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「ジンルイ」九螺ささら 新作短歌

 ―― 短歌ムック「ねむらない樹」vol.5 掲載 書肆侃侃房 2020年8月

短歌ムック ねむらない樹 vol5

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  今年(2020年)書肆侃侃房発行の短歌ムック「ねむらない樹」vol.5に、気鋭の歌人、九螺ささらの新作短歌が掲載されていた。
  現代社会と向き合う前衛の新鋭歌人として、新型コロナウイルス禍に材をとった連作短歌である。
  だがストレートな表現ではなく身体感覚を直撃する諧謔味と、哲学的、歴史学的視座からの、問題の変質へ切り込もうとしている作歌の姿勢が覗える。

 3メートル、2メートル、その先はない。手話で伝える(好きでしたずっと)

   政界、マスコミ言語が乱用しているソーシャルディスタンス保持、自粛要請の話かと思いきや、結びは手話をコミュニ―ケーションの手段として生きる人の平常へと転調する。
   前者は距離をとり、人を遠ざけるための言葉、後者は思い人との距離を埋めるための言葉。こう比較並列表現されることで、不信を軸とすることを平常としてしまった社会の精神的病理が顕在化するようではないか。その病は次のような景で極まっている。

 「見えないものが人類の救世主なのです」インターホン越し宗教勧誘

    結びの「インターホン越し」のアイロニー。「見えないものが人類の救世主なのです」と平常時に語られることは、何か胡散臭い受け止められ方をして嘲笑の対象と化していたが、それが深刻度を増して響いて感じられるような世相が怖い。
    神もウイルスも見えず、妄信されたり、むやみに怖がられるところも似ている。それらとの共存や闘いの歴史が人類の今であるという思いが埋め込まれているような歌だ。

  「ハウス!」と命令された犬たちの犬小屋と繋がっている無意識

   流行っている「ステイホーム」は、言わば飼い犬のしつけ語「ハウス!」と同じことだ。つまり自粛とは、自分を何ものかの「飼い犬化」することに他ならない。それが「無意識」に受容されてしまう先には、日本人の歴史的瑕疵のリフレインの世界が待っている。

     久々にペンを手にして書いてみるすべてが遺書めいて重要

 私も日頃から提唱している。俳句と短歌は最後の清書くらいは手書きがいい、と。
 できれば朝露を採ってきて墨を磨り、毛筆で短冊に書くのがいい、と。
 一字一行が「遺書めいて」、襟を正して言葉に向き合う姿勢が身につくかもしれない。
 なにごととも「形から」が大事。
   良質の文化が育んだ「形」を大切にしないところに、時代と切り結ぶ前衛は生まれない。
   小泉劇場政治以降、その手法を継承した政治風土の、ワンフレーズごっこの、薄っぺらな指示表出語に毒されないためにも、朝露採りから始まるような言葉との向き合い方、自己表出語と向き合う心を失わないようにしたい。
 
 この連作集は、九螺ささらの身体感覚から立ち上げる形而上短歌と路線が違うが、前衛にはそのときどきの時代と切り結ぶ姿勢が大事であり、それに果敢に挑戦していることに共感する。時事詠はきっと失敗に終わるだろうことは予定内である。失敗しつつ今を表現しつづけることを自らに課さないものに、明日を拓く力はないと言ったのは、思想家の吉本隆明だ。彼の著作のすべては読みづらく、常に失敗作めいていた。だが、若く路頭に迷っていた私たちの今と明日を照らし続けてくれたことは確かである。
 九螺ささらにも、自分の本流とこういう時事と切り結ぶ仕事の二つを、ぜひ続けて欲しいと願っている。


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