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とよ田みのる先生の「金剛寺さんは面倒臭い」第1巻レビュー「金剛寺は「心の無い面倒臭いロボット」なのか?」

ある日あるとき,都内某所に直径200mの「穴」が出現した。
「穴があったら入りたい」のが人間の本性。
2年かけて,とある調査隊が「穴の底」に到達したとき,
地上から「穴の底」までの距離は1万4千500Km。
因みに地球の直径は1万2千742Km。
測定装置が故障していないとするなら,調査隊は地球の裏側を突き破り,
成層圏を飛び超え,真空の宇宙空間に到達している筈だ。
しかし測定装置に故障はなく
尚且つ調査隊は宇宙空間で窒息してもいなかった。
では「ここ」は一体何処なのだ?
そこは御伽噺で言うところの「地獄」であり
「地獄」には御伽噺で言うところの「鬼」たちがいた。
何故地獄と地上とが「地続き」となったのか?
「地獄が満員になったから」とするなら
死者たちが地上を歩き始める筈だが現時点でその兆候は認められない。
現時点で認められる事象は地上にやって来た鬼たちが
人間たちと何ら違和感なく共存しているただそれだけだ。

本作品の主人公のひとり樺山プリンは肌の色が赤く
2本の角が生えた鬼であり現在大江戸湾岸高校に通う高校1年生である。
樺山…彼が通学中に捨て猫を見つけ魚肉ソーセージを与えようとすると
それを制止する者がいる。
それが本作品のもうひとりの主人公・金剛寺金剛であり
現在大江戸湾岸高校に通う高校2年生である。
金剛寺…彼女は捨て猫に魚肉ソーセージを与える行為は
捨て猫に依存心を生じさせ自立心を挫き本当に捨て猫の将来を考えるのならその魚肉ソーセージを与えるべきではないと主張するのである。
金剛寺の御高説が続く中,樺山は近くの妊婦が苦しみ出したことに気付く。
金剛寺は樺山の視線の先を追い妊婦の様子に破水の兆候を見て取るが早いか
妊婦に対しては適切な処置を樺山に対しては的確な指示を与えタクシーで
妊婦をかかりつけの産婦人科医の元まで送る。
涙を流しながら感謝する妊婦に対し
金剛寺は感謝の言葉は不要であるという。
何故なら金剛寺は「道徳的規範」に則って行動したに過ぎず
そこに「心」の存在する余地はなく「心のない人間」即ちロボットに対して感謝が不要であるように自分に対する感謝も不要であり,
どうしても感謝したいのであれば「道徳的規範」に対して感謝するのが
道理であると言うのである。
金剛寺の一連の行動及び発言を見聞きしていた樺山は
拳銃を構えた天使が放った弾丸に「心」を撃ち抜かれその場で
「金剛寺さん好きです!!」「大好きです!!!」
と告白する。
金剛寺は柔道部の部長を務めインターハイに出場した際,
個人2位という強さを発揮し
その渾身の「体落とし」を告白した直後の樺山に対して放つのであった…。

第1話で金剛寺に対して恋心を抱いた樺山は級友に対して
「(金剛寺さんと出会ってから)世界が輝いて見えるんだ!!!」
と心境を語る場面があり
これは「ラブロマ」新装版第2巻4頁で星野が悪友たちに
「(根岸さんと付き合い始めてから)最近世界が輝いて見えるんだ」
と語る場面と対になっており「ラブロマ」を踏まえたうえで
全く新しい恋愛関係を描いてみたいという
とよ田先生の気概のあらわれであると僕は解釈した。
本作品のタイトルを見れば分かるように,まるでロボットのように
何もかも論理的に考えようとする金剛寺は他者が心の中で
何を考えているのかが分からず,そうした自分を「愚鈍な人間」と評価し
「愚鈍」だからこそ「道徳的規範」に則った「正しい」行動しかとれず
そこに「心」などという概念の生じる余地などなく
そこにはただ「心」のない「面倒臭いロボット」がいるだけだ。
だから自分などではなく心の優しい樺山に相応しい素敵な人を別に探せ
というのが金剛寺の主張となる。
それに対する樺山の主張はこうだ。
「そのままの金剛寺さんが素敵です」
「僕は金剛寺さんの面倒臭いところが大好きです」
この全肯定ぶりはどうだ!
「ラブロマ」でずっと「人間らしい心」を探し求めた
星野が存在しなければ本作品は誕生することはなかったであろう。

本作品に度々登場する文言に
「本編とは大きく関わりの無い物語である」
があるがこの文言を額面通りに受け取っていいのだろうか。
というのも第3話で金剛寺の父親合掌が登場するのだが
合掌は「武」を極める過程で対戦相手を再起不能に追いやった
自責の念から仏門に帰依し武闘派の僧侶となった。
合掌は娘金剛の「心の揺れ」を見抜き
樺山と「血闘」し、彼の「心の器」を推し量ることにより
娘の「心の揺れ」が鎮まり「心の行方」が定まると考えたのだ。
「血闘」の際,合掌は樺山に次のように語りかける。
「もし君が私の娘と深くつながりたいと考えているならば
私とも深くつながることになる」
「人と人のつながりは君達だけでは終わらないのだ」
「「君の人生」という名の物語に大きく関わり無いと思われる物が
ある日大きくつながるのだ!!」
僕はこの件(くだり)を読み思わず「アッ」と叫んだ。
とよ田先生は本作品で恋愛を描かれることに留まらず
「縁」若しくは「縁起」を
描かれようとされていることに気付いたからである。
そう気付いてから本書を最初から読み直すと
「本編とは大きく関わりの無い物語」
などただのひとつも存在しないではないか!

全てが「繋がっている」のである。

世間では本作品を「恋愛版「シグルイ」」と呼んでいるようだが、
僕の感覚では
「台詞回しが多分にジョジョ風味の「ラブロマ+」」
と受け取った。
文句なしの5つ星だ!

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