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ジョージ・A・ロメロ監督の映画「ゾンビ」の思い出。

僕がロメロ監督の「ゾンビ」を始めて認識したのは1980年10月16日に
東京12チャンネル(翌年(1981年)テレビ東京に改名)の「木曜洋画劇場」で
放映された後年「サスペリア版」と呼ばれた内容だった。僕が14歳の頃だ。「サスペリア版」の母体となっているのはダリオ・アルジェント監修版で
英語圏はロメロ監督の米国劇場公開版が劇場公開・テレビ放映権を持ち,
非英語圏ではアルジェント版が劇場公開・テレビ放映権と持つと
大航海時代にポルトガルとスペインが世界を二分した様に
「ゾンビ」もロメロ監督とアルジェント監督によって
「世界分割」されたのだ。
「アルジェント版」故なのか
映画で使われたゴブリンの曲が全く使われず
ゴブリンはゴブリンでも「サスペリア」の曲を中心に引っ張って来ていて,
それ故に「サスペリア版」と通称されているのだが吹替に関しても

1.ピーターがフランに子供を産ませる事を希望してる。
(映画ではピーターが「中絶するなら早い方がいい」と言う。)
2.ピーターが「赤ん坊を育てる場所を探さなきゃ」という。
(映画ではヘリの残燃料をフランに聴くだけ。)
3.ピーターとロジャーが旧知の仲となっている。
(映画ではプエルトリコ人のアパートが初対面。)
等々,吹替独自の設定が多かった。

このサスペリア版を観た15歳の中学生は朝日新聞に次の様に投稿してる。

「テレビだから少しくらいのカットは我慢しようと思ったが予想以上に酷いものだった。台詞が変わり,音楽も映画に関係ないものが使われて面白さを半減させた。これでは監督の意向が台無しです。視聴率の為の一般ウケの手直しは控えて貰いたい。」

大槻ケンヂ氏はコラムの中で

「ピーターは「ベビーを育てる場所を探さなきゃ」なんて言ってない!」

と怒りをあらわにされている。

恐らく両氏は前年(1979年)劇場公開された「ゾンビ」を観たのだと思う。
この「生真面目さ」こそ「熱心なファン」の偽らざる心境であって
僕も今でこそ吹替の味わいや内海賢二氏と石丸博也氏の
掛け合いを楽しめる境地に到達したけど
当時は
「正しく翻訳して欲しい」
って願ってたなあ。
「ふざけてないで真面目にやれ!」
ってね。

1985年に米国劇場公開版がVHSビデオ化され,
既に大学生になっていた僕は神田神保町の中古ビデオショップで購入した。
だからノーカットで「ゾンビ」を観たのはこの時が初めて。
先程述べた「世界分割」理論から言えば
「何で米国劇場公開版が日本で出るの?」
と疑問に思われる向きもあるだろう。

東北新社のCMや外国映画の日本語吹替版や日本語字幕版を制作する部署に配属された入社1年目の江戸木純氏が
最初にアシスタントして担当されたのが他ならぬ「ゾンビ」だった。

江戸木氏は
「日本ヘラルドとイタリアとの契約にビデオ化権は入ってなかった筈だ」
「当時は映画界全体にビデオ化権という新しいメディアの権利意識がなく」
「契約書にその旨記載されている作品は殆ど無かったのだ」
「恐らく「ゾンビ」のアメリカの製作会社ローレル・グループと
英語圏以外の世界販売権を持っていたイタリアの会社との
大元の契約にもそれは無かった筈」
と述懐される。
当時既に「ゾンビ」に複数のバージョンが存在する事は
ファンの間でも周知の事実となっていた。
日本の初ビデオ化をどのバージョンで出すか
日本ビクターとパイオニアLDCは悩んでいた。
江戸木氏の元には「米国劇場公開版」の1インチマスターが
米国の権利元から届いていたが氏は迷われていた。
日本で公開されたのはアルジェント版であって,
米国劇場公開版をビデオ化した場合,
「サスペリア版」のときの様に
映画を観た日本の熱心なファンから
「コレは違う!」
と猛反発を受ける事を恐れられたのだ。
次いでイタリアからアルジェント版の35㎜フィルムが届き
米国劇場公開版とアルジェント版の何れかを「選ぶ」必要が生じた。
ひとつの作品のビデオを2つのバージョンで出す事は殆ど無かった。

江戸木氏は「サスペリア版」の愚行を繰り返すまいと
アルジェント版のビデオ化を推したが氏は
ポスト・プロダクション(映画制作に於ける撮影後の作業の総称)の担当者で「それ」を判断・決定する立場になく
「この作品に対するさしたる思い入れのない担当者たち(この怨嗟に満ちた言い方!)」は
より「尺の長い」米国劇場公開版のビデオ化を決めたと言う。

ビデオを見ると「オリジナル全長版」とある。
映画監督の羽仁進氏の娘さんで随筆家の羽仁未央さん(当時21歳)は

「日本公開より11分長い127分版。これこそ究極のホラーです。」

と推薦文を書かれている。
日本で公開されたアルジェント版(119分)は過激な描写がカットされ
115分となっていたから115分+11分=127分と計算してる訳で,
足し算が間違ってる上に,
米国劇場公開版はアルジェント版の長尺版ではない
という意味に於て2重に間違ってる訳だが
「間違ってる」と指摘出来る人間は少なかった。

江戸木氏は米国劇場公開版をビデオ化するに当たって
「正しい翻訳」を目指したと言う。
「サスペリア版」の翻訳は勿論だが日本で劇場公開された際の,
野中重雄氏の翻訳を
「かなりラフな意訳の多さで字幕業界では有名」
と表現され,野中訳の流用を避け,木原たけし氏に字幕翻訳を依頼し,
翻訳チェックに吹替版の演出で有名な山田悦司氏を付けたと言う。

野中氏の「ラフな意訳」の一例を紹介しよう。

「私は我々が生きお前たちバカ者をも救うのだ」

何遍野中訳を読んでも,僕はラウシュ博士が何と言ってるのか分からない。

はあ?

江戸木氏はアルジェント版のビデオ化が
9年後の1994年に持ち越しになった事を今でも悔やんでおられる。

「あのとき自分がもっと強硬に主張していれば…」

ってね。
米国劇場公開版には「ゾンビ」「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」
「マーティン」「ザ・クレイジーズ」の予告編が収録されているが
「ゾンビ」の予告編はアルジェント版の予告編なのだ。
江戸木氏の意地を見て取れるのだ。

ディレクターズカット版は
最初のDVDが廃盤になって大変なプレミアが付いた。
同じく廃盤になっていたアルジェント版の2.5倍くらい。
その理由は米国劇場公開版,アルジェント版,ディレクターズカット版の中で,
ディレクターズカット版が「最も尺が長い」からだと思う。
加えて日本での
「ロメロが本当に描きたかった「ゾンビ」!」
との煽り宣伝が功を奏したのだと思う。
「尺が長い」米国劇場公開版を最初にビデオ化した
「この作品に対するさしたる思い入れのない担当者たち」
の判断は熱心なファンの心中を見抜いていたのだと思う。
ディレクターズカット版を通しで観たのは
2度目の廉価版DVDで出てからで2007年の事だったと思う。

2010年の新世紀完全版でディレクターズカット版に
初めて内海賢二&石丸博也両氏による「正しい吹替」が新録された。
「僕達」はこの日を30年待ったのだ。

その後,クラウドファンディングで「日本初公開復元版」が出て、
今年になって「ゾンビ」ファンなら誰もが夢見る
アルジェント版とディレクターズカット版を合体させた
超長尺版(149分)が出て,今日に至る。
「サスペリア版」から43年。
思えば遠くに来たもんだ。


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