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FC版「ウィザードリィ 狂王の試練場」レビュー「ゲームは「難しければ難しい程いい」のか」

難解なPCゲームを作る事で有名な
あるゲームクリエイターがゲーム雑誌のインタビューに
「ゲームというものは製作者からの挑戦状である」
「Aというゲームが解かれたらより難易度の高いBというゲームを提供し」
「Bというゲームが解かれたらより難易度の高いCというゲームを提供する」
「それが製作者側の誠意である」
と答えられている。
そのクリエイターにとって
「ゲーム」とは「血を吐きながら続ける悲しいマラソン」だったのだ。

一方でファミコンのゲームの設計思想はこうだ。
「ゲームとは子供が家の手伝いをしたり,いい成績を取った御褒美である」
「あるいは誕生日・クリスマス・正月といったハレの日に買って貰う物だ」
「子供にとって5000円は大金で滅多にゲームは買って貰えない」
「そうして折角買って貰ったゲームが解けなかったら可哀想だろう?」
「出来るだけ多くの子供にクリアして貰うのが製作者の誠意である」

前者は「ゲームをクリアさせない」為にゲームを作り
後者は「ゲームをクリアして貰う」為にゲームを作る。
前者が求道者や苦行僧に向けてゲームを作り
後者が子供や一般大衆に向けてゲームを作る。
「求道者」は自分が子供より「上」だと思ってる。

池袋のデパートの試遊台を開店と同時に占拠して離さない大人がいた。
髪は伸び放題。風呂には入った事がなく,頭は小さく昆虫を思わせる。
後ろに並んでる子供が「僕も遊びたい」と泣いても無視。
見かねた男性店員につまみ出されるまでがセット。
「求道者」の正体とはホームレスのゴース星人なのだ。
そんなゴース星人がなんで子供より「上」なのか。
増上慢にも程がある。

前者の設計思想が小乗仏教なら後者の設計思想は大乗仏教なのだ。
とは言え折角買って貰ったゲームが1日でクリア出来てしまったら,
それはそれでガッカリであって「難易度調整」は永遠の課題なのだ。

PCのゲームは際限なく難しくなるのかしらと思っていたら
難しいゲームばっか出してた
日本ファルコムから「イース」が出て歯止めがかかった。
「いまRPGは優しさの時代へ」
コレは1987年に於けるPCのゲームが
「優しさ」とは無縁だったことを逆説的に証明してるのだ。

1987年はファミコン版「ウィザードリィ 狂王の試練場」が出た年でもある。
「ファミコン」という強力なライバルが登場しなければ
PCのゲームクリエイターが「優しさ」を顧みる事は無かったと思う。

狂王の試練場は「ワードナを倒してからが本番」と言われている。
「クリアしてからが本番」という設計思想が
「ゲームの難易度」論議に対するひとつの回答であると思う。
「ゲームクリアはさせてあげるけど「極める」のは時間がかかるよ」が
現在のコンシューマーゲームの設計思想の主流となってると思う。
僕が狂王の試練場の大ファンだから我田引水になるけど,
狂王の試練場は現在のコンシューマーゲームの設計思想の
先達ともなってるから今でも愛されるのだと思います。

拙レビューをお読みいただいた方が
「狂王の試練場は十分難しかった」
とコメントされている。
僕は「ウィザードリィ」ジャンキーで
「ワードナの逆襲」が
「ちょっと難しかったかな」と思っている。
「風来のシレン」で言えば
「「フェイの最終問題」からが本番」って感覚。
その感覚が「既に異常」だったのか…。

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