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怖がりで臆病な弱小メンタルのなだめかた 〜寄せ豆腐の気持ちは寄せ豆腐にしかわからない〜

メンタルが弱すぎて困ってる。

「メンタル豆腐」なんていうけれど、わたしのメンタルは木綿豆腐でも、はたまたなめらかな絹ごし豆腐でもない。
老舗のお豆腐屋さんが作っている、型がないと形が保てない寄せ豆腐といえばぴったりだろうか。


例えば、仕事でのコミュニケーションにそれは現れる。
この件であの人に連絡しておかなきゃな、と思ったとしても、連絡するまでに数時間はかかる。
相手が忙しかったらどうしよう、どう受け取られるかな、わたしってどう見られてるんだろう、が永遠にメリーゴーランドしてる感覚。

それで済めばまだいい。
時には、一行の質問を考えるのに1週間以上、頭の中の中央ちょっと横あたりのまあまあ目立つところに「質問しなきゃ」の文字が鎮座し、気持ちが悪いことこの上ない。
質問文章とか、誰にどういうトーンで聞くかとか、どの時間にするかとか、ぐるっぐる考えてると、考えてるつもりなだけで特に思考は進んでいない。なんなら「そもそも質問する必要あるんだっけ?」と開き直って逃亡モードになるのが頭の中の日常。

こんな感じでも運よく仕事に支障が出ない程度にできているが、ともすればただの仕事ができないやつなので(既に片足どころか両足同時に突っ込みつつある)、どうにか改善できないかと、自分のメンタルについて考える機会がよくある。

一挙一動に一喜一憂

メンタルの弱さを感じる他の場面を思い出してみる。
自分が勇気を出してやったことに、「なんか違うなw」とか「普通にこうじゃね?」とかるーく否定されると、その言葉がずっと頭の中に響いて、響いて響いて響いて、耳を塞ぎたくなる。両手で塞いでみても、言葉はすでに耳の中にあって、むしろ余計に響かせてしまう。
相手に悪気がある場合だけじゃない。わたしのことを思って忠告してくれている場合も同様に、いつまでも消えない跡が残ることがある。

人の話し方や少しの仕草も気になる。
複数人で話しているのに、わたし以外を見ながら話す人。わたしが話しはじめたタイミングで携帯を触り始める人。
そんな日には、え、なんか悪いことした…?と涙目での大反省会が頭の中ど真ん中で緊急開催されるわけである。

寄せ豆腐の宿命

こうやって老舗豆腐屋寄せ豆腐メンタルにまつわるエピソードを振り返ってみると、どうやら弱小メンタルを裏付ける出来事は「人にどう思われるか」に集約しているらしい。
…そうだよ、知ってるよ。自分を取り繕って人にいい顔したいのよ。呆れるほどに気になる他人からの評価。

近ければ近いほど、好きなら好きなほど、その人からの評価は気になる。近い人に疑われたら生きていけないし、好きな人にうざいと思われたらこの世の終わりだ。
そう思いきや、初対面の人に嫌な顔されるのも意外と傷つく。もう二度と会わないからって開き直っても、ほんのちょっとの跡が残る。さっきの人にこう思われたってことは、ずっと前から近くの人にも同じふうに思われてたのかな、なんて頭がいらない方に回転していく。

人は、人と比べて「自分はダメだ」と思うし、人と比べて「割といけてんな」と思う。他人の存在なくして定義できる自分って、意外とない。
だからこそ、やりたくないけど人と比べて自分を評価し、人のなかで自分が評価され、はじめて自分という骨格が見えてくる。

自分の嫌なことって、人は知らないのかもしれない

嫌だったことをつらつらと書き連ねてしまったが、わたしが嫌だと感じている事実は、意外と人に伝わってない。
わたしは嫌なことがすぐに顔に出てしまうほうだが、たまに身近な人に弱音を吐くと、「そんなこと思ってたんだ、全然気付かなかった」と言われたりする。あれ、アピールしてたつもりだったんだけどな?と驚くことも多い。
相手のアクションに対しての気持ちがそのまま伝わると癪な場合もあるので、ある意味好都合ではあるのだが。

逆もしかり。自分が興味のあることや好きなことは、範囲としては自分の中だけの化学反応であって、人がそれを知るのはまた別の話である。

自分の感情のお世話係はやっぱり自分

ということは、否が応でも、自分の反応には自分が素直であるべきだし、自分が汲み取ってなんとかしてあげないといけない。それは自分にしかわかり得ないのだから。女子の必殺技「言わなくても察してよ」ではどうやらだめらしい。

「自分の機嫌は自分で取りましょう」とよくいわれるが、それは機嫌が悪いと人に迷惑がかかるから。
自分のマイナスな感情を放置しておくことは、自分のパフォーマンスを下げたり、人間関係をぎくしゃくさせたりと、まわりまわって人に迷惑をかける。
自分のポジティブな感情を放置しておくことも、自分の可能性を伸ばさずただ見過ごしているという意味では、結果として人のためにならない。

他人と共生し、他人から少しでもよい評価を受けるためには(これが第一目的にならないようにしたいものだが)、一見遠回りに見えるが、自分の感情のお世話に余念がないことも必要だったりする。

お世話をする=嫌な気持ちを見ないようにする、ではない

ということに気づいたとて、お世話係が上手に務まるわけではない。なんなら、なぜ自分にしか分からない気持ちが原因でひとりでくよくよしてるんだろう?とより一層悲しくなるまである。

メンタルが弱いので、とにかく平穏を追い求める。平和主義。嫌な気持ちを見ないようにするのが得意だ。そうすれば、その場はけっこうやり過ごせたりする。

そして、なぜかいきなり泣き出したくなることがある。原因に向き合うことすら怖いのだが、おそらく見てなかっただけでそこにはっきりと存在する、嫌な気持ちたちが主張を強めた瞬間だと思う。

こんなことが何度も続き、「見ないようにする」ことが得策ではないことに気づきはじめた。他人に迷惑はかけずとも、波が大きすぎるしカロリー消費が激しすぎる。生憎、メンタルのダイエットはしていない。

では、嫌な気持ちと示談するのか、真っ向から戦うのか。どちらも、わたしの精神状態では普通の生活を送りながらこなすのは難しいことだった。

一段上がる魔法

そんなときは、とにかく否定せず、包容力がある人に話を聞いてほしくなる。そうすると、不思議と気持ちが楽になったりする。

でも、怖がりで臆病で他人の評価が気になるわたし、そう簡単に自分の内情を吐露できるわけではない。しかも、それを話すということは、その忌まわしい場面をリピートしてなお言葉にまでするということで、示談にすら持ち込めないわたしにとってはハードルが高すぎる。
話は聞かずにそばにいてくれるだけでいい、とも思うが、それはこちらから強いることができるものではなく、ご厚意に過ぎないので、再現性がない。


そんなとき、上司に全く別の件で「もう少し俯瞰して見てみるといいよ」とアドバイスをもらった。いきなり鳥の目で全体を見るのは難しいから、まずは近くの段差を一段登ってみれば?と。

それを聞いて、ふと「話を聞いてくれる人になりきって、一段目線を変えてみたらどうだろう」と思った。
自分に話すのであれば場面リピートの必要もないし、一段登っているから、正面から向き合わずとも違う角度から見てあげられる。寄せ豆腐メンタルの、逃げ体質のわたしにはぴったりかもしれない。

もはや、その感情ごと包み込んでしまえばいいのだ。
「ああ、すごい嫌いだったんだな」「悔しかったよね、そうだよね」解決するわけでもなく、ただただ自分の感情だけを認めてみる。
すると、嫌な気持ちを見ること自体が苦手だったので、なんだかそれが新鮮で。それだけでも、メンタルのへこたれ具合は全然違った。

嫌な気持ちに入ってしまうことが怖くてたまらなかった自分が、嫌な気持ちに入ってる状態を許容できるようになった。「嫌な気持ちになってもだめじゃないんだ」と、かなり楽になった。それだけで、同じ嫌な気持ちだったとしても、波が少し小さくなったようだった。

そして、その様子を3人目の自分がまた違う場所から見てみると、「なんとか頑張ろうとしてるなあ、人生してんなあ」と、もはや面白くなって笑えてきた。
そうだ、その調子。


最近の合言葉はもっばら「人生してんなあ」。
スマートでもかっこよくもないけど、生々しく人生してると思うと、意外とこれでいいのかもと肩の力が抜けたりする。
解決できてるかは知らないが、弱小メンタルをなだめる程度であればこの言葉で十分だ。


魔法の言葉を手に入れて、寄せ豆腐も悪くないなと少しだけ思った。

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