見出し画像

55-56日目 - カタギでよかった

(前回の記事)

55日目

 新入りのタイ人の青年、通称“ボーイ”君。
 もちろん本名は僕たちから聞くとやたらと長い名前があるのだが、最近タイでは、英語風の愛称で呼ばれる事が多いらしい。学校での呼び名もほとんどこの愛称が使われており、ボーイ君曰く「先生も本名は知らないかもしれない」くらい、愛称が浸透しているそうである。
 彼は、僕がここに入って以来、初めて会う「普通」の人であった。無論彼も「オーバーステイ」という「犯罪」を犯してはいるのだが、彼のキャラクターに触れるにつけ、「ちょっとくらい、いいんじゃない?」という気にさせられる真面目な人であった。

 もともと彼がオーバーステイしてしまったのも、日本人の彼女ができ、別れづらくなったのが始まりであったようである。後刻、「彼女」は毎日のように面会に来るし、あまつさえ、彼女の両親も何度も面会に来るほど、ちゃんとした付き合いであったようなのである。

 そんな彼の、捕まってしまった事への嘆きはかなりのもので、すっかりここの生活でスレきってしまった僕も、同情を禁じ得ないものであった。そこで、まだまだ日本語がうまく話せない彼のために、「日本語講座」を始める事にした。手始めに、50音順の一覧表を作る。
 格好の、暇つぶしである。

 願わくば、僕は生まれが関西なので、彼が関西弁になってしまわない事を祈る。

56日目

 二房の人気者、中国人のケンさんに、面会がある。先週出たばかりの刺青氏であった。
 差し入れも色々してくれたらしいのだが、ケンさんを大いに狼狽させたのは、刺青氏の小指がしっかり無くなっていた事であった。
 出たその日のうちに、「オトシマエをつけた」そうで、傷のせいでまだ熱があり、非常に顔色も悪かった由。刺青氏曰く、「これまでの人生で、一番イタかった……」。

 当然の事ながら、ここには同様に指のない人が何人もいる。いきおい、運動時の話題はこれに集中した。

 その一人の談話。「まず、指の根元をギュッとしばっておいて、小刀か何かで一気に切り落とす。場合によっては、他人にやってもらう事もあるが、大抵は、自分でやる。ただ、骨までは最初の一撃で切れるのだが、最後の皮一枚がなかなか切れてくれない。まな板等を下に敷くと、なまじ食い込んで、ますます切れにくい。自分の場合も、5、6回刀を突き刺して、ようやく完全に切り落とせた。その間、血はドバドバ出るし、痛いし、気が遠くなりそうだった。できたらまな板よりも、マンガ本みたいに、一緒に切れる物を下敷きにしといた方が一発で切れてよい」。
 …………。

 ちなみに切った指は、流派によっても異なるそうだが、「この件はこれにて水に流す」と川に捨てることが多く、他には「この件はこれでウメる」と土中に埋める派、なぜかはわからないが、アルコール漬で取っとく派等いろいろあるとの事。

 つくづく、「カタギ」でよかった、と思えた一日であった。


※この手記は2003年に執筆されました。文中の人物名はすべて仮名です。

この記事は故人の遺志により、妹が公開したものです。故人ですのでサポートは不要です。ただ、記事からお察しのとおりろくでもないことばかりやらかして借金を遺して逝ってしまったため、もしも万が一、サポートいただけましたら、借金を肩代わりした妹がきっと喜びます。故人もたぶん喜びます。