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83日目 - 留置場最後の日

(前回の記事)

 加藤氏が移監されて以来、話し相手のいなくなったコソ泥氏、一時収まっていた反抗期がまたやって来たようであった。朝から「気分が悪い」と布団上げを拒否、掃除もさぼって布団にくるまっている。取り調べで出て行っても、すぐに体調不良を訴えて戻って来る。
 もっとも例によって、食事と運動には嬉々として這い出て来る。

 チョウさんは、まだ加藤氏がいた時に、コソ泥氏と加藤氏が吹き込んだ刑務所での恐怖体験に怯えて、コソ泥氏に質問をし続けている。コソ泥氏は布団にくるまったまま「ああ、もう、めんどくせぇなぁ」とわめくが、チョウさんは全く意に介せず、布団をめくってコソ泥氏を揺り起こし、質問を続ける。閉口したコソ泥氏は僕に向かって「ちょっとあんた、なんとかしてくれよぉ」と懇願するが、僕はここぞとばかりに「僕は刑務所は知りませんからね」と涼しい顔を決め込む。元はと言えばコソ泥氏と加藤氏が、チョウさんが怖がるのを面白がって、ある事ない事を吹き込んだからである。
 彼らによると日本の刑務所は、入った者は全て牢名主にカマを掘られ、看守に逆らうと日も射さぬ独房で監禁されて食事も与えられず、仲間内のリンチでしばしば死者が出るが、いずれも『自殺』と処理される、地獄のような場所なのであった。無論、ふたりのホラ話である。
 もっとも、チョウさんがいちばん震え上がったのは、リンチでも独房でもなく、なぜか牢名主にカマを掘られる件であった。以前その話を聞いた時彼は、ドングリまなこをさらに見開いて、「ダメ! ダメ!」と叫んだのだが、この日チョウさんがコソ泥氏にしつこく聞いていたのは、「どうすれば、カマを回避できるか」という命題に関してなのであった。
 そしてゲロミー氏は、頭痛薬が効いている間はふたりの間に入って、さらに話をややこしくしていた。

 夕食前、荒木刑事に呼び出される。逮捕時に押収されていた物品の返却である。
 『押収品目録交付書』なる書類に押収品がいちいち記載してあるのだが、その中から、マリファナパイプ、コカインボトル等、犯罪に関する物は『廃棄処分』という事で、所有放棄の書類に署名、指印を押す。その他の携帯電話、預金通帳といった一般の品が3ヶ月ぶりに手元に戻って来る。
 すっかり電池も切れた携帯電話を見ると、急にシャバっ気が出てくる。誰かに電話をしたくて堪らなくなる。

 留置場へ戻る途中、「係長」に呼び止められる。彼は留置人の間から、もっとも信頼されている看守で、たいていのモメ事も彼が出て来ると「じゃあ、係長の顔を立てて」と収まるのであった。
「いよいよ明日だねえ」と、係長。
「はあ、どうも長い事お世話になりました」僕は頭を下げた。
「なんだか、山本さんといい、コソ泥さんといい、扱いづらい人ばっかり一緒にして、悪かったねえ」
「……ほんとっすよ」

 留置場に戻ると、目立たぬよう、ささっと荷造りをした。僕は以前から『送別会』が苦手で、留置人に移監の事を知られたくなかったのである。知られたが最後、歌好きな留置人が、公正明大に歌える機会を逃すはずがない。この時も、移監の件は誰にも教えていなかった。
 たまたま本交換等で通りかかった2、3人が「あれ、移監ですか」と声をかけてきたが、幸運にも比較的大人しい人ばかりだったので、「それぇっ、送別会だぁっ!」という騒ぎにはならずにすんだ。

 こうして、僕の留置場最後の日は、無事に終わったのである。


※この手記は2003年に執筆されました。文中の人物名はすべて仮名です。

この記事は故人の遺志により、妹が公開したものです。故人ですのでサポートは不要です。ただ、記事からお察しのとおりろくでもないことばかりやらかして借金を遺して逝ってしまったため、もしも万が一、サポートいただけましたら、借金を肩代わりした妹がきっと喜びます。故人もたぶん喜びます。