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一本木蛮先生の「同人少女JB」第1巻レビュー「41年前からの反駁」。

木尾士目先生の「げんしけん」(2002年)って漫画で
大学の現代視覚文化研究会(現視研=げんしけん)って
サークルの一員になった
大野加奈子女史は
「ホモが嫌いな女子なんていません!」
って叫んだけど,
大野女史は漫研の大問題児の荻上千佳の
「オタクが嫌いな荻上です」
「特に女オタクが嫌いです」
「何でそんなにホモが好きなんですか」
って「自己紹介」にカッとなって先の台詞を吐いたので
「女オタク=ホモが好き」ではなく,
もっと一般的に
「女というものはそもそも須くホモが好きである」
と主張してるのである。

しかしながら大野女史の発言は余りにも「雑」だと思います。
僕の妹は山岸涼子先生の「日出処の天子」のファンで
厩戸王子に「ショートク」と仇名を付けて掲載雑誌を購入しては
女子高の学友とキャアキャア言いながら読んでいた。
しかし妹はいがらしゆみこ先生の「キャンディ・キャンディ」,
山本鈴美香先生の「エースをねらえ!」,
弓月光先生の「エリート狂走曲」「ボクの初体験」の愛読者でもあって
「キャアキャア言う」のは妹の一部であって全てではない。
その極一部を取り上げて
「貴方の妹さんはホモが好きなんですね」
と指摘されると
「ちょっと待て!」
と言いたくなるのである。
「ホモが好き」なのは妹の一部であって全てではない。
社会学者の日高六郎氏の指摘される
「特殊によって一般を推定するエピソード主義」
の典型なのではないか。

本書は1982年…ネットもスマホも「オタク」って言葉もない頃,
好きな漫画や好きなアニメに対する「熱心なファン」である
17歳の高校生・藪木樹理(やぶきじゅり)が
自分の「好き」をどう発信していったのかを描いてる。

「オタク」という言葉は無かったが「マニア」という言葉はあった。
だが「物事に徹底的に集中してる人・熱狂してる人」の「狂」の字が嫌われ,

「確かに私は「熱心なファン」ではあるけれども気違いじゃない!」
「だから私を「マニア」と呼ぶんじゃない!」

…とマニア呼ばわりされた熱心なファンはかぶりを振るのである。

藪木の趣味は雑誌にイラストを送ったり
深夜ラジオに流して欲しい曲のリクエストの葉書を送ったりすること。
葉書投稿ですね。
採用されたらガッツポーズ。

学友に
「コナン海を見て!」
と声を掛け学友がピンと来て
「うん!海を見る!」
と応える台詞遊びが好き。

彼女の「好き」は「あしたのジョー」「ふたり鷹」「未来少年コナン」
「うる星やつら」「宇宙戦艦ヤマト」「750ライダー」
「ど根性ガエル」「軽井沢シンドローム」「宝島」…等々多岐に渡り
ジョーの台詞やシルバーの台詞や沖田艦長の台詞を突然口走る。

「バカメと言ってやれ!」

彼女は群れるのが嫌いで群れてる奴等を見ると
「見た目も一緒!」
「便所も一緒!」
「ヤダウソホントしか枕詞のない連中」
と心中で罵詈雑言を投げつけ
校舎の屋上で寝そべって天を仰ぎながら
「けっ…くっだらねえ…」
と漏らす無頼の17歳なのだ。

…ツルむのが嫌いなのは本当だが「話の合う仲間」を捜してるのも本当。
そこに彼女の「葛藤」が生じるのだ。
だがどうすれば「捜せる」のだろうか。

彼女は「他の誰にも出来ない自分にしか出来ないこと」で
自分の「好き」を発信する方法を模索する過程で
「うる星やつら」のラムの仮装に挑戦し,
手を染める「熱心なファン」が病膏肓に入って
「ビョーキ」と称される程の同人誌制作に関心を持ち始める。

藪木はこれから同人の世界にその身を投じてゆく訳だけど
彼女はオタクでもマニアでもなく,
あくまでも「熱心なファン」であって,しかも多分「ホモが好き」じゃない。
仮に「ホモが好き」だったとしても,それは彼女の「一部」なのだ。

先に述べた大野女史の「ホモが嫌いな女子なんていません」って言葉で
女子の「熱心なファン」が皆「ホモが好き」扱いされてる事に対する
一本木蛮先生の御自分の青春を例に取った
異議申し立てに図らずも本作品はなってると思うのです。

本作品は女子の「熱心なファン」が皆腐女子であるという
余りにも「雑」な括りが「取りこぼしてきたもの」を
女子の「熱心なファン」のひとりである藪木が
ひとつひとつ丁寧に拾い集めて
41年前から反駁してるのだと僕は思ってます。
一本木蛮先生は僕より1歳年上。
年齢が近い故なのか
「実感として非常に腑に落ちる」
点に於いて貴重な証言です。

一本木蛮先生の作品を始めて拝見したのが
ファンロード誌の「一本木蛮のキャンパス日記」でした。
電子書籍が出てるんだ。
再読したいところだが僕は紙媒体じゃない本は
「本じゃない」
と思ってるので紙媒体の再販を待つ他ないのである。


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