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今日は卒検でした、落ちた。

さっき普通MT免許の卒検を受けてきたのですが、登坂車線が終わるところの合流を余裕を持ってすれば良かったのを普段原付でギリギリでスっと合流してるのと同じ気分で行っていたら、たまたま後続車が途切れずにきて合流できず停止するという失敗を犯し検定に落ちました。
もし今日は大丈夫だったとしてもいつか同じ過ちを犯すだろうから、むしろ今日その失敗をしたことで5500円の再検料で一生心に残る勉強をできたので精神的にはポジティブなのですが、卒検の日に起こるとは人生も面白いもんだなぁと感じています。
最近、運命という言葉の面白さを考えることが多く、1ヶ月前、全く別の試験を受けることがあり、それも1次試験で落ちたのですが、その2次試験の日はその後めちゃくちゃ大事なイベントが予定されることになり、今回のように何かしら起こった結果には先に意味が生まれることがあるなと、機会損失はまた別の機会創出というように思うと、運命とはよく言ったものだなと感じています。
まぁそりゃ試験に受かった方がいいんでしょうけどここで落ちたのには意味がある、そんな機会が続いていると言うだけです。
哲学者のキルケゴールさんは、人間は精神であり、精神は自己であり、自己は自分自身の関係であり、その人間の死に至る病は絶望であり、絶望を回避するのは可能性を信じることであり、それ即ち神の可能性を信じること、つまり信仰心を持つことだ。
多分こんな感じのことを仰っていたと思うのですが、私はその神に当たる部分を運命と言うと面白いんじゃないかと思っています。
運命は悪いことにも良いことにも振れますが運命はその結果を受け入れることではなくて、その先の未来の可能性を抱くためにあると思うんです。
自分の道は全て自分で切り開けた方がそりゃ面白いとは思いますが、ある程度のランダム性に人生を委ねる方が未知への出会いは増え、楽しいと感じることは多いんじゃないかと思っています。
ある分野を突き詰めた一流の人間はその延長線の道を変えることは相当できることではないと思うのでそんなこと言ってられないと思いますが、楽しさだけを追い求めた三流の今起点の人生を送る人間はこういう生き方の方が面白いんじゃないかと思っています。

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