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84日目(2)‐ 逮捕される緊張感

(前回の記事)

 手続きがすむと、再び軍隊調の号令。

「ハイ右向け、右、前へ進め、突き当りを左……」と、非常に丁寧に道順を指示してくれる。持ち込みを許可された衣類等を空港にあるのと同じX-RAYを通して検査した後、ようやく『囚人服』を脱いで、着て来た服に着替える。持ち込みを許可された荷物を銭湯の脱衣カゴと同じようなプラスチック製のカゴに入れ、いよいよ拘置所内部へと足を踏み入れた。

 分厚い鉄の扉を抜けると、そこは学校のような造りとなっていた。
 比較的幅の広い廊下がまっすぐに延び、その片側に部屋が並んでいる。ここはまだ1階なので、房ではないようだったが、人気がないので何の部屋かはわからなかった。ほとんど静まり返っているのだが、どこか遠くの方から「カチャカチャ」という金属のふれあうような音がかすかに響いてくる。一瞬、心に引っかかるおとだったが、すぐに気づいた。その昔、学校の給食室から響いて来た音に似ていたのである。そろそろ、昼食の時間らしかった。

 廊下を進む。次第に「カチャカチャ」という音も大きくなる。微かに煮物のようなにおいも漂って来た。
 同時に、施設全体に妙な匂いがこもっているのに気づく。石ケンのような、水性ペンキのような、揮発性の妙な臭いである。この匂いのもとがなんであるのかは、後刻「長期滞在」の人に聞いてもわからなかった。もとより、1日も経つと慣れてしまい、気にはならなくなるのだが。

 コンクリートの階段を上る。やはり学校の階段のような、比較的幅が広く、がっちりとしたコンクリートの階段である。ここでも初めて気づくことがあった。廊下も階段も、中央線が引いてあるのである。おそらくは、拘置人が通るときのためだろう、などと考えつつ上がると、一室へ通された。
 部屋はがらんとした、広い部屋であった。机と椅子が1セット置いてあるだけで、ほかには何もない。やはり造りは教室のようである。だがそれよりも何よりも、窓が広い。格子ははまっているが、その向こうには真っ青な空が広がっている。つくづく、捕まって以来広い空を見ていないことを痛感する。
 しかし、のほほんと窓外を眺めている暇はなかった。「座れ!」と、刑務官が椅子を指す。「まずは、これに答えてもらう!」見ると、「よく眠れるか?」「イライラするか?」等の簡単な質問が30問ばかり並んだ質問用紙であった。
「これに記入して、待ってろ!」と言って刑務官は出て行った。ともあれ、語尾には必ず「!」がつくのである。

 質問への回答は、あっという間に終わった。しばらくはおとなしく座っていたが、なかなか誰もやってこない。振り返ると、窓の外には青空が見える。待ちくたびれた僕は立ち上がると、窓に近づいてみた。
 「おとなしく座っていた方がいいかな?」と思いながらも、席を立って窓から外を見てみたいという誘惑には勝てなかった。
 「おとなしく」誘惑のままに立ち上がり、窓から外を覗いてみた。すると思いもかけず、圧倒される光景が広がっていた。

 僕がいたのは確か2階だったと思うが、目線ほどの高い塀にぐるり囲まれていたのである。分厚いコンクリート塀の上には、鉄線が張り巡らしてある。後刻教えてもらったのだが、これも囚人服同様、切れやすいコードになっており、これが切れると警報がなる仕組みに鳴っている由。
 そして、その塀の中にいくつかの建物。おそらくは教練の声であろう、どこかから聞こえてくる号令と、「イチ、ニ、イチ、二」と行進しているらしき掛け声が聞こえる。塀の向こうには、外のビルも見える。その上には、先ほどかいま見た青空も広がっている。車の音も微かに響いてくる。
 しかし、視野の中で動いているものは全く無いのであった。何も動いているものが無いのに、音のみがどこからか響いてくる。

 捕まって以来の、圧倒的な孤独感であった。
 もしかしたら、このとき初めて「逮捕される」という事態の緊張感を感じたのかもしれない。

 ともあれ、あまり席を離れているのもよくないか、という実にまっとうな事実にも気づいたので、おとなしく席へと戻った。
 振り返ると、座った高さからは塀は見えず、少しく安堵感を覚えた。
 ようやく、ドアの鍵を開ける音が響き、刑務官がやって来た。

(つづく)


※この手記は2003年に執筆されました。文中の人物名はすべて仮名です。

この記事は故人の遺志により、妹が公開したものです。故人ですのでサポートは不要です。ただ、記事からお察しのとおりろくでもないことばかりやらかして借金を遺して逝ってしまったため、もしも万が一、サポートいただけましたら、借金を肩代わりした妹がきっと喜びます。故人もたぶん喜びます。