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【武蔵野にまた迷う 特別編】武蔵野の森を育てる会代表・田中雅文さんインタビュー

武蔵境駅から10分ほど歩いた住宅街の中に、境山野緑地と呼ばれる緑地があります。境山野緑地は、国木田独歩の「武蔵野」という作品にゆかりがあり雑木林が多く生えていることから、”独歩の森”としても地元の人々に親しまれています。

この緑地では、生活と自然が交わる豊かな生態系を育む緑地として、2005年から保全活動が行われてきました。保全活動の中心となっているのは、”武蔵野の森を育てる会”というボランティア団体。月に2回程、地元の学生や地域の方々と協力して、緑地の清掃や樹木の管理などを行っています。

今回は、そんな生活と自然の入り混じる緑地・境山野緑地について、”武蔵野の森を育てる会”発足当時から代表を務める、田中雅文(たなか・まさふみ)さんにお話を伺いました。

※こちらの記事は武蔵野文学館主催の企画展示「武蔵野にまた迷う」に連動した企画となっております。展示についてはこちらをご覧ください。

武蔵野の森を育てる会のはじまり

話し手 田中雅文さん(以下:田中)
聞き手 黒澤雄大(以下:黒澤)、藤井真理子(以下:藤井)
写真 栗田裕貴

黒澤)そもそも”武蔵野の森を育てる会”は、いつどのような目的で立ち上がった活動なのでしょうか。

田中)会の目的は、武蔵野の雑木林や森を大切にし自然の生態系をより豊かにしていくため緑地の保全と活用を行う、ということが会則に明記してあります。武蔵野の原風景にふさわしい野草や樹木が育ち、それを好む野生の生き物、例えば昆虫とか野鳥などが集まり、全体として生態系の豊かな雑木林ができあがるというのが当会の保全目標になっています。

ちょうどこの間見ていただいた、ナラ枯れ(編集部注:カシノナガキクイムシが媒介するナラ菌に感染することよって、水を吸い上げる力がなくなり枯れる現象)で木を伐採して、ドングリを撒いた場所がありますよね。あそこは、伐採直後に百舌鳥がつがいでやってきて、さっそく餌を探し始めたんですね。”独歩の森”が鬱蒼としていた時には来なかったような鳥が来てくれているんです。

”独歩の森”の北側の武蔵野青年の家(編集部注:境山野緑地ができる前に建っていた研修宿泊施設)の跡地の一部をやはり伐採して、今再生してますけど、あそこも再生を始めたらどんどん昆虫とか野鳥とか、特に東京都のレッドデータといって絶滅が危惧される生き物のリストがありますが、そこに載っているような生き物がどんどんやって来てるんですね。やっぱり明るくして、若い状態にしていくとかなり良くなっていくということが分かりました。

ボランティアの方がドングリを撒いているところ。


黒澤)それは、生き物のほうが感覚的に感じ取ってやってくるということなんですか。

田中)そうですね、感覚というかね、生き物の本能というか。まあやっぱり光とか、そういう環境を好む生き物がやってくるわけですね。

最近武蔵野では、草地がほとんどなくなっているんですよね。道路があって、樹木があって、池もありますけれど、草っぱらというのが中々なくて。武蔵野でも中央公園はね、広い草っぱらがありますが、人がどんどん入っているので、そんなに簡単には生き物も生きていけない。それでちょうど我々がやっているところは、囲って立ち入り禁止にして、人が入らないようにしているので、そこは生き物が安心して暮らせる。

黒澤)確かに入れないようになってますよね。

緑地内は保全のため所々入れないエリアがある。

田中)ということで、立ち上がったのは2005年の5月ですね。2005年の4月にですね境山野緑地がオープンしたんです。その一か月後に会が発足して、それで今言ったように一言で言うと武蔵野にふさわしい生態系を育てていくという、それが目的ですね。ということは特に雑木林を大事にしたいということです。

黒澤)それは武蔵野の原風景として、雑木林のイメージが共有されているということですか。

田中)そうですね。もちろん武蔵野といったら江戸時代よりもっと前は草原だった時代がありましたよね。それも原風景の一つですけどね。今、我々から見て一番近い原風景というのが、国木田独歩の「武蔵野」もあるし、“武蔵野の雑木林”って言葉もあるし、そういう雑木林がかろうじて、昔とは違う状態ですけど残っていて、遺伝子がずっと残っているので、これを大事にしたいということですね。

子供たちのふるさとを作る

黒澤)そもそもの話なのですが、田中さん自身が、自然環境の保護や多様な生態系の保全に興味を持たれたきっかけはなんだったのでしょうか。

田中)本当の昔からいけば、元々生き物が好きだったので、子供の時から、ダンゴムシをたくさん集めて、空き缶に入れてですね、もう生き物が好きでしょうがなかった。

小学校からは大田区に住んでいたんですが、もうかなり開発が進んで住宅街になっていて。それでも神社があったりしたので蝉がずいぶんいたんですよね。だから蝉取りは楽しみました。今思えばすごいと思いますが、ああいう所でもタマムシがいたんですよね。やっぱり神社があって、昔の用水路みたいのがあって、そこの脇に木が生えていたりしたので、偶然タマムシの条件に合ったような場所があったんでしょうね。それでタマムシを見つけたりもしていました。

あと、オタマジャクシが季節になるとその辺のどぶ川みたいなところにぶわっと発生するんですよ。それを捕まえてきて家で育てたりするんですけど、カエルになってからが難しいんですね。動くものを食べるので、結局なかなかうまくいかないんですよ。蛾も色んな蛾がいるんですよ。きれいな毛の生えてないやつ、しっぽがひゅっとなっているやつ、それをいっぱい集めてきて家で飼って、餌やって、キャベツなんかやっておけばそれだけで蛾が育って。都会でも親しめる自然遊びはずいぶんたくさんやりました。

まあそういうことで、自然は好きでしたね。そのあと中高生で受験になりますよね。さらに、中学から大学院までずっと陸上部で、あんまり自然に親しむ機会がなかったんですが、気持ちだけはあって。

子供が二人いて、上の子が小学校に上がる頃に、所沢市のマンションに住んでいたんですね。でその時、子供会の組織(編集部注:子供たちが遊びを通じて健全に育つことを目的とした各地域ごとの組織)がそのマンションになかったので、作ろうっていってみんなで作って。

子供会というのは子供だけの組織で、その子供会を世話する大人の世話役組織が子供会育成会っていうんですね。子供会を育成する会です。自分がそこの会長にたまたまなっちゃったんですね。みんなマンションに住んでいる子供ですし、また他の所に移っていくんだろうなと思って、せめてここがふるさとだと子供たちが思ってもらいたいと考えました。周りに雑木林があるので、それを利用して活動できたらいいなと思って指導できる人を探していました。

そしたらちょうど地元の自然保護団体があって。”おおたかの森トラスト(編集部注:埼玉県西部に拡がる550haの平地林。絶滅危惧種のオオタカをはじめ多くの生き物が生息している)”といって、所沢市を中心に広大な雑木林の保全活動をしているんですね。もう30年近くやってるんですけど。そこに我々の子供会も一緒に参加して、時々お手伝いしたりしていたんです。そこからですよね、私もその自然保護のノウハウを具体的に学び始めたのは。特にその所沢市の雑木林。そこで保全の方法などを体験的に学びました。

それで、そのあと武蔵野市に引っ越してきた。もう20年ちょっと前ですけど、近くに都立武蔵野青年の家があって、その向こうが”独歩の森”だったんです。その武蔵野青年の家が、東京都の方針でなくなるっていうことになっていました。ところが、私がたまたま散歩をしてたらオオタカがやってきたんです。それでちょうど所沢にいた時に”おおたかの森トラスト”なのでオオタカが棲んでいたのですが、そこでちらっと見たようなのとやっぱり同じような。それが飛び立ったあと、小鳥が死んでて真っ黒くなってて、羽をむしられていたんですね。それでこのオオタカが襲ったんだというのが分かって。武蔵野青年の家の跡地が住宅になったら、もうオオタカは来てくれないかもしれないと思っていました。

そこで、当時の市長に手紙書いてこの青年の家の跡地を市が取得して、ぜひ緑の空間として残してほしいっていう手紙を書いたんですね。そうしたら市長も乗り気でした。近所の人と一緒に署名運動を始めたら、その地域の有力者の人たちも署名運動をやろうと考えていたそうで、一緒にやりましょうということになりました。それで市議会に1万7千人の署名が出されて、市長も買い取りがしやすくなった。それで市有地になったということですね。

黒澤)そうなんですね。

田中)ですから、生物多様性や自然環境保護という点でいくと、やはりその埼玉県にいた時に、所沢市にいた時に、”おおたかの森トラスト”に参加したのがとても良かったですね。当時は自然への興味というよりは、子供たちにふるさとを味わってほしいと思ったということです。たまたまその対象の場所が自然だったっていうだけのことで。

黒澤)それは子供たちに味わってほしいふるさとっていうのが、田中さんの中で自然と結びついているっていうことですかね。

田中)そうですね。まあ結局自分がやっぱり自然に興味があるのでそういう風に思ったんでしょうね。

黒澤)なるほど。そうするとやっぱり、子供のころから生き物に親しんでいたっていうのが大きいかもしれないですね。

田中)大きいと思いますね。

黒澤)そこから、所沢に住まれるまで、全く自然との関わりはなかったんですか。

田中)所沢に住む前は、練馬にいたんですね。そこはもうかなりの住宅地でそんなに自然はなかったんです。ただ、子供が生まれてから私の妻もそういう自然公園みたいな場所が好きなんで、二人でよくハイキングに行ったりしてたんですよ。それで子供が自然の中で育つといいなという思いがあって。練馬区の武蔵関というあたりに、子供が小さいとき住んでたんですけれど。そこから小金井公園までわりと便利に行けるんですね。それで毎週通いました(笑)。

所沢に引っ越してからしばらくは挟山市の稲荷山公園にも行ったりして。だから子供が小さい時にはそうですね、そういう自然の中で遊ばせてましたよ。だからまあ、その延長っていうのがあったのかもしれないですね。

”武蔵野の森を育てる会”の代表として

黒澤)”武蔵野の森を育てる会”は、最初は何人くらいでやられていたんですか。

田中)最初は15人くらいですね。

というのは、境山野緑地を整備する時に市が、事前にワークショップを開いて、30人くらい市民が集まってどういう緑地にするかということを、皆で話し合ったんですよ。それで結論が、所沢で私がよく知っていた雑木林の、そこは萌芽更新(編集部注:伐採後の木の根株に生える萌芽を育てて樹木を更新していくこと)で林を維持していて、若い雑木林だったんですね。こんな明るい雑木林のイメージで、っていうのでだいたい皆さん納得されて。それで市がそれを受けて、じゃあ設計しましょうとなりました。ただ市の話によると、緑ボランティア団体(編集部注:市立公園などを拠点とし、緑の保全や緑化に関する活動を行うボランティア団体)っていう制度が武蔵野市にあるので、その団体を作ってほしいということでした。それに何人かが賛同したんですよ、それが10名くらいですかね。

賛同したのはいいのですが、やっぱり代表ってだれもやりたがらないんですよね。私も「やだやだ」って言って、仕事が忙しいので逃げていました。ただ、署名運動に取り組む時に担当課長にお世話になって、色々情報もらったりしたもんですから、あんまり断り続けても申し訳ないと思って、引き受けることにしました(笑)。

黒澤)なるほど(笑)。

田中)ボランティアは本来自発的にやるもんですけど、そこでの私のスタートはまあ義理で(笑)。それでまあ10人くらい、市のワークショップのメンバーがいたんですけど、緑ボランティア団体を立ち上げますということで境山野緑地の開園時にもチラシを配ったりして。そうしたところあと数名、賛同する方が出て、そういう人たちで始めたという、そんなところですね。

ボランティアの前後には、倉庫の前に集まり田中さんが話をする。

黒澤)なるほど、皆さんでも基本的にはやっぱり、当たり前かもしれないですけど自然に関わっていきたいとか、まあそもそも関わってる方々っていう感じですか。

田中)ただね、それで難しいのが武蔵野市ってやっぱりもう自然がほとんど残っていなくて、原風景みたいなのがないような状態なので、自然という言葉でもやっぱりそれぞれのイメージが違うんですよね。

黒澤)確かに。広すぎますよね、言葉として。

田中)自然といっても、花壇みたいな、園芸的なものをイメージする人とか、色々な方がいますので。境山野緑地は、元々建物があった場所なので、建物の跡地っていうのは、とにかく瓦礫ばっかりなので、土を外からけっこう持ってきたりしてるんです。そうすると、土にタンポポやコスモスの種が混ざっていたみたいで、コスモスがぼんぼん出てきたんですよ。

藤井)コスモスって確か強いんですよね。根が意外と丈夫というかしぶといって聞いたことがあります。

田中)コスモスって外来種じゃないですか、それで私からみるとこれはやっぱり取らないといけない。というのも、会のコンセプトが「武蔵野の自然を大事にすること」なので。それで取りましょうって言ったら、必ずしも全員が賛同するわけではなく、中々まとまらないんですよね。そういうことがあって、けっこう合意形成が大変でしたよ、最初は。自然の生態系って何か、武蔵野の自然って何かとか、色々話し合って。そんなことやりながら、他の雑木林の見学もしたり、講師の方を呼んできて話してもらったりとか、その中でだんだん皆のイメージが今は定着してきたという感じですね。

黒澤)最初はまず皆さんで、武蔵野の自然って何だろうっていう、イメージを共有していくところから始めていったということですね。

田中)そうですね。皆で納得していかなければいけないので。誰かがね、強力にこれだって言ってついていくもんじゃないですからね。ボランティアは出入り自由なので。嫌だと思ったら抜けて構わないですし、会員がそれぞれやりがいの持てる活動でなければいけないので。

まずは自分たちで、とにかく、当初毎週やってたんですよ。毎週だけど1時間限定でとにかくやりましょうってことで、毎回だいたい10人くらいですかね、15人メンバーでだいたい10人くらい集まってやってたんですよね。

主な活動は、最初は草刈りですかね。生態系からみると草も大切なのですが、やっぱり住宅街の中なので、あんまりワサワサしてると問題も起こるので、かといって全部抜いてしまうと自然状態が悪くなるということで抜かないで刈るようにしています。ただそれでもやっぱり人のイメージはそれぞれなので、刈り方が違うんですよ、5人でやれば5通りできる。徹底的に抜く方もいます。

この日の作業は笹刈り。手際よく笹を刈る田中さん。

藤井)どこまでやるかに個人差がでるんですね。

田中)だいたいじゃあ地面の10センチくらい上でねって言っても、やってるうちに納得いかなくて、きれいにしなきゃ納得できない方もいます(笑)。価値観の共有というか、それがやっぱり難しいですね。例えば、講座みたいな所から生まれた団体は、初めから講師からいろいろ話を聞いてっていうのが共通の理解としてあるから、そうすると割と進みやすい。我々みたいに多様な意見の人が集まって始めると、最初の学習によって共通の価値観をある程度学んでおいてっていうのがないので。

黒澤)それぞれのやりたいように自然を守っていってしまうことになってしまったと。

田中)そうですね。

黒澤)なるほど。ちなみに、皆さんこの辺りに縁のある方だったんですか。その、住んでいらっしゃる方とか。

田中)ええ、当初は近所の方が中心でしたね。今ではもう、杉並とか、小金井とかね、近隣の自治体からもけっこう来てもらいますね。

会の発足後2、3年経ったら、ちょうどボランティアセンター武蔵野の方が、亜細亜大学のボランティア団体を紹介してくださって。そこから学生さんが来てくれるようになりました。で、その後また成蹊大学もボランティアセンター武蔵野の方がイベントで声をかけてくださって、成蹊大学の学生さんも来るようになって。そうするとやっぱり明るくなる、雰囲気が。近所の人もまた来てくれたりして、なんかいい感じでだんだん集まってきたって状況ですね。

周辺の大学生たちもボランティア活動に参加している。

黒澤)確かに、にぎやかだと自分も入りたいって気持ちになりますもんね。若い人がいると元気になる感じが確かにありますね。

田中)今はですね、子供さんがいるお父さんとかそういう人も入ってくれているので、わりと年齢が多様になってきている。

黒澤)それはもうけっこう最近の事っていうか。

田中)そう、最近ですね。この10年くらい。あ、でもそうか最近っていってもそうでもないか、もう。

「武蔵野」と雑木林の音

黒澤)境山野緑地の雑木林には、”独歩の森”という愛称がついていると思うんですけど、その愛称ってどう生まれたものなんですか。

田中)これはね、私も本当はね、知らないんですよ。

黒澤)そうなんですね。

田中)私が引っ越してきた頃から”独歩の森”って皆さん言ってて。近隣に都立武蔵高校があるんですけど、そこの出身の画家さんを知ってるんですけれど、その人が若いころは”独歩の林”っていう言い方をしていた時期があったそうですね。多分、あんまり鬱蒼としていない若い雑木林だった頃は、森というよりは林といった方がイメージがあったんじゃないですか。国木田独歩が歩いた頃は、やっぱり萌芽更新している時代ですから、明るい林だったはずなんですね。多分その後、鬱蒼としてきたので誰かが森と言い始めたのではないかと思うんですけど、ちょっとそこはね、はっきりと分からないです。

黒澤)意外と定義というか愛称が生まれた瞬間というのは、曖昧な感じなんですかね。

田中)そうですね。ゆとりがあれば調べたいんですけど、行政がタッチしないところでこの名前が出てきてるので、行政の人に聞いてもわからないんですよね。

藤井)決められたというよりも、自発的にその周りに住んでいる方とかが、呼び始めたっていうことですかね。

田中)そうですね。だから地図には当然載ってないし、地図には境山野緑地って。

藤井)でも、皆さんは独歩の林とか森って呼んでるっていう。

田中)ただね、最近になって、武蔵境の駅前に大きい地図が何年か前にできたんですよ。そこにはついに”独歩の森”って出てたんですよ。

黒澤)認められたんですね、そういう名前が。

田中)今は、市の計画の中にも”独歩の森”っていう言葉が出てるんで、やっぱりだいぶ今、広まってきて認知されてきてますね。

黒澤)そうなんですね。始まりをちょっと調べてみたいですね。何かあるかもしれないですね。

田中)もとの愛称ね。文学館として調査して(笑)。

黒澤)気になりますね。

藤井)やってみたい。

黒澤)ちなみに田中さん自身は独歩の「武蔵野」を読んでみてどんな印象を持ちましたか?

田中)国木田独歩の「武蔵野」は、元々知らなくて、この”独歩の森”の活動をしてから認知しはじめたんですよ。やっぱり読んでみると、落葉樹の美しさっていうのを讃えた本だというのがとても今の我々から見るとね、よくやってくれたなっていう(笑)。これはその、独歩の「武蔵野」が割となんか、音、聴覚を大事にしているっていうのをね、聞いたんですけど。確かに、音がドングリ、栗が落ちる音に犬がびくっとするような、そんな場面ありますよね。そういう音も、雑木林の音っていうのを大事にしてたっていうのが面白いなって思いますね。

今、独歩の森は秋に通りかかるとすごい音するんですよ。ドングリが落ちるから。ぽとぽとって。あそこで書いてある音の雰囲気ってなんかそうじゃないかなって思っています。

独歩の森にはたくさんのドングリが落ちている。

黒澤)確かに。その落葉樹ってその美しさを音としても感じてたっていう部分が結構印象に残っている。

田中)そんな感じですね。ほとんどね、文学青年じゃなかったんです。子供の時は漫画ばっかり読んでて(笑)。

黒澤)そうだったんですね。文学作品とかには特に触れてはなかったですか。

田中)そうなんですよ。子供の時、親から読め読めって言われて、言われたら余計読みたくなくなる。漫画と遊びばっかりで、野外での遊びにはほんとにしょっちゅう。

黒澤)なるほど(笑)。

田中)子供の時印象に残ってるのは、レ・ミゼラブルですかね。子供の本だと『ああ無情』っていうタイトルですけど、ああいうのぐらいしか印象に残ってない。

黒澤)なるほど、逆にいうとその独歩の森があることによって、そこから文学に触れるきっかけになったっていうことですよね、ある意味。

田中)不思議な入り方ですよね。

黒澤)なるほど、面白いですね。

国木田独歩『武蔵野』市民版。

田中)野と林が入り組んでいるっていうような表現がありますよね。あれはとてもいい、目に浮かぶっていうかね、イメージできるいい表現だなって思うんですよ。あれが実はね、とても重要な表現だと思うのは、武蔵野市の中でも昔は村が4つあったわけですから、境村と西窪村と吉祥寺村と関前村か、4つあったんですね。境村以外は、全部、計画的な新田開発だったんですね。だから短冊状に全部、畑と林と屋敷をセットにやってたんですよ。だから吉祥寺辺りは、細い道がバーッと続いているでしょう。あれ、昔の一軒一軒の土地の間の道なんですね。

黒澤)そうなんですか。

田中)境だけは違ってて、色んな人がそれぞれ入り込んできて作った地域なので、短冊状になってないんですよ。すごくモザイク状になっていて、だから独歩があの表現したのはやっぱり境地区を歩いたからなんですね。

黒澤)面白い、なるほど。

田中)他の地域を歩いたら、ああはならなかった。

藤井)また違った文だったかもしれない

田中)そうなんですよ。

藤井)なるほど。

田中)はい。もう一つはね、都立武蔵高校が境地区にありますけど、校歌が、林を出でて林に入りかな、要するに出たらまた入るっていう、そういう歌詞なんですね(編集部注:歌詞は土岐善麿の作詞によるもの。土岐善麿は国木田独歩の「武蔵野」に感銘を受け、読売新聞紙上にて若山牧水と「むさし野」という短歌の連載をしていた)。それもやっぱり、境地区の雑木林だからこそなんですね。その辺はね面白いなと思いますね。

命を残していくこと

黒澤)境山野緑地は、1943年に雑木林の最後の萌芽更新が行われて、その遺伝子をどう残していくかというところの活動として、”武蔵野の森を育てる会”があるということだと思うんですけども、そういう遺伝子を残していくということに対して、田中さん自身はどういう価値を感じて活動をされているのかなっていうところをお聞きしたくて。

田中)江戸時代から脈々と命がつながってるんですよね。やっぱりそれを、いま途切れさせてはいけないと思うんですよ。だからそういう意味で”独歩の森”の活動はとても意味があると自分では思っていますね。今、更地を作って、そこに林を作って生物多様性の空間を作ることももちろんできますし、それは大事なことですけど、ただ”独歩の森”はそれだけじゃなくて、昔からの遺伝子がずっと続いている、そこが大事だと思うんですよね。

黒澤)なるほど。

田中)遺伝子を大事にするって言っても、一般の人にはなんか、またマニアックとかですね(笑)。

黒澤)そうですよね。まさにそのなんで残すんだろうなとか、新しく作りなおしてもいいんじゃないかなっていうことを簡単に思ってしまいそうな気がするんですけど。その中であえて、こう残していくっていうことの意味とか価値っていうのを田中さん自身がどう感じているのかということをお聞きしたいです。

田中)多分二つの意味があるんですけど、せっかく江戸時代から何百年も続いているんだから、途切れないで続いていくというのがそれ自体意味があるんじゃないかなあと思ってますね。まあそんなのどうでもいいっていう人もいてもいいのですが。

もう一つは、生物多様性の考え方の中に、生態系の多様性とか遺伝子の多様性とかがあって、それはやっぱりそういうレベルで多様であることが種の存続を守っていくということにもなると思うので。例えば極端な話、造園会社がまとめてどっかで苗木をバーッと作って、すべてそこからコナラとかクヌギとか供給してあちこちに現代の雑木林を作ろうと、ってやったら、とても生態系豊なものができるかもしれないですけど、遺伝子からいくととても単調なので、一つの病気が起こってきたら全部だめになるっていうことがよく言われてます。

コナラとクヌギのドングリを蒔いた場所。小さい木が生えている。

黒澤)なるほど。

田中)だからそういう点で、ここで脈々と続いている遺伝子はここで守っていかなければいけないんじゃないかと思いますね。それはまあ自然保護の基本というか。その生物多様性がちゃんと維持されることが、人間にとってもどれだけ大事かっていうのは色んな考え方があるでしょうけど。

例えば薬ができるためには、色んな植物が必要だとかっていうのがあるので。まあその、人間としても多様な生き物によって作られる自然空間の中で生きてそれを大事にしていくというのは、多分今まだ分かっていないレベルでの人間の安全性を確保することにもなるんじゃないかって気がしますね。

黒澤)なるほど。

田中)あんまり科学的に説明できないと思うんですけど、でも科学は分かったことしか説明できないので。でも、実際には分からないことがたくさんあるはず。それは、やはり未然に守っていくということが必要ではないかという気もするんですね。まあただ、個人としては、一番単純には江戸時代から続いてるんだからできるだけ残そうよっていうのが一番です。

黒澤)せっかくだったら残していったほうがいいんじゃないかってことですよね。

田中)歴史を感じるっていうか、なんかこうロマンを感じるじゃないですか。昔の風景が思い浮かばれて。

黒澤)そこって感覚的だし難しいですよね、伝えていくということが。逆に言うと、国木田独歩が「武蔵野」を書いて美しさを伝えていったように、色んな角度から伝えていくっていうことが、結構重要な気がします。全然興味がない人からしたら、色々な切り口がないといつか途絶えてしまいそうな気がしますよね。

田中)それはね、もちろんですよね。でも生物多様性の点でいくと、やっぱり理論的には、生物多様性の考え方からいけば、遺伝子の多様性は大事なので、その土地で生きてきた遺伝子は将来もずっと残っていくことが、これがまあ理論的なことだと思うんですよね。で、あとはまあロマンというか、私の感覚だと、せっかく江戸時代からあるから残していこうよと、そういう感じですよね。

黒澤)そうですよね。

田中)今、入口からいくと本当におっしゃったように、それを言って賛同してくれる人って、本当に何万人に一人かなんですよ。だからやっぱり我々が活動で誘う時には、「楽しさ」を前面に出すことが多いです。例えば、コロナの前は2時間の作業時間を取って、最後の30分はお茶とお菓子で振り返りをしていました。それを学生さんはとても喜んでくれて、お菓子が楽しみで来てくれる人もいると聞いたことがあります(笑)。うちの会員の中には、自然には興味ないけど元技師で「物置を効率的な状態で作っていくのは私に任せてください」っていう方もいて。

ボランティア後に夏みかんを収穫することも。ボランティアでは時々こうした楽しみもある。

黒澤)そんな関わり方もあるんですね。

藤井)そこがやりたいんですね(笑)。

田中)IT関係に強い人が、HPを最初に作ってくれて。それで、その人はそういう形で関わってくれていて。色んな関わり方があるんですよね。そういう人たちを大事にしていかないと、こういうボランティア団体ていうのはね、なかなか維持できないなって思いますね。

生態系ネットワークの拠点となる

黒澤)資料の中に「生態系ネットワークの拠点となる緑地」という話が出ていますが、境山野緑地がそのネットワークの拠点として、他の場所から影響を受けたり、逆に影響を与えたり、っていうのを実感したということはあったりするのかなと。

田中)緑地の影響というよりも、緑地が小金井公園と井の頭公園、それを結ぶ玉川上水の恩恵を凄く受けているんです。さっき言ったみたいに、木を伐採したら生き物がどんどん集まってくるというのは、完全に住宅街の中にポツンと孤立していたら、中々そうはいかないんですね。多分、玉川上水を渡ってくる生き物がいて、その影響は相当あると思いますね。

黒澤)なるほど。

田中)玉川上水自体はベルト状ですけど、その先に井の頭と小金井公園があって、そこからどんどん生き物が供給されてきて、”独歩の森”にも来てくれる。多分そういうことだと思っていますね。だからそういう意味での生態系ネットワークの一環として”独歩の森”もその中にあって、とても貴重なことだと思っていますね。

黒澤)境山野緑地だけだったらこんなに豊かな生態系が築けない気がしていて。近くに玉川上水がある、小金井公園があるからこそ、いくつかの要因が重なって、多様な生態系が保たれていくと思っているので。そういう意味で例えば、緑地がなくなってしまったら、また生態系が崩れてしまうし、という意味でいうと、すごくあの緑地があることの意味って大きいのかなと感じました。

田中)そう思いますね。だからそれぞれの大きな公園から来てくれるっていうのもあるんですけど、ある程度まとまった林なので、ここで繁殖して、それがまた玉川上水を伝わってどこかへいく。目で確かめてはいないんですけど、多分そういうことも起こりやすくなってるんじゃないかと思うんですね。

黒澤)なるほど。

田中)里山って言葉は定義が色々とあるので、簡単には言えませんけど、雑木林を里山っていう見方もあるし、畑とかも含めて里山っていうね。全体で見てみれば、雑木林と畑もけっこう境地区にあるんですよね。それで玉川上水もあるので、昔の江戸時代の農村地帯が丸々残っている訳ではないですけども、細々と林も畑も上水もあるので。だから例えば境地域で、そこでの里山構想みたいのを将来的に作っていけるといいなと思いますね。それは都市の中の里山というか、里山の自然と人々の住宅が共生している、そういう風になっていくと凄いことじゃないかなと。

黒澤)確かに今お話を聞くと、まさしくその拠点として緑地があるっていうイメージが湧いてきました。緑地だけではなく、残っているものを育てていくことで、全体が丸々昔の里山ではないけれど、住宅街の中に残っているものが脈々と受け継がれていくことで生態系が保たれる、ということもありますもんね。

武蔵野は人と自然が一緒に暮らす場所

黒澤)田中さんにとって武蔵野というのがどういう場所なのかというのをお聞きしたいなと思っているのですが。

田中)武蔵野っていうと、武蔵野の雑木林とか武蔵野台地全体ですよね。そういったところで、一つの江戸時代で言ってみればそこからかなり特殊な、特定の文化とか暮らしぶり、また江戸時代の里山っていうか雑木林は、萌芽更新でやっていたから、切ったばかりの所は草地だし、何年か経つと低木の地域になって、10年くらい経つと高木になって、自然状態によって違うので、雑木林だけで生物多様性が凄く高かったっていうことなんですね。そういう何か、生物多様性の高い空間を、意図したんじゃないけど維持する中で、生活する中で作ってきたっていう、そういうこともあるので。人と自然が一緒に暮らしているっていう点では、里山なんかまさにそういうものだと思っていて。

黒澤)なるほど。

田中)そのような自然と人の共生ということを、武蔵野っていうことをイメージした時に、私は思い浮かべるんですよね。

黒澤)大きい意味での武蔵野っていうイメージでいうと、何かこう里山を中心とした生活と自然というのが、交流というか一緒にある場所っていうイメージっていう感じですかね。

田中)ようするに国木田独歩が言ってたね。

黒澤)生活と自然が一緒にあるっていう。

境山野緑地を出ると住宅街が広がる。

田中)そういう点からもね、あの作品は文学作品として貴重なんでしょうけど、歴史的な事実をある意味残しているというのも、記録としても、まあ今はね、自分も武蔵野市に住んでるし、武蔵野台地の雑木林をやっぱり大事にしたいと思っているので、そういう意味で武蔵野って自分にとっては響きがいい言葉なんですよね(笑)。

黒澤)そういう意味で言うと、武蔵野って大きな捉え方で、里山を守っていくというような、そういうイメージがある中で、境山野緑地っていうのは、自然と生活を学ぶ場としても重要な場所になっているかもしれないですよね。

田中)そういう風にしていきたいですね。昔の雑木林は、薪とか炭とか葉っぱを腐葉土にしてというのがありましたけど、今の都市における雑木林は一体どういう役割なのかっていうのは、やはり追究して行かないとなと思いますよね。ただ自然が大事だから残す、っていうんじゃなくて。やっぱり我々の都市生活にいかに役に立つか、っていうか、どういう意味を持っているか、という事実を残していかなければならないなと思っています。

都市の里山としての武蔵野


黒澤)改めて、”武蔵野の森を育てる会”を今後どういう風にしていきたいとかそういったことがあれば、ちょっとお聞きしたいと思っているのですが。

田中)今、会として皆の合意が取れているのは、境山野緑地の中の特に”独歩の森”を今手始めに一部再生していますよね。あれをできるだけ広げていって、武蔵野の雑木林の原風景をきちんと残して行きたい、っていうのが、今の会としての合意事項ですね。

黒澤)広げていくって言うのは、物理的に広げていくということですか?

田中)はい、物理的に。今の再生地は狭いので。今の再生地の北と南にも広げて、ある程度細長く、昔のような若い雑木林にしていく、という話はできているんですけど。

今ちょうど、長期計画の調整計画が見直しが始まったので、色々意見していかないとということは、皆で言っています。だからまあ、会としてはそういう若い雑木林を、もう少し面積広くしていくことで、生物多様性の拠点として確かなものにしていくというのが、一番の目的ですよね。

黒澤)会としてメンバーを増やしていきたいとは思っていますか?逆にコンパクトな方が良いとか。

田中)コンパクトが良いというのはないです(笑)。ただまあ、会自体が広がるのがいいのか、それとも地域のネットワークとして色んな団体とかお店とかとどんどん繋がって、皆でネットワーク型の集団として広がっていく、っていうことの方が無理がないかなと思っています。会としては最初15人でしたよね。割と15人の会としては珍しく、非常にきちんと総会の資料も作って、ちゃんとやっていたんですよ(笑)。その時は「会が50人100人になっても耐えられるような運営の仕方にしよう」って言ってたんですけど。今の状態でさらに100人にとはとても思ってなくて。運営が大変なんですよ。

黒澤)そうですよね。

田中)だから、会自体の大きさというよりは、やはりネットワークですよね。地域の多様な団体と繋がりながら、我々と他の人とが一緒になって地域を良くしていく。こっちがやりたい時は協力してくれて、こっちも協力するとか。他と繋がることで、たくさんの人がここに通うという風にしたいなと思っています。

黒澤)核となるメンバーは15名の方々で運営されているけど、他にもネットワークが広がっていくのが理想ということですよね

田中)15名というか、今は50人なんです。ただコアは10人くらいなんですよね、いつも動かしてるのは。どうしても集団はピラミッド的になるので。今の所はまあ良いと思いますけど、ただ10年20年後を考えますと、代表をやれる人が次に出てこないとっていうのはありますね。そこは今後の課題ですよね。

黒澤)イベントとかは今、計画はされていないんですか?

田中)計画はしていないんですけど、話題に出しているのは里山構想みたいなもので、玉川上水や畑の団体とかと連携しながら「境里山フェスタ」みたいな。

黒澤)面白そうですね!

田中)インフォーマルには話題に出しているんです。”武蔵野の玉川上水を守り育てる武蔵野市民の会”という団体もあるんです。そこの会の役員が今度ガラっと入れ替わるんです。その中に私も入るので。

黒澤)そうなんですね。

田中)だからその”武蔵野の玉川上水を守り育てる武蔵野市民の会”とは連携しやすくなるのと、地域の農家の方とも連携して。今、何年か後には、何かできるんじゃないかなって気がしているんですけど(笑)。

黒澤)武蔵野の里山構想が、今後の展望としてはかなり大きいものとなっているんですね。

田中)都市の里山として、語彙矛盾かもしれないですけど(笑)。都市の中に、里山的なそういう環境がちゃんと入り込んでいて、里山が里山としてひとつのトータルな生態系ネットワークが成り立っている、そうなるといいなと思っています。



・武蔵野の森を育てる会
境山野緑地の開園に伴って2005年に発足。武蔵野の原風景にふさわしい野草や樹木が育ち、それを好む野性の生き物(昆虫、野鳥など)が集まり、生態系の豊かな雑木林を育むことを目的として、保全活動を行っている。


・境山野緑地

〒180-0022 東京都武蔵野市境4丁目5-14

武蔵野文学館スタッフも定期的にボランティア活動に参加しています。ご興味のある方は、ぜひ境山野緑地に足を運んでみてください。


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