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<えのブログ番外編>いちばんやさしいセルフセラピー講座#20 期待を手放すと、期待を超えた展開が!?|内側から湧き出す本当の満足について

☆#1〜#9までの「自己認識編」をベースにお届けしています。
単独記事としておたのしみいただけますが、
「自己認識編」からお読みいただくのがおすすめです。
#1#2はどなたでも全文お読みいただけます)


「期待」はビジョンか? 執着か?


「期待」の扱いをどうするか、
について考えることがあります。

以前もお伝えしました
意図−葛藤=結果
の式で考えると、

意図があってこそ
結果がつくりだされる
ということで、

そこに多少なりとも
期待は含まれるものかな、
と思いますが、

一方で、
期待をもちすぎること、
結果を受けとることに
こだわりすぎることは、
宇宙への逆オーダーと
なってしまったりします。

(「◯◯がほしい!」
と願い続けることは宇宙にとっては、
「◯◯がない!」
という宣言になってしまう)

一輪の花を握りしめて、
美しい花が咲きますように! 
と「期待」していたのに、

花は咲かなかった……、
みたいな
がっかり体験って、

人生の中では
起こったりするものかと
思うのですが、

花で考えてみると、

握りしめていたから、
咲かなかったんだよね……、
ということにもなります(笑)

さらに、
咲かなかった花への
無念が残るばかりに、

実は足元に、
たくさんの美しい花々が
自生していたとしても、

そちらにまったく目が向かない
といういうことも、
起こりがちかもしれません。

ほかでもない、
わたしのかつての体験談です(笑)

「期待」は「無念」となる可能性が高く、
「無念」はより「執着」を強くします。

だからこそ、
「期待」は取り扱い注意なのかなと
感じます。

(がっかりしたくない、傷つきたくない
という思いから、期待をもつこと自体を
封印してしまったりということもありますよね)

もうひとつ、
これも自分のこととして
感じられていますのは、

期待や夢は
自分にそのコースを歩ませるための
モチベーションとしては
すばらしいものなのだと思います。

大きな動力を与えてくれるもの
というか。

でも、自分の魂的には
願望の成就、結果の達成は
実はどっちでもいいのかもな……、
ということも思います。

いやいや!
そこが大事なところですやん!

実った果実の
収穫のところですやん!

とプレイヤー側の自分の
目線からは思えるのですが、

自分の魂としては、

自分の制限をはずすこと、
元々の感覚を思い出していくこと、
本来の創造性を取り戻していくこと、

こそが目的かと思うため、

それを進めるためには、
動力が必要で、

その道のりでは期待や夢というものは
馬力のあるエンジンになるのだと思う。


「一輪の花握りしめ現象」は
執着の現れかとは思いますが、

握っていたから咲かなかった
という気づきを踏んだからこそ、

自分のまわりに次々に
季節ごとのあたらしい
花は咲くということに
やっと気づけるということが
ありそうです。

握った一輪の花が
咲かないほうがいい理由は
ほかにもありそうで

今現在のわたしたちは
夢や希望を自由に思い描こうと思っても、
思い描けるビジョンが
実はとても制限的なことが
多いように思います。

「せめて、こんなふうに生きられたら……」
「せめて、これが手に入ったら……」

その制限はまるで
謙虚で美しいようですが、

この「せめて」感は、
これからの時代に
じゃまな観念なのかも、
と感じます。

「せめてこの花が咲けば」の
一輪の花がなくたって、

季節にあわせて、
うつくしい花は咲き続けます。
その中に、咲かせたかった花が
咲いているのを見つけることも
大いにあるのかなとも思います。

生きることは
花をたのしむことと
わたしは考えたいです。

そして、

実は誰にとっても、
そのときそのときの
自分の花はもう咲いているんだ!
ということも強く思います。

外側に探してしまう自分もOK!
それも必要なプロセスなのだと思います。

でも、

自分のための花が咲かない人はいない、
花をたのしめない人生なんていない!
ということ強く強くお伝えしたいです。

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