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ゆるりとほどける。

私という意識は複数あり、意識体は無限で、上から下を見、下から上を見る。科学は一種のバイブルだ。神々がどうして喧嘩するのだ?銀河を胸の内に持つ我は鏡として見つめる他者と私の代わりに私のできないことをやってくれている全他者に、どうあってもいいよ。たくさん喋るマインドにそうなんだねとなだめていく。

私は幾人かいる。今の意識を3次元と例えれば次元ごとにいるし、もっと細かくも存在するだろう。だから何といえば、「ここだけじゃない」ということ。そして矛盾するが「ここしかない」といことも。例えるなら海水浴に行く、和歌山の白浜へ行きたい、そこで泳ぐ。そんな感じ。海水浴場は世界中にある。海に面して泳げる場所なんていくらでもある。船から飛び込んだっていい。ただ今の「私」と名付ける意識はここにある。だからここのことをする。映画マトリックスで「運命とは、言い換えるならばここにいる意味。」というセリフがある。そうだよね。どこに居ようと、ここでやるんだよね。受け入れて認めてやっていくんだよね。

過去も未来も頭の中で想像することで生み出されるものだ。ならば、「今」しかない。そして「今」は全次元同時に存在している。さっき僕が冷めたコーヒーを飲み干したことも、3年前の今日も、明後日も、死ぬ間際も、「今」として同時に存在している。

意識体は無限だ。私たちの周りにはエネルギー場が広がっている。肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体。コーザルは自分中心に半径6.5mの球体となって広がっている。このエネルギー場はいくらでも広げることができる。球体にエネルギーを詰め込み、密度を濃くすれば自然と広がっていく。第七チャクラの上にステラ―という円盤(天使の輪のような)ものが無限に続く。ステラ―1、2,3,と。それぞれが遺伝子や肉体組織に接続されており、まるでヒト取扱説明書の索引のようになっている。僕のステラ―32は腱板につながっている、、かな?(笑)

前職でマネージャーからあなたは当事者意識が薄く、俯瞰しすぎている。と言われたことがある。それがどんどん強くなっている。今、この意識を上から見ている自分を感じる。ただ眺めているのだ。ゲームの主人公を操るように、どうせなら楽しいこと彼(僕)に思いっきりやらしてみようと笑いながらみている。その眺めている自分の上にもいる気がする。それぞれの私という存在がすべて持っているというのはこのことなんだろうか。あらゆる「私」が今同時に「全て」を行っている。

エンジェルナンバーというものを発想した人は何を元にしたのだろうか考えていた。身体や意識に作用するソルフェジオって面白なーとか、和太鼓や馬の蹄が胸に響く。声でグラスが割れる。クラシックを聴かせると氷の結晶は美しく、草花に愛を語れば大きくつややかに育つ。もし、神も龍も天使も宇宙の星々もそれぞれが発する波を観測できるなら、それは数字に置き換えられる。周波数が明かされれば、意識がもっと広がる。

科学の本も聖書も同じ作用をする。手にしている者がどう生きていきたいか、どうやってものを見たいか、どうやって繋がっていきたいか、それを叶えられる物語を選んでいるのだ。あなたはTVの影響が強いだろうか、親や育った環境が強いだろうか。ネット、SNSだろうか。漫画、アニメ、ドラマ、映画、歌、だろうか。そこで教わった物語の役をやってみようと自分で演じて生きているのかもしれない。僕にあなたを変えることはできない。できるのは「こうなっています」と伝えることだけだ。人はそれぞれ好きな物語を使っている。ただそれだけで、いつでも役(母親、父親、店員、良き友人、恋人、夫婦関係、敵対関係など)を降りられるし、別のお話を語ることもできる。いつでも、どこでも、どれでも、なんでも、生きていても、いなくとも。私が意識すれば。私が愛だと思い出せれば変わっていく。

神々が喧嘩するようなことがあるのだろうか。全知全能なのになんで喧嘩する必要があるのだろうか。シャーマンキングのハオがグレートスピリッツと一体化してエゴがなくなったように。そこまで行けば、争いは手放しているんじゃなかろうか。余談だけど、SF小説で設定だけが未来でそこに登場する人々の人間性が進化してないのは、ドラマチックでなくなるからで、スクラップ&ビルド、変化、成長を描くための例えとなっている。成長とは、今あるものを見て、コントロールせず、そのままを受け入れる。家事、仕事、人間関係、生活の中で一つ一つこの作業をしていくことをいうのだろう。この世界でしか得られない、本当に特別な経験なんだろう。

宇宙は無限だ。遠く遠く銀河の写真と脳細胞の写真が酷似しているという記事を見た。占星術はなぜ当たるのか。惑星が内臓とつながっているのか、はたまたそのものなのか。形が違っていても同じ役割の者たち。すべて同時に存在するならこの銀河を内包したものがあってもいい。ならば私の中に銀河があってもいい。なんとなく、内側を見た時になんか無限だなーと感じる今日この頃。

他者は鏡だという。どういう鏡なのだろうか。ムカつく、恥ずかしくなる、悲しくなる、怒る、拒む、怖くなる。そう言った感情がなぜ湧くのかを教えてくれるのだ。私の使う物語と違う物語を生きる他者に憤る。私の物語設定ではタブーなのに易々と行われるそれが怖い。その役は過去に演じた。よくわかる、共感し涙が出る。本当は私がその役を演じたかった、うらやましい。他者は鏡だ。自分が何を使っているか、どう感じているか、何に制限を設けているか、何が嬉しいのか、教えてくれる鏡だ。そしてそれは他者にとっても同じだ。私は私を生きることしかできない。そう、これも一つの物語だ。

私は私を生きることで世界の役に立っている。宇宙のめぐりに参加している。思考、エゴ、自我が何と言おうと、何を行わせようと、何を選択しようと、めぐりに参加している。出ることはない。だから考える必要はない。他者は私のできないことを代わりにやってくれている。私は他者にできないことをやっている。それでいい。理想に降参して、今目の前のものに集中。ここしかないのだから、ここに気づき、整え、手放していく。

皆が使う物語のベースに「二元性」というものがある。「いい、わるい」、「あなた、わたし」、「物質、非物質」などがそれだ。それは分けられ、反発しあうようにこの世界では語られがちだけど、人によって付加されたもので、事実は一つだけ。実際は「そうなっている」ただそうなっているだけ。分かれているものなどないんだ。どこから見るか、どのような立場の人が見るか、年齢、経験、思い込み。たくさんの要素がそこに負荷され全人類70億人分の見え方がある。うまく合わせられないのではなく、初めから合わす必要がないのだ。別れていないのだから、合わすなんて初めから無理だ。だから合わせられないと自分を責めることはない。分かれてはいない、私は一つだ。淡々と粛々と目の前の物事を片付けていく。
ここでわざと3次元地球でブームの設定「二元性」を使ってみる。僕たちは常に今で最善、いつの瞬間も自己記録更新ベストを叩き出している。あなたも、わたしも、あの人も。懸命にベストを叩き出している。素晴らしい。なにも言うことはない。伝えるならよく頑張りましたね、ねぎらいの言葉だ。つじつまを合わせる必要なんてないんだよ。誰かに言ってるつもりでも全部自分に向けているだから。

そしていつか、僕らはよいわるいなんて考えなくなる。○○だからこうだ!と決めつけなくなる。あるがままを認め、自然にそれと触れ合っていく。親や社会、メディアに共通認識ってのを教わった。でも共通してることは特に無かったりする。自動的に思い込んでいるものを一つずつ、顕在意識に上げていく。「あ、そう思ってただけで自分にはいらないじゃん」「親がそうしたかっただけで僕はどっちでもいいし」とか。これを自分に気づくという。そうやって「あ!」というのを増やしていくのが楽しい。気づけはすぐにでも癒される。閉じていた窓が解放されていく。

皆が僕に変わっているという。宇宙人でしょ?と言われる。そうです。あなたの感じているそれは確かにあってとても素晴らしいものです!僕は他者と違っていたい。だからそうやって声がかかる。肯定したい。ただ漠然とどちらでも良い気分もある。都市伝説的なものに「となりのトトロのメイとサツキは幽霊だ」という話題がある。でもスタジオジブリが公式に否定したらしい。なのに、コメントに「たかが公式が否定しただけでしょ?」というぶっ飛んだものがあってグサッときた。そう、たかが公式なのだ。たかが政府だし、たかが親で子供だ。私が私を信頼し、今あるものを感じ取れば、目に映る世界がなんと言っていたって関係ない。感じて思ったすべてやっていい。思いつかないこと以外全部できる。そしてやってもやらなくても大丈夫。ずっと大丈夫であったように。これからもずっと大丈夫だ。あなたは大丈夫だ。どのような命も全員、愛で自由なのだから。

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