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85日目(1)- 非常に慌ただしい

(前回の記事)


 拘置所での起床は、留置場と同様に7時である。留置場と異なるのは、規則が厳しく、起床の時刻まではいっさい起き上がることが許されないことである。就寝時間中に布団を出るのが許されるのは、トイレに行くときのみである。ほかにも、就寝時に顔は必ず布団から出しておかねばならない、といった規則もある。

 ここでも大抵の人は、起床時間前には既に目覚めている。何しろ消灯が9時なので、自然と目覚めてしまうのである。
 この日僕は、おそらく起床2時間前には目覚めていたと思う。
 幸いなことに、空調のない拘置所でも快適に過ごせる季節である。
 既に外は明るい。ひんやりと心地よい風が、窓から流れ込んでくる。来たときにも聞こえていた、厨房の音が遠くから聞こえる。外部から遮断されていた留置場と違って、実に快適である。
 誰かが立ち上がって、トイレへ行く。妙なもので、トイレを流す音すら、さわやかに響く。

 やがて、部屋に備え付けのスピーカーから、微かに「ピヨピヨ」という小鳥の声が流れ出す。その10秒後、突然、大音声でブザーが鳴り響く。起床の時間なのであった。
 ベテラン勢の動きは実に見事である。
 「ピヨピヨ」で、掛け布団の縁に手をかける。まだ起き上がってはいけない。ブザーと同時に飛び起き、ものの10秒後には、布団はきちんとたたまれ、各自割当の畳のすみに揃えられるのである。
 布団セットだが、次のようなものであった。敷布団1枚、敷毛布1枚、上にペロンと乗っけるだけの簡単な敷シーツ1枚、袋状のカバーに入った掛毛布1枚、顔の当る所にだけ小さなヨダレ掛け状のカバーが付いている掛布団1枚、筒状のカバーに入った小さなソバ殻の枕1ケ、以上である。留置場に比べると充実しているし、なんと言っても臭くない。
 起床と同時に、これらを敷布団は三つ折り、掛けは四つ折りにして、先ほど列挙した順番に右手前角をきっちりと合わせて重ねるのである。これが乱れていると、房長ないし副房長からしかられるのであった。

 布団をたたむと、すぐに掃除である。
 この日は初日ということで、昨日までトイレ担当であった上田氏が手本を見せてくれる。僕と一足違いで先にこの房へ来た伊藤氏は、トイレ掃除免除である。
 独居房では洋式便器だったが、ここ雑居房では和式であった。トイレは半畳ほどのスペースで、床や壁はコンクリートむき出しである。一応、戸がついており、「個室」にはなっているが、上から下まで素通しのガラス窓がついており、その気になると丸見えである。従って、誰かが入っているときは意識的に目を外さねば、排泄の様子が丸見えなのであった。

 トイレ掃除は、すべて雑巾1枚で行う。
 留置場では洗剤や柄付きブラシがあったが、ここではまず、便器に手を突っ込んで雑巾を洗う。そしてその雑巾で、床、壁、便器を拭う。最後に再び便器の水で雑巾をすすいで終了である。便器に手を突っ込むので、心理的には気持ち悪いが、便所自体は皆が常に気をつけて使用するので、掃除の要のないほどきれいである。僕個人に関しては、とんと平気であった。

 トイレ掃除は時間がかかるので、朝が非常に慌ただしいものとなる。トイレ掃除の終わる頃には、部屋は既に掃除が終わり、洗顔に入っている。1日おきにガラス窓も拭かねばならないので、その日はもっと時間がかかり、洗顔が点呼ギリギリになってしまうこともしばしばであった。
 掃除がすむと、大急ぎで洗面を済ませねばならない。蛇口は2口なので、2人ずつ順番に行う。点呼は7:20なので、起床して20分後には正座して待っていなくてはならないのである。

 ところで、ここに収監された際、ほとんどのものが没収されたことは書いたと思うが、代わりに当座に入用な物品が支給されていた。
 プラスチックの小皿1枚、同じくプラスチックの小さなコップ1ヶ、ほかに消耗品として、石鹸1ヶ、トイレ用紙1打、歯磨き粉。
 ほかに、なぜかここでは柄物のタオルが一切不可なので、タオルは貸与されるのだが、これがまた、本来「柄物」ではない「白」のはずが薄ネズミ色と化している、いったい過去何人の男たちの手を渡り歩いたか知れぬ逸品。
 トイレ用紙は、薄灰色をした再生紙で、ちりめん皺のよったごわごわとした紙である。これに関しては後刻詳述することもあると思うが、問題は、歯磨き粉であった。
 この歯磨き粉、今どきではかえって入手困難ではないかと思える粉歯磨きであった。しかも砂のごとき異様にジョリジョリとした感触で、これを使っていた日には、早晩すべての歯は摩耗して消え去るであろうこと間違いなしの代物だったのである。

 昨日入ったばかりの新人は、唯一、持ち込みを許された歯ブラシに、ほとんど「砂」のごとき粉歯磨きをつけて「ゴリゴリ」と歯を磨きながら、すでに座って並んでいる先輩たちの姿に、「早くせねば」と、ひたすら焦るのであった。

(つづく)


※この手記は2003年に執筆されました。文中の人物名はすべて仮名です。

この記事は故人の遺志により、妹が公開したものです。故人ですのでサポートは不要です。ただ、記事からお察しのとおりろくでもないことばかりやらかして借金を遺して逝ってしまったため、もしも万が一、サポートいただけましたら、借金を肩代わりした妹がきっと喜びます。故人もたぶん喜びます。