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親父の話なぞしてみる


◆ざっくりと概要

2019年に亡くなったうちの親父、だいぶ変わった人ではありました。「顔と人当たりの良さ」だけでどうにか生き延びてきた男です。
今で言う「知的ボーダーライン」だったと思います。若い頃に覚えたギャンブル癖が20歳から老年期に差し掛かるまで治らず、仕事は人一倍真面目にやっていたものの稼いだ金を全てあらゆるギャンブルに注ぎ込む人でした。
あれはやはり、ある種の病気だったのかも知れません。

でもパチンコで勝ったらいつも電動鉛筆削りやら図鑑やら漫画やら買ってくれました。負けた時は朝な夕なに働いている母親の財布から札を抜いてましたけどね。

遺品整理していたら出てきた競輪・競艇場のノベルティ

彼は10代後半は東京に居たようです。
「昔なんで東京に行ったの?」と訊いたときに「俳優になりたかったんや」と言ってましたが、どうやら嘘だったと後年わかりました。

ここから、全て生前の本人から断片的に聞いた昔の話です。若干話を盛る癖のある人だったのでどこまで真実なのかは分かりませんが。

◆田舎から東京へ

中学の卒業式の日、家に戻って発作的にカバンを置いたまま親兄弟に何も言わずに家を飛び出し、無賃乗車で汽車を乗り継ぎ北九州(?)に辿り付きました。乗っている汽車がどこへ向かっているのかよく分かっていなかったようです。

1950年代初めの頃は色々緩かったのか鷹揚な時代だったのか、車掌さんが切符を確認しにくると他の乗客が皆親父を隠してくれたり、時に車窓の外にぶら下がったこともあったそうです(!)。また飲み物や弁当を分けて貰ったりと可愛いがってもらったようです。

そして九州から岡山へ。
そこで一人の青年と出会い、「東京に行こうぜ!俺の親戚がやってる会社の仕事紹介してやるから」とそそのかされたまだ世間知らずだった親父は快諾。一緒に東京へ行き、現在も存続する某社の面接を受けました。しかし不採用。

その青年もいつの間にやら姿を消し、一人見知らぬ街で途方に暮れた親父は上野公園の西郷隆盛像のたもとでしばらく野宿生活を続けました。

写真はWikipediaより拝借

そのうち、乞食のような少年を見かねたある男性が「うちに来ない?仕事あるし飯も食えるから」と声をかけてきました。

行ってみると、和服問屋。そこでしばらく、店番をしていました。
しかし生来の飽きっぽさからすぐに仕事を投げ出し、その後浅草の紙工芸の店で箱を作りつつカビの生えた煎餅布団しかない安宿で寝泊まりしていました。

◆親父に好意を抱いた女性たち

東京で最後に就いた仕事は日本橋の精肉店。
さばいた肉をすき焼き用に販売し、また弁当を作って配達もしている店でした(この店はすき焼きをメインに出す料理店として今も営業しています)。

まだ路面電車がメインで地下鉄は銀座線と丸の内線だけでした。地下鉄や路面電車に乗って弁当の配達をやっていました。
この仕事が性にあっていたのか、数年続いたそうです。
ここで仲の良い女性がおりました。親父曰く「こっちは友達としか思ってなかったけど今思うと惚れられとったんやろな」。

また同じ時期に、弁当の配達先(日本道路公団・現NEXCO東日本)のまだ大学出たての受付嬢に気に入られて、浅草や井の頭公園でデートしたそうです。
そうこうしているうちに向こうの親に会うことになり、「うちの娘をよろしくお願いします」と言われた親父はこりゃたまらんと逃げ帰ったそうです。

結局職場の女性からも受付嬢からも逃げ、東京を跡にし、名古屋へ拠点を移しました。ちょうど東京タワーの建設が始まった頃です。

その同じ職場の女性は親父が居なくなった後に銀座の『ショウボート』というキャバレーでナンバーワンホステスとなったそうです。
それにしてもなんで親父はそれを知ったのか。手紙でも貰ったのか?なんか残酷な話な気もしたり。

引用:https://twitter.com/bansho_akane/status/1410719867565604864

名古屋時代の話はあまり詳しくは聞いてませんが、ここでギャンブルを覚えたというのは言ってました。

まあその間も「寄ってくる女は拒まず、ほにゃららで結婚を迫られると逃げる」というようなことを繰り返していたようで、なかなかのクズっぷりです。
それにしても特に恨まれることも無かったようで、それもすごいんですけども。

そしていよいよ、最終的には法事のため一時帰省していた時になんとなく立ち寄ったスナックで働いていたまだ20歳前後の母親と出会ってしまい、ほにゃらら・・・(以下省略)。

親父が言うには「結婚してくれんかったらウチ死ぬで!」と脅されたそうです(元祖ヤンデレか!)。最後の最後、アレなひとにつかまっちゃいましたね。親父は当時25歳くらい、まだまだ遊びたい盛りだったでしょう。

◆何があっても復活する不死身の男

そして結婚し、それはそれは色々あった末に俺が生まれました。
ここから親父の不死身伝説が幕を開けました。

一度目。長距離トラック運転手を始めた彼は、落ちてきた積み荷の下敷きになりました。全身打撲でしたが、奥さんの献身的な看病もあって元通り元気になり、ほどなく仕事に復帰できました。
ちなみに彼はこの仕事を始めるまでバイクは乗っていたが車の免許を所持しておらず、この為に普通免許と大型免許を取ったらしい…という話を初めて聞いたのは十年ちょっと前。マジでリスペクト。

二度目。乗用車で山道を通過中、対向してきた大型トラックに衝突し車はひっくり返り回転しながら山道を滑り落ちました。しかし運良く軽傷で済みました。
↓多分この道路。

三度目。運送屋の社長から盗っ人疑惑を掛けられた親父はブチ切れて社長を鍬で●しかけた末に会社を辞め、知り合いのツテを頼って土建屋に就職。急遽ユンボの免許を取得し建設現場で基礎工事や解体工事を始めました。

ある日、ビル解体作業中の足場8階部分から転落。しかし途中で木の枝に引っかかり、ほぼ無傷でした。

既に大型免許持っていたので何かと便利だったのではないでしょうか。

四度目。仕事場からバイクで帰宅途中にバイクごと乗用車にはねられ頭を強打。
しかし真っ二つとなったヘルメットを身代わりに、これまたほぼ無傷でした。
医者が「頭にちょっと空気が入ったみたいですけど、まぁ大丈夫です」と言ってました。しばらくいつも以上にヘラヘラし少々呂律が回ってなかったようですが、それくらいで済んだのは奇跡です。

五度目。数年越しで血便が出るのを放置していた結果、奥さんに無理矢理病院へ連れていかれたところ直腸癌の宣告。しかし手術でき、ストーマ一歩手前でなんとか肛門も温存できました。
その後約20年、手術の後遺症である腸閉塞に定期的に見舞われ救急車で搬送されたこともあるようですが、それ以外は全く問題はありませんでした。

六度目。肺腺癌。「あぁ…昔仕事で吸ったアスベストが原因じゃね?」と直感しました。主治医に「何十年も前に禁煙してますし、やっぱアスベストですかね?」と訊いたら否定も肯定もしませんでした。
病気が分かってから8か月間、生来我慢強かった彼は最後まで辛い苦しいと周りに漏らすことはほとんど無かったようです。看護師へのセクハラ(「べっぴんさんやな〜」という容姿への言及とお尻ぺんぺん)が酷かったようですが。看護師さん、申し訳ありませんでした🙇‍♂️
そして残念ながら、不死身伝説はここまででした(2019年8月30日)。

猫が大好きで彼自身も(色んな意味で)猫のような人だったので、墓石に猫の型を入れてあげることにしました。

もし来世で出会うことがあったら、今度は親子じゃなくて親友になろうぜ、親父。
上京の際に荷物全部運んでもらったのは一生の思い出だ。

昭和前半はこういうポーズ写真が流行ったのでしょうか
「ヨシ!今日もご安全に!」