頭使うのって超絶だるい

依然としてアルバムが完成しない。しかし完成に近づきつつあるような気配は感じられる。勢いに頼らずアルバムを制作するのは初めてのことだからなかなか思うようにはいかない。

誤解のないよう言っておくと、勢いに頼らずにアルバムを制作したからといってアルバムから勢いが消えるわけではない。それとこれとはまったく別の次元の話である。だから勢いに頼らずに作られた勢いのあるアルバムはこの世に存在し得る。現在制作中のアルバムもそうであってほしい。そんなことを言うと無闇にハードルをあげてしまいそうだ。しかし算盤尽くであらかじめハードルを下げておくなど言語道断。ここは強気にいこう。

久しぶりに美容院に行った。大きな鏡を前にすると居心地が悪いし、耳のすぐそばで、いかにも切れ味の鋭そうな鋏が冷たい音を立てるのを聞いていると落ち着かないので、髪を切ってもらう間は出来得る限り別のことに意識のフォーカスを当てたい。意識の膜のようなもので体を包み込み、外界の情報をシャットアウトしたい。最近になって、毎回手渡される電子書籍端末がこれに役に立つと気がついたので、積極的に利用するようにしている。

居住空間を特集するBRUTUSの最新号を読んだ。自分と大して年も変わらないような人が古民家をリノベーションしたような素敵な家に住んでいるのを目の当たりにして虚無感に襲われたが、意識が虚無感に向かったからそれはそれで良かった。しかし問題は端末の画面の上へと落ちてくる髪である。私たちはあの髪の毛を避けるべきなのだろうか。完全に避けるのは不可能だとしても、落ちてくる髪の量が増えてきたら読むのを中断して端末を台に戻したほうが良いような気もする。しかし、不意に動くと美容師さんも迷惑するのではないか。あるいは「これ、髪が落ちてきますね」と朗らかに話しかけてみたら「気にしなくて大丈夫ですよ~」という返答が聞けるかもしれない。しかし私の声が小さすぎてなんと言ったか聞き取れず、聞き返すのも失礼かと考えた美容師さんが「ああ、あはは」と生返事する様子が容易に想像できてしまう。

ひとまず判断を保留してまるで髪など落ちてきていないかのように振る舞うのだが、それが美容師さんの目にはロボットのように映り、ある種の不気味さを醸し出しているのではないのかと少し心配になる。そんなことに気を取られて意識の膜にひびが入り、ビル・フリゼール風の音楽が流れる美容院に体が引き戻されてしまった。

日曜日、リハスタに向かう電車の中で財布を置いて出かけたことに気がついた。普段、財布は鞄に入れっぱなしにしており、近所のコンビニやスーパーに行く場合は鞄から財布を取り出し、帰ってきたら元に戻すというルーティンが出来上がっている。

精神にかかる負荷でいえば、リハスタに行くという行為は近所のコンビニに行くのとさして変わらない。10年以上リハスタに通っているからお茶の子さいさいだ。油断しきっているので寝間着のような出で立ちででかけることも少なくない。しかし今やバンドの練習は用事としてはイレギュラーの類いと化している。言うまでもなく私はイレギュラーに滅法弱い。すべてをルーティンに組み込み、なるべく頭脳を使わずに自動機械のように暮らしたいと考えている。イレギュラーな予定をこなすに際して場所や時間の確認や持ち物の準備などそれなりに頭を使わなければならないが、できれば使いたくない。そんな面倒は御免被りたいのだ。ルーティンに組み込まれていないことに対して強い忌避感がある。そうした面倒それ自体をまるっと否認したいという欲望に気を取られた結果、財布を家に置いたままリハスタに向かう羽目になった。

ところで、先日読み終えた國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』がおもしろかったので反芻している。特に第7章。人間は「ものを考えないで済む生活を目指して生きている」と書いてあってなんだか嬉しくなってしまった。

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