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もう一つの原風景ジオラマ        (60年ほど前の二子玉川園〜砧本村)

 思い出の場所をジオラマで表現する原風景ジオラマの第2作をA4サイズのZゲージスケール(線路幅6.5mm,縮尺1/220)で作りました.これは先に公開した「私の原風景ジオラマ」の場所とは別の,私自身のもう一つの原風景である東急砧線沿線をイメージしたジオラマです.東急砧線は世田谷区南部を走っていた小さな電車で,二子玉川園駅(現二子玉川駅)と砧本村駅を結ぶわずか2.2kmの路線でした.新玉川線(現在の田園都市線二子玉川・渋谷間)の建設に伴って路面電車の‘玉川線(玉電)とともに1969年5月に廃止されました.二子玉川から砧方面の多摩川河岸は小学校1年の遠足で訪れる前から繰り返し出かけていて川遊びなどを楽しんだ場所であり,私にとってはとても懐かしい場所です.

玉電・砧線側の駅舎上空からの景観(次の(2)の場所を斜め上から見た感じ)をイメージして作成した当時の二子玉川園駅と大井町線・砧線の電車
1960年代の二子玉川園駅

上の写真の説明:
(1).現在とは全く異なる二子玉川園駅.多摩川の花火大会や二子玉川園遊園地へ行くときには大井町線側のこの駅舎を利用していました.また,正面右側奥に玉電・砧線側へ向かう地下道がありました.(2).玉電・砧線側の二子玉川園駅舎.地上から写した写真ですが,下に示す最近の写真とほぼ同じ方向で写されています.(3).二子玉川園駅を出た砧線60型電車.廃止の数日前に撮影した写真で,背後にはすでに高架線になった大井町線の線路が見えます.二子玉川(当時は二子玉川園)駅から渋谷に向かう田園都市線の線路は玉電・砧線の廃止後にこの場所を通って建設されました.(4).玉電の二子玉川園駅ホームで発車を待つ連接車の200型.ペコちゃんの愛称でよばれ,連接部分の車輪は1軸のみという特殊な構造を持っていました.(5).砧線ホームの60型電車.背後に独特の形をした玉電・砧線の駅舎が見えます.ジオラマではタイトル写真のように作成しました.(6).高架工事の始まった二子玉川園駅.玉電・砧線ホームを移設し,その場所に大井町線の仮ホームを作っている所です.この撮影地点の後ろ側には多摩川が流れ,多摩川を渡る大井町線は単線の線路が道路の真ん中を走る併用橋でした.下の<3>の写真は単線になって道路併用橋に向かう大井町線の電車の写真です.
 二子玉川園駅,砧線・玉電.大井町線などの位置関係は次の地形図でわかります.また,最後の部分にジオラマとの関係をまとめた図を載せているので参照して下さい.なお,多摩川の河原には波線の細長い四角形が見られますが,これは滑走路で,子供の頃にはしばしばグライダーが飛び立っていました.小学校1年生の遠足は多摩川の河原に出かけていて,その時の集合写真はこのグライダーの滑走路付近で撮影されました.

図3 砧線を示す5万分の1地形図「東京西南部」(1957年地理調査所発行) 砧線終点の「きぬた」は「きぬたほんむら」の間違い.南東部の「玉川園」は「二子玉川園」あるいは「二子玉川園遊園地」のことと思われ,現在は再開発されてオフィス棟や住宅棟などの高層ビルが建っています.
最近の二子玉川駅
多摩川高島屋SC前の歩道橋より撮影.高架線のプラットホームの右下に多摩川が流れている.
下の<3>の写真のあたりがちょうどプラットホームの場所に相当する.

玉電・砧線駅舎側からから見た二子玉川園駅

(1) 西側から見たジオラマの二子玉川園駅.(2)玉電・砧線駅舎の横から見た玉電の引き込み線終端部.右側のプラットホームで乗客を降ろした電車は手前の単線引き込み線部分で折り返して左側のプラットホームへ移動し,乗客を乗せて発車します.正面右側の小屋の向こう側に大井町線の上り側プラットホームがありますが,ジオラマでは小屋を省略しています.(3)大井町線側から見た単線の線路を進む3500型電車と奥に見える玉電30型電車.大井町線電車はこの先多摩川にかかる道路併用橋の上をゆっくり進んで溝の口へと向かいます.

野川を渡る砧線電車(1968年9月撮影),Zゲージジオラマの野川と砧線.その背後にひろがる瀬田の田園風景.

二子玉川園駅を出発した電車は中耕地駅を出たあと大きくカーブして都道11号線を越え,吉沢駅に到着します.目の前にはそれほど大きくない川が流れています.この川が多摩川沿いの低地と武蔵野台地との境をなす国分寺崖線に沿って流れる野川です.野川は少し下流にあたる二子玉川の兵庫島付近で多摩川に合流しています.この野川を渡る砧線も記憶に残っている景観で,ジオラマに表現しました.また,国分寺崖線の奥の世田谷区瀬田付近は今でこそ都会の風景ですが,今から60年ほど前はまだ武蔵野の面影が残る田園地帯でした.ジオラマでは当時の畑や農家をイメージした景観を表現しています.

砧線の終点砧本村駅(1968年9月撮影)とジオラマの砧本村駅.線路の末端に立つ鉄柱が印象的で,やや大きくなってしまったがジオラマでも同様のものを設置した.また,ホームの先に見える濃い焦げ茶色の2階建ての家も窓配置は異なるが似たものを配置した.

延長わずか2.2kmの砧線の終点である砧本村駅は,単線の線路が断ち切れた所にプラットホームが作られた簡素な駅でした.写真には写っていませんが,撮影した私の後ろにはわかもと製薬の大きな工場社屋が建っていました.壁が灰色でまわりには大きな建物がほとんど無かったので,電車を降りて前を見ると何か得体の知れない物体がそびえているという感じでした.とくに,雨天のどんよりした日には少し怖い感じさえしました.

ジオラマでは二子玉川園駅のほか,玉電と分かれて大きくカーブする砧線の線路,その向こうに存在する国分寺崖線の崖,その奥に広がる武蔵野の面影を残す瀬田付近の畑や農家.多摩川とそれに合流する野川を渡る砧線の線路,砧線の終点である砧本村駅の様子などをZゲージスケールでA4サイズにまとめました.実際の場所との関係を次の図にしましたのでご覧下さい.

モデルとなった場所などを地図に示してみました.右上の写真は高架線になった大井町線のプラットホームから廃止直前の玉電と砧線の線路を撮影したものです.地形図は地理調査所(現国土地理院)が1957年に刊行した5万分の1地形図「東京西南部」の一部です

 詳しくは月刊『地理』2024年9月号(69巻9号)をご覧下さい.
URLは次の通りです.
https://www.kokon.co.jp/book/b651338.html

最後に付録として廃止直前の玉電の写真を載せます.(1)の写真や(2)の渋谷の写真は現在とは全く異なる景観です.

廃止直前の玉電と「さようなら玉電」の花電車

(1) 高架線になった大井町線のホームから見た廃止が迫る玉川線(玉電)と左へ大きくカーブする砧線の線路.(1969年3月撮影).現在は玉電の線路の場所に田園都市線が走り,国分寺崖線手前の白いビルの先で地下に潜って渋谷方面に向かっている.手前の場所は二子玉川ライズSCの北端部になり,踏切の道は拡張されて二子玉川公園通りになっている.(2) 井の頭線渋谷駅と地下鉄銀座線引き込み線の間を走る廃止直前の玉電80型の電車.(1969年5月撮影).(3) 玉電廃止の掲示(用賀駅にて 1969年5月撮影).(4) 「さようなら玉電」の飾りをつけた花電車(1969年5月撮影).            

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