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太陽はあるって信じてる

今回は僕が思う、信じるということ。
僕のルーツをたどりながら、同時に自分の過去も癒しながら。

僕は家庭がキリスト教で祖父が牧師をしていた、両親はずっと介護職、祖母は長崎の被爆者だ。きっと稀有な家庭で育てられてきたのだろう。だからほかの家庭より、様々なことを考える機会があった。有名人やビジネスの成功者、著名人からではなく、近しい人から得ることが多かった。そして僕に伝えてくれた人は皆「信仰」というものを持っていた。信仰は信じられる心。それはどれに対してでもよく、「私は信じている」と言えるものがあること。どんなことがあろうと心の底から信じているという感覚。何より言葉や文字ではなく、行動を見ていた。僕は信仰を持つ人たちが何をして、どう生きているのか触れることができた。いつからか信仰を持つ者と持たない者の間に立っていた。物心ついたころにはペルソナを使い分けはじめる。家族と友人、親族と学校。違うと気づいていなかったせいかとても自分を抑え込んでいた。なんせ価値が、基準が、感覚が違うのだ。これは孤独だ。抑え込み過ぎて、能動的になれなくなっていた。みんなとお菓子を食べていても「余ったらでいい」と言ってほんとはとってもほしいのに。そしたら「お兄ちゃんだね、えらいね」と言われた。あの頃の僕、つらかったね。でもね、今は1人で全部食べられるような強欲さを出せるようになってるからね。ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛しています。

思い出して、感情的になっちゃった。話を戻して、部活は厳しかった。集団というものがとても苦しかった。能動的になれない人間はグループにおいても、趣味であっても、コミュニケーションをうまく取れずフェードアウトしてしまうものなんだろう。ただ、教会は違った、これだけは伝えたい。「僕の知っている教会は全員に意見を聞いてくれ、イエスかノーか言う機会をくれる」

僕は宗教や、そういった類の価値観を持っている。だからこそ持っていない人たちの中では苦しい。高校、大学で「価値を切り替えて持っていないもの」なることにした。でもやっぱり、心がそれはできないと言っていたのだろう。途中でやめてしまった。けれど幸いなことにどこにいても友達はできた。それは集団に属せない僕にとってこの世界にいる重要な意義となった。今となってはそれも重要だと思い込んでいただけなんだけど。いやいや、よく頑張った。現在の僕までよくつないでくれた。ありがとう。

そんな僕にはもう一つ世界との接点、音楽という趣味があった。バンドもやった、異常なくらい音楽を聴いた。そして良いもの、僕のなかで革命を起こしてくれたものたちと出会った。革命は語りたくなる。これは仕方がない。でも共感者がいない。ならば、僕はフロンティアとして道なき道へ行くしかない、シャーマンになって得た知識を慣れ親しんだコミュニティに伝えていくしかない。でも能動的になれない、リーダーシップなんて自分に対しても失われていた。歌も楽器も自らを律して練習するということができなかった。その頃の僕はきっと魂が抜けていたのだろう。周りからもいろいろ言われた、言われたし、思われているんだろうと勝手に怖がっていた。でもできなかった、怖くて、怖くて動けなかった。それでも心の中には確信が一つ、僕にしか作れないものがあるって絶対的なオリジナルをもっている感覚。それが光。それだけが光。

大学に行かなくなり、引きこもる。やめて夜勤のバイトをする。そんな中、その時の彼女にあるカフェへ連れて行ってもらった。いや、彼女もその時初めてだったんだけど。そこは普通のかわいらしいカフェだった。今思えば、ここへは自分で来たんだと、あの「教会」のような場所を探していたんだと、「あなたが元気になるまでここにいて。私は私でがんばってくるから」そういわれたような。そのカフェはとってもアットホームだった。でも違ったのはスピリチュアルな話、オカルトの話、神社、神様、武術、気功、占い、レイキ、オーラソーマ、チャクラなんて話ができる場所だった。見た目普通なのにね。面白いのは僕が通い始めて数年たってからパワーストーン、天然石を置き始めた。今ではカフェはおまけで天然石とカードリーディングのお店になってる。ドリンクとちょっとしたスイーツはまだある。

家庭環境から僕にはもともと「信仰」という概念があった。人が信じるには確固たる理由があって、その人にとってはリアルなんだと知っていた。だから拒否も否定もなにもせず、「面白い話」という印象しかなく、とっても楽しかった。それに石に触ると色々感じるってことに気づいた。温かくなったり、ピリピリしたり、くらくら酔ったり、僕こんなことがわかるのか!とってものめり込んでいった。そしてそこでもまた、見えないし、人によって感じ方も違うし、あるか無いかわからないのにマスターやオーナーは「そう、あったかくなるよ!、強い石やからクラクラするんやで、私もさっき触っててピリピリ」なんて共感してくれる。こんなにうれしいことはない。僕しか知りえないこと、僕だけで感じていたこと、自分で自分の感覚を信じきれない僕は「あるんだね、そう感じたんだね」と認められたと思った。

僕は誰に対しても「何を信じてもいい」と思っている。信仰の自由は、生き方の自由だ。誰かがどうしていようと、それ凄いね!いいね!と言ってあげたいし、そう思ってる。少し前くらいから「信じる」ってのも言葉の一つ、優劣をつけるほど大切なものではないと感じるようになった。それは僕が誰かの信念につられないためかもしれない。自分に集中できるように線を引いているのかもしれない。そして最近は、「信じること」さえも結局自分を縛り付けているではないか、自分で作った信じるというルールでどうして行動の選別をしなくちゃいけないんだ?と思っている。「本当に信じていることはきっと意識に上がってこない、とても静かに、そして確かにそれに基づく行動が現れているはずだ」

僕らはきっと、言葉という枠から抜け出すんだ。そう遠くないうちに、言葉が最適化されるんだろう。今度はバベルの塔のようなことにはならない。その時はまだ早かったんだ。今の僕らならきっと神様も大いに喜んでくれる。太陽はある、だってみんな口に出さないからね。それが信じてるってことなんじゃないかな。

書いてて思ったんだけど、「見えるもの」と「見えないもの」の信じ方って違うんだよね。見えないものを信じるのが信仰なんであって。。。まだまだ詰めが甘いな(笑)先は長い、深い、それこそ言葉にならないくらい!

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