街へ出よう

私はいくつかの行為をするのにそれができる場所が決まっていて、例えば本を読むことができるのはカフェだけでありそれ以外の場所では全く集中できない。

他には、

ビジネス雑誌を読むのは図書館

何かを思いつくのは家のお風呂

と、決まっていて

私はこういう行為以外にも学びを得る行為には自分をどこかそれに集中できる場に置かないとだらけて能動的に動けないのである。

例えば、私は2年前の高校の受験勉強中に塾をさぼってカフェでビジネス本を読んでいて、その時からもっと本格的に株やビジネスの勉強をしたいなと思っていたのだが、ようやく半年ほど前になって高校の中で非公式の投資部というものができ、それに参加することでやっとビジネスの勉強ができるようになった。

上記の場所、場を用意することに共通しているのは、

「スマホから離れられる」という点である。


私はスマホのめちゃくちゃなヘビーユーザーで登下校中は歩きスマホが基本で、スマホをみているときは色々な情報が入ってきて、なにか学んでいる気分になってしまう。

だが、私はスマホから受け取る情報は学びにはならないと思っていて、学びはもっと高次元なものなのだろうと思う。

スマホの情報は学びを助ける補助的な情報で、学ぶとはやっぱり五感を使って感動的にあるものだと思っていて、スマホの情報から感動的に学ぶものは少ないし、それは大体twitterなどの得るリスク回避の学び、というよりは反面教師的な経験が多いと思う。

私はつい先日、高山洋平さんの「ビジネス書を捨てよ、街へ出よう」というめちゃくちゃ面白い本を読んだのだが、教養を身に着けるには外に出て、神羅万象を観察して分析して教養につなげるのだ。とあり、この本がこのnoteを書く発端となったのだが、私も一日充実したなと感じる日は大抵外に出ていて、逆に今日は何もできなかったなと感じる日は家の中にずっといた日が多いし、外に出た日もスマホばっか見ていると何も感じ取れずに終わってしまう。

他人のnoteから「ビジネス書を捨てよ、街へ出よう」の紹介。https://note.com/chebunbun/n/n458d088789b0

私は最近、’’学校通っている理由は外に出るため’’なんじゃないかと思ってきていて、そのくらい家の中にいても学びはつかめないなと思っていて、あと最近ハマっているのが知らない街を歩くことで、街歩きは自分の知らない世界のマップが埋まっていくようでとても面白い。

これまでスマホを悪のように扱ってきたが、私の生活はスマホがあるおかげでめちゃくちゃQOLが高いし、スマホがあるから街に出ても迷わないし、スマホが生活の基礎になっているから学びを得られているところも大きい。

さて、今日はどこへ行こうかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?