちなみに、ドラマーのクリスは、学生の頃からフェラ・クティやエベニーザー・オベイ、マヌ・ディバンゴといったアフリカのポピュラー音楽に親しんでいたとのことです。

え、ブライアン・イーノって誰?

ところで、ブライアン・イーノとは何者なのでしょうか。イーノは、1948年にロンドンで生まれました。イプスイッチ・聖ジョセフ・カレッジとウィンチェスター美術学校に在籍中、音楽に傾倒していきます。アートスクール出身という点で、トーキング・ヘッズとの共通点だといえます。

イーノは、デビュー前のロキシー・ミュージックに加入し、シンセサイザーやテープ、コーラスといったパートを担当します。デビュー作の『ロキシー・ミュージック』(1972年)と続く『フォー・ユア・プレジャー』(1973年)に参加したのちに脱退します。

その後、キング・クリムゾンのロバート・フリップとのコラボ作『ノー・プッシーフッティング』『イヴニング・スター』や、ソロ・アルバムの『ヒア・カム・ザ・ウォーム・ジェッツ』『テイキング・タイガー・マウンテン』『アナザー・グリーン・ワールド』 『ディスクリート・ミュージック』『ビフォア・アンド・アフター・サイエンス』をリリースします。

さらにイーノは、1977年から1979年にかけて、デヴィッド・ボウイのベルリン三部作(『ロウ』『ヒーローズ』『ロジャー』)をプロデュースします。
ボウイ曰くイーノは「ロック界でもっとも聡明な人物」とのことです。

1978年にはコンピレーション・アルバムの『ノー・ニューヨーク』やDEVOの『頽廃的美学論』をプロデュースします。また同年、『アンビエント1/ミュージック・フォー・エアポーツ』(Ambient 1: Music for Airports)をリリースします。アンビエント・ミュージックの先駆的な作品です。

イーノは「Windows 95」の起動音の生みの親としてもお馴染みです。

『Remain in Light』リリースまでのあらまし②

トーキング・ヘッズは1979年に三作目のアルバム『フィア・オブ・ミュージック』をリリースします。

『フィア~』のリリースに伴うヨーロッパ・ツアー中、デヴィッド・バーンが密かにバンドを脱退していました。他のメンバーはジャーナリストからこっそり聞かされて驚きます。大変なショックだったのは言うまでもありません。

バーンはイーノとのコラボ作『My Life in the Bush of Ghosts』の制作に熱中していました。彼らからクリスにドラムを叩いてほしいとの依頼があり、ティナに相談したところ、繋がりを残すために参加すべき、とアドバイスを受けて参加したそうです。

ある日、クリスがバーンとイーノに電話をかけてみました。「そろそろバンドで次のアルバム作ろうぜ!」

デヴィッドは「君たちとアルバムを作る気はない」イーノ「君たちのアルバムをプロデュースする気はない」

残された3人は気晴らしのためにジャムる日々を送っていました。ある日、ティナがイーノに電話をかけて「楽しいからおいでよ」と誘ってみました。「僕は楽器が弾けないから」と一度は断ったイーノでしたが、「そんなの関係ない!楽しむためにやってるの!」というティナにほだされて参加します。楽しい時間を過ごしたそうです。

そして、バーンにも電話してみると、ギターを持ってやって来ました。このセッションが充実したいたため、アルバム制作の機運が高まったとのことです。メンバーたちは、バハマのナッソーにあるレコーディングスタジオのコンパス・ポイント・スタジオに入ります。アイランド・レコードのクリス・ブラックウェルが設立したスタジオです。ちなみに、同時期にAC/DCが『Back in Black』をレコーディングしていたそうです。

このときのマテリアルが『Remain in Light』の素材になりました。

「原始と原子の火花散る出会い」

『Remain in Light』の国内版の帯に書かれた「原始と原子の火花散る出会い」というコピーが語り草になっています。これは評論家の今野雄二(故人)が考えたコピーです。

ちなみに、今野は、ロキシー・ミュージックのボーカル、ブライアン・フェリーの楽曲「Tokyo Joe」のモデルだという説があります。「Tokyo Joe」といえば、キムタク主演のドラマ『ギフト』のテーマとしてもおなじみの曲です。

「原始と原子の火花散る出会い」というコピーの「原始」には「アフリカ」、「原子」には「アメリカ」というルビが添えられています。「原始=アフリカ」「原子=アメリカ」というわけです。つまりこのコピーには「原始と原子(=アフリカとアメリカ)の火花散る出会い」という2つの対比が並べらていることになります。記憶に残る鮮烈な惹句です。しかし同時に、この惹句に対する疑問もいくつか浮かんできます。

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