見出し画像

短篇小説「朧朧」


起きてカーテンを
開けると。

兎がいた。
白い毛艶でぴよこぴよこ跳ねて、庭草を食む。

まるで。

李朝白磁に血が巡り心臓が拍々脈動するような。
李朝白磁がぴよこぴよこ跳ねて、草を食む。

まるで。

大島紬の白織物を手毬に仕立てて転がすような。
白泥染めの紬の毬がぴよこぴよこ跳ねて、草を食む。

大変可愛い。


「兎ですか」
三角の顔をした編集担当の木島氏が僕の背中越しに原稿覗き見て言った。この男は何ンでも三角で出来ている。目付きも三角、眉毛も三角、鼻も唇も三角。黒縁の眼鏡も三角である。三角の人間は油断がならない。人間は丸い方が良い。

文机に置かれた灯火が、彼の三角縁の眼鏡レンズ上にゆらりと翳った。
部屋の明かりを灯さず手元灯りだけで執筆に望むので、先月から借入れた仕事部屋兼住宅の江ノ島電鉄鵠沼駅徒歩15分の1LDKの小狭い四畳半は手元灯りの文机と光及ばぬ部屋隅の陰翳に分かたれる。
物言わぬ儘、二刻半、部屋隅の陰翳世界の住人であった三角眼鏡の木島氏がいつの間にやらにじり寄り茫と背後に現れたのである。


「兎だ」
と、僕は言った。
「そうですか」
と、木島氏は言った。

三角の人間は油断がならない。僕をおだてて、褒めそやして原稿を書かせようとする。書き上がったら、雑誌社に持ち帰り出版してしまう。そして僕から取り上げた原稿の見返りに幾許かの原稿料を渡してくるのだ。
そうして次月にまた何食わぬ顔をして僕の所にやってきて原稿をせびっては奪う。

僕の平穏とは所謂スランプの、未だか未だかと担当が青くなったり赤くなったり心臓肺腑を伸縮させて寸刻刻みに伸びていく締切の退廃の中にある。
「未だか」と言った担当に「未だだ」と答えると、担当はやおら立ち上がって編集室に電話をかけて受話器から漏れる怒声にハイハイ言って神妙に電話を切って青醒めて曰く「先生、何卒あと一時間で」。そう云う言葉に僕も神妙な顔をして「承知致シマシタ」と言って机に向かって鼻毛を抜いている。そうした予定調和的な緩慢に僕は精神の平安を感じるのである。

そうして僕は、原稿に向かって兎の絵など描いて「コンニチハ」。もう一匹を描き足して「コンニチハ」。そして始まる運動会。目の前に提がった人参に子兎達がピョンピョン跳ねて。

「先生」
と木島氏が言った。
「何かな」
と僕は言った。

「珈琲でも御淹れしましょうか」
「ソウダネ」
「朝起きてカーテンを開けると」
「ウム」
神妙の顔して木島氏が言った。
「吉備津の釜が」

吉備津の釜。
木島氏の一言で僕の夢想の子兎達は姿を消して、僕は現実に引き戻される。
朝起きて窓帷を開けると夜だった。
窓際に張り付く怨霊が。黒髪振り乱してじつとり睨む。

「朝になりました」
と、怨霊の君が窓越しに曰く。
いいや、朝では無い。夜だ。未だ。

吉備津の釜は上田秋成の「雨月物語」に収められた一篇である。陀落しない男が吉備津神社の娘と結婚する事に成った。吉凶占うために釜鳴りの儀式をした所、どうにも釜が鳴って呉れない。凶兆であるが今更反故に出来よう筈もなく、男女は祝言済ませて共暮らし、束の間の幸福を過ごしたが、男の悪癖は止まず治らず、鞺鞳男は遊女と淪落の情に堕し駆け落ちを致すのである。その男に女の生き魑魅が追現れて、結句、遊女を祟り殺して仕舞う。
男は死んだ遊女の弔いに墓場へ日参していたが、さる未亡人の下女なる女の知己を得て高貴の屋敷に誘われるのである。
が、その屋敷の主こそ、呪殺の根源、かつての男の妻である。屋敷と思えば其処は廃寺。芒原の中であった。
怨霊に取り憑かれた男は高僧に縋り、経堂に匿われ、四十九日を隠れて過ごせば五十日目の朝に呪いは解けると説明される。
夜毎、女の亡霊が御堂の周りを徘徊し、男を呪う。男は生きた心地がしないのだ。
漸く五十日目の朝となり、衰勢窮まった男に男の世話をしていた従兄弟が声を掛ける。

「朝になりました」
そして男は経堂の扉を開けると、

未だ夜である。
男の叫び声を聞いて従兄弟が御堂に駆け寄ると、もう男はいない。血に塗れた髻が板壁に張り付くのみであった。


と、いう話。

「吉備津の釜」
と、三角顔の男が言う。

ぐうん、、、と何処かで釜が、鳴ったような、気がした。

***

「朝、起きてカーテンを開けると」

女がいた。
三角の顔の編集担当はいない。
女が兎を抱いている。

女の細い指が、兎に人参を食べさせている。

僕は窓を挟んで女と向き合う。

ぐうん、と釜が鳴る。

「開けて下さい」
と、女が言った。
見知らぬ女。

いや、僕は彼女を知っている。

***


ぐうんと釜が鳴ると、三角の編集担当者が僕に言った。

「先生、原稿は明くる朝までに」

「相分かった」
僕は言った。

***


大宇宙一の三文文筆家を自称する僕には地域の著名人の半生を代筆する幽霊作家業や、通信販売で商いされる高額健康食品の偽装体験談、うらぶれた観光地の温泉組合が発行するローカルガイドの紀行文など適宜に仕事が寄せられる。

或る日、担当編集者が言った。
「老舗インテリア店の広告記事にインテリアに因んだ一千文字の文章を付ける事になりました。」
「それを僕が書く訳だネ」
「左様でございます。出来ますか?」
「無論だよ。僕を誰だと?」
「一千文字ですからね」
「先程、聞いたよ」
「先生はいつも大長編化する癖がございますので」
「僕は宇宙にまで名前を馳せる大宇宙作家だよ」
「存じております」
「例えば月面から地球を見てみ給え」
「ハア」
「どんな分解能を持ったとしても鵠沼と鎌倉は一点に嵩なる」
「つまり?」
「大宇宙作家である僕にとっては一千文字も十万文字も同じなのだ」
「十万文字書かれても九万九千文字は削除されますからね?」
「ええ?」
「原稿料も一千文字分ですからね?」
「ええ?いくら近くたって鵠沼から鎌倉に行くのだって電車賃が掛かるんだよ?」

斯くして僕は今、インテリアと人類愛をテーマにしたスペクタクルな作品を書こうとしている次第である。

***

僕は外を見た。


先月に借りたこの部屋は西向きに出窓が一つあって未だ窓帷が無い。曇り硝子なので外の視線は気にならないが、斜陽が影差す。小洒落たカーテンを付けたいと思っているが億劫でその儘にされている。

晩冬の空の下辺の残照が刻刻と消えていく。

「ご飯でも食べに行こうか」
僕は担当編集者氏と外に出た。

川辺を歩いて駅前の洋食店に向かった。三角の彼はナポリタンと珈琲を注文して、僕はナポリタンと珈琲を注文した。

「吉備津の釜がどうして鳴るかご存知ですか?」
木島氏が口の周りを真っ赤にしながら言った。
「いいや」
僕は言った。

温羅という鬼がいて、それを退治したのが吉備津彦。吉備津彦に切られた鬼の首は首村で晒し首にされたが死んでも唸り続けるので、吉備津彦は犬飼武命に命じて首を犬に食わせるが、骸骨になっても鬼の首は唸る事を止めない。それで今度は神社の勝手場の竈の下に鬼の首を埋めたが、それ以来十三年に渡って首は唸り続けたのだと云う。
ある晩、吉備津彦の夢枕に温羅が立って、温羅の妻である阿曾郷の祝の娘に神饌を炊かせば、温羅は吉備津彦に仕えて吉凶を占おうと言った。言われた通り神事を執り行い漸く唸り声は治まったという。

「鬼の首が唸っているんですよ」
木島氏はナポリタンで真っ赤になった口周りをナプキンで拭った。
僕もまた口周りを拭った。

珈琲を飲み終えて、途中にインテリア店の前を通りかかった。
ショーウィンドウにカーテンが並んでいる。
僕は出窓のカーテンには何色が似合うか考えた。

カーテンを開ければ暮れなずむ斜陽が出窓を赤く染める。
赤に似合う色が良い、と僕は考えていた。

ショーウィンドウと窓帷の隙間に女がいた。
赤い、女だ。

「朝になりましたよ」
女が言う。
「まだ夜だよ」
僕は言う。

ぐうんと、埋められた鬼の首が唸る。

「占見さん」と僕は彼女の名前を呼んだ。
僕は彼女を知っている。
彼女は僕の友人、鴨方の妻となった人だ。
妻となり、鴨方姓を名乗り、離婚して旧姓に戻った。

20年前の夏の喫茶店で二人が出会う契機を作ったのは僕だった。
二人は出会い、僕の知らない所で会うようになり、只ならぬ仲になり結婚した。友人を招いて小さな結婚式が開かれ、友人代表として僕もしどろもどろとスピーチをした。何を喋ったのかは覚えていないが、確か正宗白鳥の小文を引用した気もする。

離婚をしたのは直ぐだった。確か僕の記憶によれば二人は三年も一緒に居ない。
何故二人が別れたのだろうか。
鴨方は無欲恬淡の気持ちの良い偉丈夫であったが、無欲恬淡も過ぎれば生活は成り立たない。現実主義的な占見さんとは考えが合わぬ。そうした積み重ねが掻痒と二人の神経に触って関係が破綻したのだ、と当時の鴨方の語った少ない情報から僕は推測をした。

十年前に田舎に墓参した折に、占見さんにばったりと遭遇した。
折角だからと喫茶店で珈琲を飲んだ。
それから彼女には会っていない。

編集担当の木島氏が「吉備津の釜」などと不用意な発言をするから、すっかり僕の夢想は兎と吉備津の釜が入り交じるヘンテコな幻想になって仕舞った。小説脳がそのヘンテコな幻想を捏ねて、何故か赤く染まった占見さんが登場するに至った。
赤い占見さんが小脇に抱える白兎が紅白の対比をする。紅白だからと言って、必ずしも目出度い訳では無いことを僕は自分の夢想の中で初めて知る。
まるで。

血塗られた祝言の如く、赤は不吉の色である。

彼女は生きているんだろうか。
ざわざわと胸騒ぎがする。

犬飼、という友人がいる。僕と鴨方の共通の友人であった。
鴨方とも占見さんとも僕は縁が切れて仕舞ったが、犬飼の懇篤の人間は未だ鴨方と交流を保っているかも知れない。

「鴨方は元気だろうか」
とメールを打った。
犬飼に連絡するのも三年振りだ。犬飼からすれば僕などとうに御縁の切れた人間かも知れない。


「何かお探しですか?」
インテリア店の店主が言った。
いつまでもショーウィンドウの前に立つ僕を不審に思ったのだろう。
木島氏は何処かに居なくなっていた。
彼がいれば心強かったが、僕だけでは何を言っても不審が強まるような気がした。

「最近、引越しをしてね。まだカーテンが無いんだ。」
「そうですか」
と店主は言った。

「店内に入りますか?」
店主は言った。

「じゃあ」
と僕は言った。
僕は消えた木島氏を心底恨んだ。彼がいれば体良く断ってくれたのに。

当然の事ながら、店内に入った僕は全く窮地であった。窓帷を買うつもりはあるけれど、それは決して今ではない、筈だ。だが買うつもりも無く店先のショーウィンドウを長々と見つめていた事の説明は出来ず、店主に促されるまま入店し、買い気のない事を気取られぬよう並んだ窓帷を見比べながら、驚嘆して見せたり唸ったりしてそれとない態度を装っている。正直なところ、逃げ出したくて堪らない。
折り良く電話でも掛かって来ないだろうか。
木島氏が僕を助けに来ないだろうか。
古めかしくも清潔に調えられた店内は、店主の高潔の人柄を体現していた。店内は質素に明るい。
カーテン、カーテン、カーテン。
狭い店内は何処もかしこもカーテンであった。
僕はカーテンをめくった。その隙間から向こう側が見えて、やはり向こう側もカーテンが並んでいる。
まるで合わせ鏡のドロステ効果のような、カーテンの無限回廊。
カーテンをめくってもめくっても続くカーテンの壁。

そのカーテンの隙間を兎が跳ねていく。
その兎を追いかけて、僕はカーテンはためく不思議の国へ。

「気に入るものはありましたか?」
店主が言った。
「中々どれも良いものだよ。うちの出窓にピッタリだ。」
「大きさは?」

僕はうっかりしていた。カーテンを買うためには窓のサイズを知らなければいけない。

言葉を失った僕を見て店主も其れなりに僕という人間の自堕落を察したようだ。
僕は店外に出た。
人間は自室の出窓のサイズを知らないだけでこのような情けない、侘しい、ツマラナイ気持ちになるのだ。

「先生」木島氏が言った。
「君は今まで何処に」僕は言った。
彼がいれば、僕はこのような恥を晒さずに済んだものを。いや、彼を恨むのは筋が違う。自堕落な人間が見知らぬ人間から自堕落の烙印を押された。それだけの事だ。

犬飼からメールの返事が来た。
「鴨方は死んだよ、先月」

周囲との距離感が縁遠いので、僕はかつての友人が死んだ事も知らなかった。だが、鴨方とはもう20年も会っていないのだ。今更、墓参りに参じるなどの感傷を僕は持ち合わせない。

それにしても不思議な偶然だ。
何故か僕はいま占見さんの事を考えている。彼女が真っ赤な姿で僕の前に現れる。
それを不思議に思って、縁者である前夫を尋ねると、彼は先月死んだと言う。

ぐううむ、と鬼首の唸り声が聞こえる。
「最近、多いですね、地鳴り」
木島氏が言った。

「そうだね、季節だ、地鳴りの」
僕は言った。地鳴りの季節など聞いた事もない。

不穏な夜だ。

「先生、原稿は朝までに」
木島氏が言った。
「分かった」
僕は言った。

大宇宙作家である僕にとって十万文字の小説を一晩で書くことは容易い。
「千文字ですからね」木島氏が言った。
「分かった」僕は言った。

千文字で人生の艱難辛苦の何を描けると。

「先程、僕は君のお陰で赤恥をかいたのだ。僕の心は傷付いている。この鬱屈を書くために千文字では足りない」

「先生、企業広告に鬱屈を描こうとしないで下さい」
木島氏は言った。

見れば見るほど三角だ。斯くも人間、このような三角の造作になるとはつくづく自然界は偉大だ。
「不遜の目でヒトを見ないで下さい」
「僕は傷付いているんだよ」
木島氏は僕の目を見て溜息をついた。

「よろしい」
木島氏は言った。
「カーテンを買いましょう」

「買えるものなら僕だって買ったのだ。だが、僕は自室の窓枠のサイズも知らない。」
「調べてありますよ」
木島氏は言った。
そうして彼は店内に入った。

僕は木島氏に耳打ちし、カーテンのイメージを伝えた。
木島氏はそれを上手く解釈して店主に伝えた。

「ふむ」と店主は唸った。
「左様なら此方は如何でしょうか」
店主は店の一隅に溜まったカーテンの折り重なったところに僕達を案内した。

「どうにも売れないカーテンをこちらに置いてるんです。」
「どうして売れないんですか?」
見たところデザインからして無難なものに見える。
「何故か売れないんですよ。ところが面白いもので」
表に出したカーテンをいくら眺めても、云々唸って許りで商品を決めれぬ客がいる。
そうした客を此処に連れてくると何故かすんなりと決まる。
「どういう事?」
「不思議な事ですねえ」

店主の言った通り、僕は其処でぴたりと望みのカーテンを見つけた。
「これは良いものだよ」
店主が言った。
「サイズも申し分ない」
木島氏が言った。

ベージュの生地にダマスク柄の刺繍が入っている。出窓には木島氏が取り付けてくれた。


「朝になったらお迎えに上がりますよ」
そうして木島氏は「施錠して」帰った。

つい先日の事。締切過ぎてもふらふら遊んでばかりいる僕に業を煮やした木島氏は、僕の仕事部屋(兼、住宅)にあろう事か外鍵を付けたのだ。

「先生は忙しくなると、現実逃避が始まるので」
鍵を施工して、木島氏は言った。
「誰にも会えないように鍵をする必要があるのです」

「監禁だ。犯罪行為だ。出版社の人倫を疑う」
僕は言った。
「締切を守らない作家に人権など無い」
木島氏は言った。
そうして今も外鍵は取り付けられた儘で、鍵は木島氏が持ち歩く。僕は孤島に捕らわれた虜囚である。もし、外鍵を持ち歩く木島氏が不慮に事故死でもしたら僕はどうなるのか。僕は孤島の牢獄に朽ちる白骨を想像した。我が運命に非業の死が待っている。僕は文机に座り指先のペンをクルクル回した。僕は自由の為に戦わねばならぬ。

尤もベランダには出られるので、いざとなれば外歩く人に助けを呼べるのだが。

文机の周りには荷解きされていないダンボールが高く詰まる。本が多い。
ダンボールに入った荷物は異次元の存在だ。
本なるものが書棚にあれば、それは全く本である。
だがダンボールの中にあれば、それは本ならざる異次元である。
本の形をして本の重量である秘密の何か、である。
もしかしたらページを開くと中身が変わっているかもしれない。歴史に秘匿された、人間には知られてはいけない本世界の真理が書かれているかもしれない。
シュレディンガーの猫のようにダンボールの中は不完全の世界である。
そのような不完全に囲まれていると僕までもが不完全世界の住人になったようである。
密室となったこの部屋の中で、僕もまた不完全の存在なのだ。

朝が来て、木島氏がこの部屋を開けるまで僕は僕であるかもしれないし、僕ではないかもしれない。

電話が鳴った。
知らない番号であった。
「もしもし」
僕は電話に出た。

「今から行くわ」
女の声だった。電話は直ぐに切れた。

知らない番号ではあったが、僕はその声の主に確信めいた淡い期待がある。「今から行く」と告げた女の声は占見さんでは無かったか。
僕は目を閉じて彼女の、かつて聞いた占見さんの声を、口調を思い出そうとした。
だが。
考えてみればそれは馬鹿げた事だった。十年も音信のない、ましてや僕の恋人だった訳でもない女性が、強いて言うなれば彼女の、僕の人間関係に於いて互いが蚊帳の内外にある関係であった僕たちが今、どのような因果に結ばれて邂逅を果たすというのか。天地が割れてもそのような運命など無い。

詰まる所、確信等というものの全ては僕の哀しき妄想なのである。
僕は改めてモバイルフォンの着信履歴を見た。知らない番号だ。だが元より僕は占見さんの電話番号を知らない。確認は出来ない。
知らない番号から掛かってきた間違い電話を、都合良く解釈して、誇大妄想の期待を寄せてはいけない。
期待?
僕は目を開けた。
僕は何に期待していると言うのだろう?

僕が思い出せる占見さんの事ごとは少ない。
鴨方と僕は同郷の同級生で、占見さんと僕は僅かな一時期、僕がアルバイトした喫茶店の同僚であった。僕達は、三人で映画を観た。その後にアルバイト先の喫茶店で珈琲を飲みながら映画について振り返った。

その日。外は重苦しい暑さで、外を歩くだけで消耗した。雨は降っていない。だが晴れる訳でも無い。止まない頭痛のような気候であった。喫茶店の店内は外より幾分涼しかったが、寄る辺ない湿度が店内に充満していた。
僕は温かい珈琲を注文して、二人はアイス珈琲を注文した。
僕は映画について至らぬ点を細かに挙げ連ねて、二人は主に映画の描く男女の心理状態の微かな描写を讃えた。
今にして思えば二人が結ばれて僕が孤立するのは必然であった。

三回、三人で映画を観る機会があった。四回目の約束もされたが、四回目は無かった。
四回目の映画は、鴨方と占見さんの初デートに変わった。
確か、僕はその日、熱を出して寝込んだのだ。
寝ながら、僕はその日に観る筈だった映画の事を考えていた。
砂漠の国を訪れた男女の物語、の筈であった。
映画の夢を観ながら僕は益々高熱に侵された。
砂漠の国に男女はおらず、僕は一人で砂漠を歩いた。
喉の乾きに喘いだ。砂漠の太陽が皮下に潜って内側から僕を灼いた。神経が掻痒して全身が倦怠感と虚脱、悪寒と嫌悪感に毒された。

鴨方は死んだ。
そう言えば僕は犬飼に返事をしていない。

もしかしたら、犬飼は占見さんの連絡先を知っていて、僕が鴨方の死を知らない事を占見さんに教えたのだろうか。それで占見さんが僕に連絡をくれて、会いに来る??

僕は木島氏に電話を掛けた。
「旧友が会いに来るので外鍵を開けてくれませんか?」

「原稿は書き終えたんですか?」
「書き終えました。」
「今から受け取りに行きますが宜しいですか?」
「すみません、未だでした」
「お友達に会うのは原稿を書いてからにして下さい」
「でも、もう来てしまうんです」
「居留守を使いなさい、開けてはいけませんよ」
「そうは言っても」
「先生、其れは悪霊です」

と、木島氏は言った。
悪霊です。
僕が原稿を書くのを邪魔する悪霊。

「朝が来るまでドアを開けてはいけません、窓もカーテンも開けてはいけません」

「出版社の人倫を疑う」

「先生は宇宙的大作家でございますので」

「如何にも僕は宇宙的大作家だ」

「先生と、玉稿を守る為なんです」

「特に、あの出窓は気を付けて下さい。カーテンはお明けにならぬよう」

出窓を開くと鵠沼の住宅街と、その隙間に海と由比ヶ浜の海岸線が僅かに見える。その僅かな景色の遠景に三浦半島の稜線が見える。
日中には小さな額縁のような僅かな景色にウインドサーフィンの蛍光色の三角帆が通り過ぎる。
夜だからカーテンを開けても見える景色は無いが、木島氏はおかしな事を言う。
僕の身柄が宇宙人にでも狙われているようではないか。

ところで。
全く話は関係ないが、太陽の側に地球の隣を公転する惑星は金星である。火星よりも金星の方が近い。
かつては少年読書に金星人、火星人の何たるかが図示された時代もあった。だが現在の少年読書の通説では火星には火星人がいるとされる事に対して、金星には金星人は居ない事に成った。
それは近年になって分かった金星の悪環境の所為である。
金星の気温は昼夜を問わず摂氏460度に上る。鉛の融点は約320度なので鉛製のパイプなどを持ち込むとぐにゃりと溶ける。
大気は硫黄のガスで満たされて硫酸の雨が降る。風速100メートルの暴風が吹き狂う。
自転速度が極度に遅く一日の長さは地球時間にして243日ある。公転周期はそれよりも短い224日曜日である。自転と公転周期の因果で一日の長さは地球時間にして116日と18時間。一日が終わる頃に四季は半周する。

金星の夜は果てなく長々し。

58日間も一夜があれば、どんな大作だって書けるだろう。
僕は宇宙的大作家と嘯いて、一晩あれば十万文字などと宣うが実の所、今晩に限っていえばスランプなのだ。宇宙的大作家と雖もスランプであれば一文章たりとて書けない。
いや、少し見栄を張った。今晩限りでは無い。
常時スランプだ。
低迷だ。困窮だ。枯渇だ。
砂漠で井戸を掘る。
執筆とは斯くの如し。

かつて観た映画の主人公たる小説家は物語を作る事が作家の仕事では無いと言った。
作家である事を公言すれば、人々は作家の元に物語を持ち寄るのだ。作家は物語を集めて形にするのが仕事だ。

詰まる所、人的交流が作家の仕事だ。僕がスランプであるのは人的交流が乏しいからに違いない。僕は今すぐ人的交流を得なければならない。


僕は木島氏に電話を掛けた。
「お姉ちゃんの店に飲みに行きたいから外鍵を開けてくれ」

「原稿は出来たんですか?」
「出来ました」
「取りに伺いますが」
「あともう少しなんだ、最後のピースはアルコールと女御の胸の谷合にある」
「完成しましたら何してくれても良いですよ」
寝る間際であったのか木島氏は欠伸をした。

「カーテンを開けてはいけませんよ」
木島氏は言った。

「友達が来るんだ」
僕は言った

「それは悪霊です」

鬼の首が唸るような音がした。
外から聞こえてくる。

「外で物音がするよ」
僕は言った。
「先生、ダメですよ」
木島氏は言った。

出窓が光っている。
警察車両が近在にあるのか赤い回転灯が目まぐるしく、窓帷の縁を赤黒に明滅させる。

窓ガラスが叩かれた。
「火事ですよ、逃げて下さい」

「火事だよ」
僕は木島氏に言った
「その部屋は二階ですよ、二階の出窓を叩く者などおりませんよ」

音は止んだ。
「音が止まったよ」
僕は木島氏に言った。
「先生を狙う輩があるのです」
木島氏は言った。

「先生、開けて下さい」
窓の外から誰かが言った。

「呼ばれてる」
僕は言った。

「金星から来た者です」
窓外の男は言った。
「金星には先生の御力が必要なんです」


と、僕は電話口で小説の構想を木島氏に説明した。

「それで?」
と木島氏は言った。
「僕に原稿を書かせようとする宇宙勢力によって僕は金星に連行される。そこで金星の女王に出会って衰退する王国の年代記を仕上げる事が王国を救う唯一の手段だと聞かされる。王宮の魔術師によって僕は王国を作った男の記憶の中を追体験するのだ。ちなみにその男の享年は281歳で……」

「それ、文字数は如何ばかりになりますか?」
木島氏は言った。
「十巻でも足りない」
「インテリアの企業広告のコピーですからね。千文字ですからね。」
「着想を得たからには」
「とりあえず金星に係る部分は全て没です」
「話が消失する」
「消失してインテリアの話を書いてください」

木島氏は再た欠伸をして電話を切った。

玄関が叩かれた。
「どなた?」
僕は言った。
「あたし」
と外に立つ女が言った。

「占見さん?」
僕は言った。
「そう」
女は言った。
「ここを開けて」
「出来ない」
僕は言った。
「悪い人に閉じ込められてる」
「開けて」
占見さんが爪でドアを掻く音がする。

「あけて」
カリカリと、小さな爪の音は次第に狂気じみてガリガリと爪の割れんばかりの勢いに変じた。

「占見さん、開けれないんだよ」
僕は言った。

電話が鳴った。
先程掛かってきた番号だ。

「もしもし」
僕は電話に出た。

「占見です」
電話主は言った。

爪の音はいよいよ狂気を増して、今やドアを手掌で叩く。バァン、バァンと安普請の建築はその度に揺れた。

「君はいま何処にいるの?」
僕は言った。
「夜行よ、朝までには着くわ」
彼女は言った。
「玄関に君が来てる」
僕は言った。
「行ってないわ」
占見さんは言った。

不意に音は止んだ。

先月、鴨方が死んだ事は共通の知人によって占見さんにも伝わった。だが彼女は葬儀に参列しなかった。
その消化不良の煩悶を腹底に抱えていた所、犬飼から連絡があって僕が鴨方の死を知らなかった事を聞いた。
鴨方を悼む事を出来ず、一人暗澹と取り残されたような気になっていた彼女は、同じく一人暗澹の中にいる僕と鴨方の記憶をなぞる事で弔いにしようと考えたらしい。
彼女は過去に囚われた虜囚であった。胸残りに囚われて明けぬ夜を過ごす人であった。
彼女はいま旧里に居て一人暮らしをしている。
自由の身なれば、と思いついて僕に一本の電話を入れて旅支度を整えたと云う。

「朝になったら着くわ」
と彼女は言った。

僕は犬飼に電話をした。
「占見さんと話をした?」
「いいや?」
犬飼は言った。
「彼女はいまどうしてるんだろう?」
「知らないなあ、鴨方と別れて以来、会っていないし連絡先も知らない」

「ところで」と犬飼が言った。

「いまはどんな作品を書いているんだ」
犬飼は僕が三文文筆家である事を知っているので、今日も今日とて僕が執筆に励んでいることは存じているに相違ないが、三文文筆家である事を知っているだけに僕の文章になど露ほどの興味を持たない。
「どんな作品を」とは犬飼にしては珍しい発言であった。

「金星の王宮で、王国の記憶の中を冒険しながら年代記を書く話を文字数一千文字で書かなければならない。あと、そこにインテリアに纏わる小綺麗な話も付加しないといけない。」

「ヘンテコな小説だ」
犬飼は言った。
「だが魅力的だ、先生」
僕は犬飼の言葉に強烈な違和感を感じた。彼は僕を先生、等とは呼ばない。彼が僕の作品を褒める事など間違いなく無い。
「君は犬飼では無いね」
僕は言った。
「誰だ」

「先生の玉稿を是非弊社に」
犬飼を名乗る男は言った。

「これは地元のインテリア店の企業広告に使う文章だから渡せない。売文先が決まっているのだ」

「そこを何とか」
男は食い下がった。木島氏の言葉を思い出した。先生の、原稿を、狙う輩もいるのです。

そのような連中が、いま僕の友人を騙って原稿を詐取しようとしている。

「そんな不義理は出来ない」
僕は言った。
「金銭なら積めます」と犬飼を名乗る男は言った。
「いくらだ」
「ケンタウロス族の小惑星ひとつが買えるくらいは」
その金額の妥当性が僕には分からない。
「兎も角も原稿をお望みなら出版社を通して呉れ給え」
「出来ない」と男は言った。
「先生は、結界に守られている」

確かに僕は外鍵を掛けられて、極悪非道の出版社に監禁されている身だ。
物理的に外に出れない訳だから、結界以上の囚われ具合に僕も辟易とする所だ。だがこれも木島氏の親心だと、得心するより他ない。

「先生は騙されている」
男は言った。
「あいつらは地獄の鬼です。鬼ヶ島ですよ」

木島氏は僕が悪霊に狙われていると言い、犬飼を名乗る男は僕が地獄の鬼に囚われていると云う。
人気作家はこれだから困る。

「地獄の鬼に捕まって僕はどうなる?」
「先生から智泉を絞り尽くして、最後は鬼の釜で煮られます」
「搾取だね」
「搾取です」
「煮られるのは困る」
僕は言った。

「逃げましょう、先生」
男は言った。

だが。
僕は囚われの虜囚だ。
自力で逃げる事は出来ない。

「先生、一刻も早く逃げ出して金星に向かわねばなりませんよ」
男は言った。
「金星王国創世の年代記を書かなくちゃなりません」

「左様か」
「左様ですとも」
「美女はいるかな」
「金星人は皆、美女です。ブロンドです」
「ブロンドか」
「グラマーです」
「グラマーか」
成程、僕は女御の胸元に寄せられた谷合の冒険者である。

「という訳で、外鍵を開けてくれないか」
僕は木島氏に言った。
「先生、いい加減金星から離れましょう」
電話口で木島氏は言った。
電話口の向こうからツィゴイネルワイゼンが聴こえる。
サラサーテだ。
鈴木清順の映画で聴いた事がある。演奏の途中で男の話し声がする。だが、それが何と言ったのか分からない。声ならぬ声が、人にあらざる声が何事かを呟くのだ。

「金星にはワニがいてね」
僕は言った。
彼らは砂に埋もれながら雨を待っている。だが、雨は金星の灼熱の大気が地面に落ちる前に蒸発させてしまう。
雨が降らないのでワニは砂に潜ったままだ。
ある時、一人の若者が砂からワニを掘り起こした。
「僕の花嫁を探しに行こう」

ワニは言った。
「付いて行っても言いけれど、代償は何をくれるんだ」

若者は言った。
「吉備団子をあげよう」

「吉備団子?」
木島氏は言った。
「先生、気は確かですか?」

「いいとも」
ワニは言った。
途中で他のワニが供連れになった。

「吉備団子をあげよう」
若者は言った。

「僕の花嫁は何処にいるんだろう?」
「阿曾郷に祝という者がいて、その者には阿曽媛という美しい姫がいると言います」
「ならば会いに行こう」
若者は言った。

若者が山道を登ると赤い川が流れていた。
「血のような川だ」
と若者が言った。
「飲んでみましょう」
ワニが言った。

川の水は鉄の味がする。
「野生に返るようだ」
ワニは言った。
「血に飢えている」
そう言うとワニは鬼になった。
「暴力が俺を呼んでいる」
ワニたちは忽ち鬼になって若者に襲いかかった。

若者は小指を千切ると血風が渦巻いた。
「忍法、血霧の術」
血風に巻かれて鬼たちは、ギャーテイギャーテイと言って逃げ惑った。
若者は鬼共を追い回して打擲した。
鬼共は泣いて若者に許しを乞うた。

若者は泣く鬼を摘んで釜に放り味噌溶きして釜茹でにして多良福喰らったので、他の鬼共は震え上がるのであった。
釜を平らげて若者は鬼の骨を拾って地面に刺すと木が生えた。
木に骨を刺すと枝になった。
むくつけ伸びる木に組み付いて枝を付け足し登っていくと、山の東麓に着いて其処に美しい娘が暮らしていた。
「嫁になれ」
若者は娘を攫って妻に娶り子を成した。
これが金星王国の始めである。

「素晴らしい、先生」
犬飼を名乗る男が言った。

僕達は鵠沼駅前の喫茶店に来ていた。占見さんを待ちながら、執筆中の小説を読ませていた。

「さすが宇宙作家です。敬服致しました」
「あまり褒めないで呉れ給え、照れるから」
僕はナプキンで口周りを拭った。ナプキンは真っ赤になった。この店のナポリタンは鉄の味がする。

「先生の待ち人は未だですかな」
「ああ、そろそろだ」
占見さんは夜行に乗って深夜に到着する予定になっていた。
藤沢で深夜急行を下車して、真夜中の江ノ島電鉄に乗り鵠沼は四つ目の駅である。
鵠沼を過ぎると江ノ島電鉄は終点鎌倉まで湘南海岸をとことこと走る。二両、若しくは四両編成の緑に塗られた積み木のような、小さな列車だ。
長く続く湘南海岸を呑気に走る江ノ島電鉄は風情がある。

「お待たせ」
占見さんが言った。
「久しぶり」
僕は言った。
「十年ぶり」
「君は何も変わってない」
僕は言った。

「あなたもね」
彼女は言った。
僕達は何も変わってない。いや、そんな筈は無い。
彼女は鴨方と結婚して別れて、人生の浮沈を味わった訳だし、僕も幾歳月の無為を重ねて徒に年を取った。
かつて若かった頃の彼女は僕の友人であった。それが幾年を重ねて友人の妻へと変わり、更に幾年をして友人の元妻となり、その見えぬ経緯が痼となって縁は遠くなり、気が付けばお互いの所在を見失っていた。
その痼の核たる鴨方が死んだ事で僕達はフリダシに戻った。
何も変わっていないのではなく、何も変わっていなかった頃に回り回って戻って来たのだ。
戻ってみれば、僕達は人生の鞄に哀切を詰めて、その鞄を駅のホームに置き忘れた旅人である。

僕も彼女も今は身軽な空手であった。

そうした事が神妙におかしかった。

占見さんは席に座って女給に珈琲を注文した。

「アルコールはどう?」
僕は言った。
「嫌だわ」
占見さんは言った。
「酔わせてどうするつもりなのよ」

そうした常套句が、彼女の一回転を示していた。
かつての彼女なら、そんな冗談は言わない。

「僕は飲むよ」
僕は女給にバーボンを注文した。

「暫く君の事を考えていたんだ、変な意味ではなくて」
僕は言った。
「君の事を不図思い出して、どうにも頭から離れなくなって、犬飼に鴨方の事を尋ねたら死んだと聞いた。本当に僕は彼の死について知らなかったンだ」

「赤い姿の君を何度も見た、ような気がする」

「そうなの、でもそれは私ではないわ。私はさっき此処に着いたばかりだもの」

「そりゃそうだ」

「赤いわたしは誰かしら」

「兎を抱いていたよ」
「変なの」

彼女が珈琲を飲み終わった。僕のバーボンはまだ氷に薄まりながら半量残っていた。

「頂戴よ」
彼女はバーボンを飲み干した。


「あなたは私に会いたかったのね」
彼女は言った。

僕のモバイルフォンが着信して鳴動した。
「犬飼だ」
僕は言った。

「占見さんに会ったよ」
僕は言った。
「何を言ってる?」
犬飼は言った。

「彼女はもう疾っくに死んだじゃないか」
犬飼は言った。

僕は占見さんを見た。
彼女はいなかった。

「君は大丈夫か」
犬飼は言った。

鬼ノ城にて阿曽媛を娶った若者は幸せに暮らしていたが、かつてワニであった鬼は阿曽媛に懸想をしていたので、なんとか若者を駆逐できないものか思案していた。
鬼ノ城は夜になっていた。
金星の自転周期は地球時間にして243日、公転周期は225日で太陽の周囲を一回転する。自転しながら公転する結果、金星の一日の長さは地球時間の116日分になる。
つまり、金星の昼は58日、夜は58日の長さになる。
鬼ノ城はこれから58日、1400時間の夜に入ろうとしていた。
ワニが赤水を飲んで転じた鬼は王丹と名乗っていたが、王丹はメタンガス乱気流の電磁波雷雲に紛れ、隣国の皇子である彦五十狭芹彦命とその弟の稚武彦命を手引きして、若者を討ち取った。若者は首を切られてぐうむぐうむと唸った。
王丹は阿曽媛を手中にしようと追い掛けたが、裏切った稚武彦命に命を狙われたので海を越えて女木島に逃げた。

彦五十狭芹彦命の弟である稚武彦命はこれを追った。

金星の夜は長い。
王丹は、殺された若者の事を思った。彼の若者は渡海の王子であった。国元を離れて金星王国を建国したが、志は半ばで潰えた。
海を渡って尚、若者の首の唸り声が聞こえた。怨嗟である。


「朝になりぬれば」
王丹は思った。
だが王丹が朝を望めば望む程、夜明けは遠くなるように思えた。

夜の間も始終、硫酸雲の雲間を稲妻が走った。乱気流が暴風となって城郭を揺るがした。
ばたばたと揺れる板壁の屋敷の中で王丹は夜特有のいたたまれない孤独に侵された。その孤独は王丹の神経を蝕み続けて彼は心底、消耗をした。
王丹は砂に埋もれて暮らしたワニとしての日々を思い返した。
砂の中にいてワニは安穏の中にいた。
金星の砂漠は高熱の大気に炒られた鉄釜である。
熱砂の中でちりちりと焦がれながらワニたちは安穏の中にいる。

それはあたかも。
三文作家が締切を過ぎて尚、脱稿の夜明けの遠いような。ちりちりと身を焦がす、だが逃れられぬ必定の中に身を置くことの安穏であった。

ワニたちは砂の中で自らが孤独である事を知らなかった。友誼を知らなかった。傾慕と情愛を知らなかった。

次に王丹は阿曽媛の事を想った。劣情を催す女であった。
王丹は阿曽媛に痴情を捧げた。
だが、叶わなかった。鬼ノ城で阿曽媛と製鉄しながら暮らす幸福の日々を夢見たが、今や彼は茅萱の屋敷の中で暴風と稚武彦命の襲撃に怯えている。
美しい阿曽媛は今や吉備津彦命を名乗る彦五十狭芹命が妻であった。

朝になりぬれば。
王丹は思った。
海を越えて砂漠に帰るのだ。この身を砂中に沈めてワニになる。

王丹は近習の者に支度をさせた。

朝になりぬれば。
と長々し夜の日毎、夜明けを待つのであつた。

思えば鴨方は女癖の悪い男であった、のかも知れない。誰とでも分け隔てなく付き合い、友人に恵まれた。それ故に女衆の好意を引き寄せた。口説き文句が社交辞令で浮名を馳せた。
占見さんと結婚してからは、彼の癖も治まり幸福に暮らしたように思っていたが、其れは彼の醜聞が外に聞こえなかっただけなのかもしれない。

鴨方と占見さんの新婚旅行は箱根であった。
晩秋の箱根の登山列車に揺られて二人は小田原から箱根湯本、塔ノ沢で降りてぶらぶらして、また汽車に乗って宮ノ下の由緒ある旅館に五日間滞在した。
中に一日、湖に出掛けて一泊を湖畔の小宿で過ごした。
登山鉄道の沿線は紅葉の赤や黄色の山並みが続き、汽車はその山間をとことこ走った。
湖畔からの帰り道はロープウェイの切符を買って大涌谷で硫黄の吹き出す燻煙を見た。
そんな旅程を僕は鴨方から聞かされた。

鴨方は颯爽とした男であった。占見さんも颯爽とした人であった。二人はよく似合っていた。

三人で映画を観たのは遠い日で、既に二人の間に僕の入る隙間は無かった。

或る日、僕は鴨方が若い女の子と一緒にいる所に出くわした。二人は喫茶店で珈琲を飲んでいた。鴨方の職場に来た新人だと云う。そうかと僕は言った。それきり鴨方には会わなかった。僕も土地を離れて各地を転々とした。

あたらしい生活にあたらしいカーテンを。

僕は原稿用紙に一文を書いた。

あたらしい朝に、起きて、カーテンを開ける。

鴨方と占見さんのあたらしい朝。開くカーテン。
そのカーテンを閉じる夜が来て、二人は別れて、新たな生活が始まって。
そのカーテンを開く新しい朝がやってくる。
人生は出発と再出発の繰り返しだ。

明けぬ夜は無い。
不遇と困苦に耐え忍び夜を明かして新しい朝が来る。

新しい朝に、新しい一日に、新しい喜びを迎える為のカーテンを開く。

ぐううむ、と地鳴りがして、ぐらぐらと部屋が揺れた。
地震だ。

大きい。

地面が溶けて、泥々の液状に変わっていくようだ。泥々の海に浮かぶ客船のように部屋は揺れ続ける。
揺れに酔って目眩がする。目眩がぐるぐると僕を、部屋を回す。

ぐうむ、ぐうむと鬼の首が唸っている。

地震速報を見ようとして、僕はテレビを付けたが、テレビはどのチャネルもノイズが流れるばかりである。
モバイルフォンで情報を得ようとしたが、電波は繋がら無かった。そして、部屋は停電した。
テレビはぶつりと音立てて消えた。


ごう、と突風が吹いて部屋を揺らした。
未だ断続に続く小震、暴風、轟く雷鳴、カーテンの閉まった窓に光る稲妻。

この世の終わりが来たのかと思った。
避難しなければならないのだろうか。境川の湾曲した箇所にあるこの部屋は、津波発生時には境川を海水が遡上して浸水区域に指定されていた筈である。
避難塔が五分歩いた所にあった。
だが、僕は外に出れない。外鍵が掛けられている。
電話も繋がらない。築年数40年のこのアパルトメントは津波に耐えられるだろうか。

外では防災のサイレンが鳴り出した。
近在の半鐘が狂ったように叩かれる。

その時、窓ガラスがコツコツと鳴った。

「朝になりぬれば」
王丹は観音経を唱えながら長い夜の中にいた。
だが、数刻もすれば其れに飽いて、やる事も無くなり、近習を侍らせて双六遊戯に興じた。だが其れも一度で飽いた。
双六の盤上に広がる仮託の生に厭気がさした。
王丹の駒が、事業に失敗して借金を負った。
王丹の駒が一家離散して、配偶者と子供の数だけ慰謝料を支払った。
王丹の駒が失業して所持金がすべて裁判所に没収された。
王丹の駒が病気になり、予め生命保険に加入していない者には莫大な治療費が請求された。
王丹の駒は無職なので年金を受け取る事ができない。
王丹の駒は持ち家の水道設備が損壊して修繕費が払えない。
王丹の住宅は共同住宅の一室になった。
王丹の近習は双六遊戯に於いて税理士になる人間、葬儀場に就く人間、医療メーカーの営業職になる者もいた。
この双六に「振り出しに戻る」
のマスは無い。
王丹は惨めに双六の終着点に達した。

双六に負けた王丹は骰子を転がして遊んだ。それにも飽きるととにかく寝た。
眠る事にも疲れると酒を浴びるように飲んだ。
まだ夜は空けなかった。
飲み過ぎの頭痛と倦怠に後悔して、王丹は到頭やる事が無くなって廃人になった。
廃人になって、ひたすら熱砂の安穏を夢想した。
その幸福をメモにしてみた。メモは増えて梗概になった。梗概の隙間を埋めるメモが増えて物語の原始になった。

物語の主人公、熱砂のワニは諸事万事を夢想して彼の頭内に世界が出来て、その世界の中でワニは一人の人間としての生を得た。偏屈の限りを尽くして人間関係が長持ちせず、孤独の中に棲んでいる。孤独の者は誰しも物語作家であって空虚のプシシェを物語で満たすのだ。
夢の中で、彼は地方鉄道の沿線に暮らして、時に出版社に監禁されながら、三文小説を書いている。人間の世に名前は売れず、金星人とか千年王国の悪魔たち許り、彼をもてはやす。時に恋をして、時に破れる。商店街の商人からの物言わぬ蔑視を気にしていつまでもくよくよする。日が暮れても暮れても夜は空けない。
彼の安穏は所謂スランプの、未だか未だかと担当が青くなったり赤くなったり心臓肺腑を伸縮させて寸刻刻みに伸びていく締切の退廃の中にある。
「未だか」と言った担当に「未だだ」と答えると、担当はやおら立ち上がって編集室に電話をかけて漏れる怒声にハイハイ言って神妙に電話を切って青醒めて曰く「先生、何卒あと一時間で」。そう云う言葉に作家は神妙な顔をして「承知致シマシタ」と言って机に向かって鼻毛を抜いている。そうした予定調和的な緩慢に彼は精神の平安を感じる。

まるで、硫酸の染み込んだ砂漠の土壌に身を沈め、熱砂に灼かれて安穏と暮らす金星ワニのような。

と、書いて王丹は筆を止めた。

幾つもの磁気嵐が過ぎた。
やがて、金星の、鉛の海に浮かぶ女木島の空は白んで来たかに思われた。

戸板から光が煌々と零れた。
赤い光が燃えていた。
朝になった、と王丹は思った。
孤独の長い夜を過ごした。
朝になった。
王丹にとって、あたらしい暮らしを手に入れる新しい朝。

「朝になりましたな」
近習が戸板を開けた。

未だ、夜であった。
稚武彦命の軍勢が屋敷を囲み篝火を焚いていた。

板引き戸を開けた王丹を篝火が照らした。
屋敷を囲む軍勢が如何ほどにいるのか、篝火の火影に溶けて其れは見えない。

王丹は目を閉じた。


その時、窓ガラスがコツコツと鳴った。

気の所為では無い。
暴風の揺らぎでは無い。
コツコツ、
コツコツと。
人為の音であった。
僕は窓の傍に近付いた。

「ここを開けて」
女の声だった。
「占見さん?」
「そうよ」
「あなたは死んだと聞いたよ」
「会いに来たのよ」

どうして、と聞けばそれは野暮と言うのだろうか。
何故と聞くのが僕の悪癖で、聞かずに察するのが鴨方であったのかもしれない。
心裡など要らぬ。事情も要らぬ。経緯も未来も投擲して、カーテンを開けて、彼女を迎える。それだけで。明くる事を知らぬ僕の夜は。

***

大学生になって親元を離れて下宿する事になり、首都圏の外縁に1LDKのアパートを借りて、初めて一人暮らしをすることになった。必要なものは後から買えば良いからと、私は父に連れられて旅行鞄ひとつを持って入居をした。
父が入居の手続きを済ませて、他には色々しているうちにその日は夜になり、私と父は駅前まで歩いて喫茶店で食事を取った。父は、ナポリタンを注文した。
父は厳格と言うより無愛想の極まった人間で、子供が好むようなケチャップ味の料理を注文するとは思わなかった。父の意外な一面を見た。
私もつられてナポリタンを注文した。
黙々と食べて、父は口の周りを真っ赤にした。
それは私も同じであった。
見知らぬ街中を歩いて部屋に戻った。殺風景の部屋に旅行鞄がひとつ置かれて、窓から差し込む街明かりが、四角い幾何学を床に描いていた。
初日に私たちが買ったものは二組の布団であって、私たちはカーテンも、室内照明も買うことを忘れていた。
私たちは窓から差し込む光影を避けて布団を敷いて眠った。
光っている窓と街明かりが気になって夜中に幾度も起きた。
落ち着かなった。
寝覚めると外が白んで朝になっていた。
すっかり部屋が明るくなっている事に、私は置いてきぼりを食わされたような気になった。
その日は大学のキャンパスを下見して、インテリア店にカーテンを買いに行った。
西側の出窓のカーテンを何にしようかと父と私は意見が別れて口論になった。
私は赤いカーテンが良いと言い、父はベージュのカーテンを望んだ。私の部屋だからとごり推して出窓のカーテンは赤に決まった。
父は暫く不機嫌だったが昼食に蕎麦と海老天を食べて機嫌を直した。
父は小脇にカーテンを抱えた。
真新しいカーテン。新しい生活を彩るための。
カーテンを買って、あの殺風景の部屋が漸く住居となる気がした。私は夜の暗さを求めていたし、私が寝覚めた時に、既に部屋が白けている事にうら寂しさを感じていた。
カーテンを開けるまでが夜。開けたら朝。私は自律的な生活リズムを求めていた。
その日、私と父は思いつくままに必要と思われるものを購入した。
家具屋でベッドとダイニングセットを注文した。一人暮らし用の家電のパッケージも購入予約した。
夜になって郷里に戻る父を見送るため、私たちは再び駅まで歩き、昨日の喫茶店で食事をした。
父はナポリタンを注文した。私もナポリタンを注文した。
私も父も口の周りを真っ赤にしながらナポリタンを食べた。この店のナポリタンは鉄の味がする。
駅で父を見送り、私は一人夜街を歩いて部屋に戻った。
街明かりに光る窓が一人になった私を出迎えた。
私は買ったカーテンを取り付けた。
カーテンを付けると部屋は外界と隔たって密室となった。
部屋の中にはフローリングの上に敷かれた一組の布団。旅行鞄。私。
私はぽつねんと一人であった。
不意に新生活への不安が込み上げた。布団に入っても眠る事が出来ず、寝返りばかり打って胸心地の悪い夜を過ごした。眠れないまま、朝を待った。
明け方、少し微睡んだ。いたたまれない夢を見て目が覚めると、カーテンの裾端が白く光っていた。
私は起きてカーテンを開けた。
朝であった、新生活の。
カーテンを開ける一瞬間の、朝を迎えるという事の、力の漲る新しい暮らしの朝であった。

***

学生時代から何年も暮らした部屋を引き払い、私は郷里に帰る事になった。
使い慣れた家財を新居に送り、私は退去手続きをするため、不動産管理会社を待っていた。
部屋の中には旅行鞄と私だけがあってカーテンの外れた窓から差した日陰がフローリングに光陰の幾何学を描いていた。
南向きの窓外は住宅街で、その隙間に海岸線を走る鉄道と海と海を隔てた半島の稜線が見える。
海上をウインドサーフィンの三角帆が風を受けながら緩やかに走る。
空っぽになった部屋を見て、私は初めて一人で過ごした夜の事を思い出した。
あの日、口周りを真っ赤に染めてナポリタンを食べた父は既に他界した。
郷里に新居を構えて私は結婚をする。
新居のカーテンは伴侶と選んだ。かつて、インテリア店に赴き父とカーテンを選んだ日のことを思い出した。西向きの出窓の赤いカーテンを私は気に入っていたが、父の言う通りベージュのカーテンでも良かった。
父と口論した記憶が痼となって僅かな罪悪感を覚える。

明朝は新居にて、朝起きてカーテンを開ける。
新しいカーテン。新しい暮らし。

新しい朝。


(インテリアものがたり「窓帷」)
カーテンのご用命はインテリアのマルヤマへ。

玄関戸が叩かれてガチャりと外鍵の外れた音がする。
「朝になりましたよ」
木島氏の声がする。
南窓の裾端が白く光っていた。空が白んで鵠沼の町に朝が来たのだ。
僕は返事をしなかった。
木島氏はドアノブをガチャガチャと回した。
「先生、内鍵を開けて下さい」
そう言ってドアノブをガチャガチャと回す。

暗い部屋の文机に僕はいて、部屋隅に赤い服の女がいる。僕と女の真ん中には白兎がいて餌皿の干し草を食んでモグモグしている。

まるで。

李朝白磁に血が巡り心臓が拍々脈動するような。
李朝白磁がぴよこぴよこ跳ねて、草を食む。

まるで。

大島紬の白織物を手毬に仕立てて転がすような。
白泥染めの紬の毬がぴよこぴよこ跳ねて、草を食む。


木島氏はドアノブをガチャガチャ回す。

まるで。

吉備津の釜のように。

まるで。

鬼首を落とす吉備津彦のように。
台所で犬飼と名乗る男がぐうむと唸る。

「10年前の喫茶店で僕たちが会った時、流れていたのはサラサーテだったかしら」
と僕は言った。
「そうだったかしら」
と占見さんは言った。

明けたるといひし夜はいまだ暗く、月は中天ながら影朧々として、風冷やかに。とは雨月物語の「吉備津の釜」の一節で、男が怨霊に怯えながら四十九日を結界の中に過ごして、漸く明けたと思った夜は未だ暗い。怨霊の詐術に騙されたと知った絶望の描写である。月は中天に上っていたが、月影は朧朧としている。
僕は鴨方や占見さんとひと夏を過ごした。当時、僕は確固に彼らを知っていると思っていたが、本当は彼らの事など何ひとつ知らない。
中天に浮かんだ朧朧の月のように、彼らの姿は朧である。
当時はもとより10年前に再会した占見さんが、何を考えていたのかも、僕は分からない。朧朧なのだ、僕達は。

「先生、原稿を取りに来ました」
と木島氏が言う。
白兎がモグモグ草を食む。


(短編小説「朧朧」村崎懐炉)

#小説 #ネムキリスペクト #朝起きてカーテンをあける #NEMURENU #20200文字