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感情の功罪

私たちは普段死を軽く扱っています。
はぁ~もう死にたい…
てゆか死ねばいいのに。
毎日死にそう。

そんなこと思っても軽口叩いて言ってみても
絶対に自分は死なないしほかの誰も死なない。

だって、そう軽く死を使ってみても実際に死のことなんて考えてもいない。
だけどもし本当に自分が死んだら?
ちょっとむかついただけで軽く呪った相手が本当に死んだら?
たまに実際にそういうニュースが報じられますね。悲しいことに。
その時、だれもが激しく動揺してどうしてあの子が死を選んだかわからないという反応をするでしょう。
なぜ何も声をあげなかったのか、誰もあの子の悩みに気がついてあげられなかったのかと。

ーーーーー
いつもいつもいつも。
人生で一度も楽しかった経験なんてない。
いつも私は嫌われ者だ。
私は捨てられる人間だ。
何度も折れた心を立て直して頑張ってみても、
結果はやっぱり同じ。
なにも前に進まない。
この人生から逃れることができない。
私は捨てられた子なんだ。
私が捨ててやったと思ったのにやっぱり捨てられたのは私。
こんな私に生きてる価値なんてないよね。
どうして生きているんだろう。
私なんて死ねばいいのに。
ーーーー

死にたくなる気持ちの直前にはこうやって辛くて悲しくて孤独な時間に包まれる。
何度も何度も繰り返し起これば不幸な目に合うのはまるで自分だけだとしか思えない。
もし本当に自分が死んだら?
そう、自分を知るすべての人が驚く。
なぜあの人は死ぬ必要があったのか。

そうです。
人からはそう見える。
死ぬ理由なんてどこにもない。
辛いことは死ぬ理由ではない。

自分が他人の辛さが見えずに不幸なのは自分だけと嘆いているのは
他人も同じ。
死を選ぶあなたの不幸なんて一切他人は見ていない。

自分で死を選ぶと地獄に堕ちるのだろうか。
それか成仏できなくて地縛霊になるのだろうか。
そしたら二度と生まれ変わることはできない。
死んでも死後も苦しみは続く。
そんな考えもある。
ただ、死を迎えれば確かにこの辛い人生に終止符を打てる。
けど現実問題、普通人は簡単には死ねない。
どうせこんな自分なんか生きてたってなんの意味もないし役にも立たないと自暴自棄になって自分を雑に扱っている人が多くいます。
でもだからといってすぐに死は訪れないし、体を蝕むものから苦しみを与えられてその後20年くらい生き続けなくてはならなかったりするものなのです。
薬や通院にお金が消えるばかりの生活だったり。

そして最期が来たとしてもドラマで見るような安らかな死は期待できない。
脳や心臓の血管、内臓のいずれかもしくは複数箇所が破裂しそうな激痛や苦しみを受け入れなければならない。
そんな壮絶な自体が待っているとしても、それよりも死を選ぶ方がいいと思うその感情は、«感情»という器官がもたらす体の暴動、異常反応によるものです。

感情は無形物なので当然器官であるはずがありませんが、器官の一つであるかのような重要な働きを持っています。

幸せ感は共有できるのですが、負の感情においてはは他人一切共有できない特徴があります。

しかし、自分の中に潜む負の感情を縮小させていくことはできます。
それが人との交わり。


負の感情を作り出す原因は基本的に実際の内臓の不調由来です。
神経を司るホルモンを分泌させる内臓器官の低下です。

細胞は学習しています。

産まれてから成長期間中までに睡眠、栄養、運動等肉体の形成に必要な要素の不足にストレスがたたみかけられて生じます。
その時に対処した自分のやり方から、それがもたらした結果までの一連の流れ細胞は記憶します。
そして花粉症のように、毎回同じことに直面すると同じように反応して同じように振る舞うようになるのです。

その細胞が記憶したプロセスを書き換えることができます。それがコミュニケーション。
いえ、コミュニケーションが苦痛だからこうなったのですよね。
そうです。
だからどのコミュニケーションが自分を癒やすものであるかは沢山試さないといけない。


相手に悪意がない限り、人と交わるとストレスの負荷が緩和されるため、回復力が生まれます。

顔も見ない通りすがりの他人であっても、ちょっとぶつかったときにとっさに一言「ごめんなさい」と言ってもらえないと心がキッとなり、むしろ先に言われるとハッとなる。
そういう些細な感情がやがてすべてを変えていくのです。

実際に回復に努めて自分を変えていくのは自分だけで、自分が動かないといけないのやらないといけない。
なのでそこで回復したい意思や気力を人の手を借りてさらに育てていくのです。

回復できるのですから、簡単に死にたいとか死ねばいいのにとか口にしない。

口にしない。

今生きていることは自分が自分と戦って、とりあえずまだ負けてはいないということ。つらいのは他人のせいじゃなくてつらさを乗り越える武器を獲得していないだけ。

生き物は追い詰められても絶対に突破口を探すことをあきらめない。だから追い詰められると閃きや新しい発想を見つけることができる。

ただでは転ばない。追い詰められて自分一人だけ倒れるつもりはない。

そのくらい図太く生きてていい。

優しい人が無駄死にする。そんなことを見てきたかもしれない。死は取り戻せない。

生きている、それ自体つらいが、私たちはしようと思えばなんにでも挑戦できるのだ。
ただやらないだけ。
やらない自分を呪っている。
だからつらい。
やればいい。
何度心が折れても何かをやればまた前に進める。
絶対に誰かと交わり心が癒されるときが訪れる。


いつ死んでも恥ずかしくない生き方をしたい。
そう思うと私はまだ死ねない。
だって、もし今私が死んだら、家族が私の遺品や身の回りの人間関係を見たり調べたり詮索することになる。いや、それは非常にお手を煩わせますし?
ていうか見られなくない!
知られたくない!
ていう恥ずかしい生き方をしてるわけですよ。


生きていたいとか死にたくないとか思うわけじゃないが、私は90歳くらいまで生きる気がしている。
誰に詮索されてもいいと思えるまでそのくらいいかかるのかもしれない。
それは考えただけではっきり言ってものすごくツライ!!
まだまだそんな長く生きなきゃいけないのかと。
なんてカルマの多い人生(笑)
大変ですよ、本当に生きているということは。

大泉洋さんのラグビーの日曜ドラマありましたよね。
毎回ドラマの終わりは米津玄師の馬と鹿と重なって泣かされました。
大泉さんの、「生きるってつらいなぁ」と涙ぐんで言ったセリフに
「これが愛じゃなければなんというのか、」というサビがたたみかかけられ号泣です、私は。
今思い出してもいつでも泣ける。

まあ、生きていきましょうよ。
生き急がずに、
ね。

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