さくらももこさんを悼んで
まるで、空がストロボを焚いているようだと思った。
ほんの数日前、突然の嵐が来た日の話である。
なんとも、おかしな天気であった。私は帰宅するまでの間、幾度となく空のストロボに照らされたが、一度として雷鳴を耳にすることはなかった。一体この雷はどこを走っているのだろう。もしかしたら空の上で、誰かが今この時を記録に残そうとして、いくつもの写真を撮っているのかもしれない、とくだらないことを考えながら、私は自宅へと向かう足を早めた。
本当は、夕飯を食べに近所のカレー屋に寄るつもりだったが、潔く諦めることにした。いつ雨が降り出してもおかしくないし、ただ単純に雷が怖い。今週いっぱい限定の夏野菜カレーは惜しいが、背に腹は代えられない。まったく、日本人は期間限定に弱いんだから、と他人事のようにつぶやいた。
私がとんでもなくショッキングなニュースを目にしたのは、そのほんの数十分後。真っすぐ帰宅する選択が幸いし、一滴も雨に降られることもなく雷に打たれることもなく、帰宅してすぐのことだった。今日のことを何かしら文章に書いて記録を残そう、そう思ってPCを開いた時には、雷を怖がって距離をとっていた窓の外で、容赦ない大嵐が吹き荒れていた。
画面に表示されてたその日のトップニュース、さくらももこさんの訃報が目に飛び込んだ時、私は思わず「えっ」と大きな声を上げてしまった。
その日ひっきりなしにストロボを焚いていた、空の上の「誰か」とは違い、私はあまり写真を撮ることはしない。写真は私の目に映ったものを切り取ってくれるが、その時私の考えたことを残してはくれない。何かを訴えかける素晴らしい写真を撮る人は何人も知っているが、私にはそんな技術はなく、後々見返して「これ何の写真だっけ?」と思い悩む未来が見える。
だからと言って、記録を残すことが嫌いなわけではない。むしろ、相当好きな方だ。そんな私にとって、唯一と言って良い、自分を表現するために使ってきた媒体が文章であり、私がそうやって自分の経験を文章で残す際にいつも心の中で思い返してきたものこそ、さくらももこさんのエッセイだった。
さくらももこさんのエッセイを初めて読んだのは中学生の時だったように思う。
家族の誰かが読むために買ったのだろう、本棚に陳列されていた「もものかんづめ」をなんとなく手にとった当時の私は、今よりももっと読書家で、物書きを夢見る子供だった。
初めて読んだ時の感動を覚えている、と、文章の勢いで書いてしまいたいところだが、正直その時には、大きな衝撃や感動があったとは記憶していない。ただ、非常に面白かったことだけはよく覚えている。
なんて文章が上手なんだろう、読ませる文章とはこのことだ、とすんなり納得した。大変な事件が起こり興奮を持って読むような物語とは違う。筆者の日常を描いている文章が、するすると文章が頭の中に入ってきて、素直に先を読み進めたくなる。
エッセイとはこういうものなんだな、と、そう思ったのが、私がこの本を読んで得た学びだった。
すなわち、誰にでも起こりうるような日常を、自分の目線で切り取って描き出したものだ。出来上がる文章は、同じ経験をしたとしても、人によってそれぞれ違うものになる。そこには、筆者の考え方、それまでの人生から培われた価値観が反映されるからだ。
それ以来、私は文章を書こうとするたび、自分の脳裏にあの時読んだ文章がちらつくことに気が付いた。私もあんな風に、自分の目に映したものを描き出すことができているだろうか、と何度も立ち返って考える。
文体を真似したいだとか、あんな風に面白いエピソードを書きたいだとか、作者の価値観に共感しただとか、そんな次元ではなかった。私にとって、「文章を書く」という概念そのもののお手本として、あの時に読んだ「もものかんづめ」が頭の中にしっかりと根差していたのだった。
いくらお手本としたところで、私の書く文章はさくらももこさんと同じようなものにはならない。それは当然のことで、これまで過ごしてきた人生経験も違えば、考え方も価値観も違う。人はそれぞれ違う視点を持っているし、同じものを見ていても同じように見えているとは限らない。私は、私の視界がどう映っているかを、真っすぐ描き出していこう、そう思うようになった。
そしてそのうちに、それは私自身の人生における価値観となった。
もちろんそれだけが私の価値観の基になっているとは思わない。しかし確かに、文章を書くのが大好きだった私が、あの時あの本を読んだことは、私自身の人格形成に少なからず影響を与えたのである。
気づけばあれから、相当の時間が経ってしまった。
あのエッセイを読んだ経験はとっくの昔に「過去」になり、私に大きな影響を与えた人物はもう「今」この時を生きていないのだと思うと、切ない。
時代の変化は、私という人間を形作ってくれた経験や、影響を与えた素敵な人々を容赦なく置き去りにしてゆく。
もしかしたらあの日、空は「今」が終わってゆくことを、私に忠告していたのかもしれない。そして、突然のショックにただただ茫然としてしまった私の分まで、力いっぱい泣いていた。
嵐の後の重く湿った空気は、深く吸い込めば肺の中でぐんぐんと膨張して、窒息してしまいそうだとよく思うけれど。
今年の夏はもうすぐ、終わってしまうのだ。この空気を味わえるのは今だけしかないと思うと、お腹いっぱい飲み込んでみるのも良いのかもしれないと思う。日本人は期間限定に弱いのだ。
さくらももこさん、ご冥福をお祈りします。数々の素敵な作品を生み出してくださってありがとうございました。
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