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映画鑑賞の備忘録「グロテスク」★

白石晃士監督が好きだ。
が、これは無理だ。

無理だ!

「グロテスク UNRATED VERSION」★

映画の鑑賞方法には二種あります。
ひとつは物語に感情移入して「物語そのもの」を楽しむ鑑賞。
もうひとつには監督の思惑や、キャスティングの妙。映像技術、音楽。時代背景。関連作品等々、「作品としての映画」を楽しむ鑑賞。

後者の鑑賞方法は鑑賞者が映画を「虚構」と宣言する事から始まります。虚構であるのでどんな残虐描写があったとしても、鑑賞者は其れを残酷と捉えません。
腹が切り裂かれるシーンにおいても後者の鑑賞者は、其処に描かれる血糊の色であるとか、体組織の質感であるとか、肉を切る効果音であるとか、役者が死の絶望をその肉体を駆使して体現できているか。カメラワークが鑑賞者の欲望する視点になり得ているか、などを吟味致します。

この映画は大部分が拷問シーンから成り立っております。常に肉を刺す、切る効果音がぶちぶち流れ続けます。擬似血液が常にぴゅーぴゅー出続けます。そう言うものが観たい方ならお好きでしょうが、私は別に好きではありません。

そもそも。
白石晃士監督は何故、このような映画を作らねばならなかったのか。鑑賞者はこの作品の立ち位置を知らねばなりません。

白石晃士監督作品は
「ノロイ(2005年)」に起点します。
ノロイはフェイク・ドキュメンタリーと呼ばれるジャンルで、海外作品では「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」が代表作。
フィクションをドキュメンタリータッチで描く事で臨場感を高める事を狙いとします。フィクションである事を隠し、あたかも登場人物が実在するかのような仕掛けを現実世界の中に作ることもあります。

「ノロイ」は或る怪奇実話作家が失踪したことを受け、その足取りを雑誌の記事、出演していたテレビ番組、知人の証言から追いかけます。本人が主著した怪奇本は無名の出版社が発刊しておりますが、映画鑑賞者のために出版社のホームページが公開されておりました。「ノロイ」は何処までがフィクションなのか当時は話題になりましたが、すべてフィクションです。怪奇実話作家も、出版社も、そのホームページも。わざわざ視聴者が混乱するように偽のホームページまで作られていたんですね。

「ノロイ」はその現実を侵食する凝った仕掛けが評判を呼び、白石晃士監督の名声は一挙に高まりました。

しかし、フェイク・ドキュメンタリーという手法は二番煎じが通用しません。フェイクと分かっているフェイクに魅力はありません。白石晃士はフェイク・ドキュメンタリー手法を確立したその作品で、既に自らの手法を封じられてしまったのです。

フェイクが封印された白石監督が次に発表した作品が「口裂け女(2007年)」です。これはフィクション100%のホラー的娯楽作です。「口裂け女」など万に一つの信憑性もない題材を扱う事でフィクション性を倍増させています。自らに掛けられた呪縛「白石=フェイク・ドキュメンタリー」を払拭するために意識的にドキュメンタリータッチと逆のベクトルに向かっていることが分かります。白石監督は常に新たなジャンルを獲得したがっているように見えます。

「グロテスク」が発表されたのはその翌々年。2009年です。
「ノロイ」というフェイクドキュメンタリー、「口裂け女」という娯楽大作、更にそのどれにも属さない新しい「白石的恐怖」が「グロテスク」に於いて模索されています。白石が辿り着いた新たな「恐怖」のジャンル。それは「スプラッター」。ストーリーを排除した純然たるスプラッターを愉しむための映画が「グロテスク」なのです。

そして「グロテスク」発表の二か月後、白石は「オカルト(2009年)」という「ノロイ」に次ぐフェイク・ドキュメンタリー・ホラーを発表しました。つまり白石監督は「口裂け女」、「グロテスク」の二作品を通じて「白石=フェイク」の呪縛を解呪し、リセットすることで、自らがフェイク・ドキュメンタリー作品を発表する土壌を作る事に成功したのです。

映画「グロテスク」が生まれた背景にはこのような事情がありました。「オカルト」と同時進行で制作された「グロテスク」は場面展開もなく、キャスティングも限られて低コスト・低労力で作られておりますが、非常にインパクトは大きい映画です。つまり「スプラッター」は「コストパフォーマンス」が優れているのです。「オカルト」を発表するために白石は最大限のコストパフォーマンスを発揮してインテリジェンスなセレクトをしたと言えましょう。

余談ですが、白石監督のインテリジェンスはこの例に留まりません。ファンが待ちに待ったフェイク・ドキュメンタリー第二作「オカルト」、第三作の「シロメ」にもフェイク・ドキュメンタリーファンを驚かせる大きな仕掛けが仕込まれておりますが、それはまたのお話で。「シロメ」は最高傑作です。

改めて「グロテスク」について

拷問に始まり拷問に終わる何ら救いのない映画ですが、この映画にも白石が白石たる魅力があります。この作品を観る事はおすすめしませんので、一生涯この映画を観る事がないであろう皆様に100%ネタバレしながらこの映画の魅力について語りたいと思います。

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白石映画の魅力はラストに凝集される事が多いです。それまで積み上げた積木が崩壊するカタルシスが白石映画にはあります。それはこの映画においても顕著ですね。

この映画のあらすじを追いかけると、中学生みたいな恋愛が始まろうとする直前で男女のカップルが拉致され、説明もないまま謎の男の無慈悲な拷問が開始。抵抗もできず、死の絶望を味わいます。

(これから始まる恋物語、の次のシーン)

男が提示する「助かるため」の条件は「感動」。「生命の感動を感じさせてくれたら助けてやる」と男は言います。男は拷問を掛けながら、肉体を切り刻みながら、二人の精神に揺さぶりをかけます。「相手のために死ねる?」どちらが死ぬか選択肢が与えられ続けます。しかし、二人は相手を見捨て自分が助かる選択肢を最後までしません。拷問のクライマックスはチェーンソウで手のひらを寸断し、上腕部を落とし、五寸釘で男の睾丸を打ち抜き、眼球を打ち抜くことでしたが、それでも二人は互いに苦痛と絶望の中、自分だけが助かろうとはしません。

(睾丸に五寸釘を打つ!)

「感動したあああああ」謎の男は叫びます。「君たちは死なせない、助けてやる」。そう言って映画は物語の中盤「介抱編」に突入します。「介抱編」で謎の男は医師として二人に献身的に尽くします。二人を助けることを約束し、自らは警察に自首し、七億の資産を二人に譲渡することを誓います。半信半疑だった二人も自らが健康を恢復していくことで徐々に希望を持つに至りました。(腕は無くなってますけれどね)

「明日、退院だ」と謎の男が告げ、二人は安堵の中眠りに落ち、気付いた時には再び拷問部屋に吊るされておりました。一瞬のうちに二人は絶望に落ちます。

謎の男は、恐怖する彼氏に言います。
「今から君の腹を裂く。腸を取り出して先端を壁に打ち付ける。それから君にハサミを渡す。君は腸を引きずりながら彼女のところまで歩き、彼女を拘束する縄を切る。君は死ぬけれど、それができたら彼女を助ける。」

そして彼氏は腹を裂かれ、腸が壁に打ち付けられ、腸を引きずって彼女のもとに歩こうとします。失血と苦痛で朦朧としながら。その彼氏を男が励まします。そうですね、おそらく松岡修造にインスパイアされています。「がんばれ、君ならできる。」転んだ彼氏を必死に応援致します。

(腸の長さが足りない!)

彼氏は腸の長さが足りずに足止めを食らってしまいましたが、親切な男は腸をハサミで切って彼氏を自由にしてあげます。彼氏は彼女のもとにたどり着き縄を切ろうとしましたが、結局それは果たせず絶命致しました。

約束が守られなかった彼女には拷問死が待ち受けております。
しかし彼女はここで語りだします。

「あんた、自分で気付いてないでしょ。昔から友達がどうしていないのか、なぜ女子は顔をしかめてあんたから逃げるのか。何故あんたは愛されないのか。」男を侮蔑します。「あんた強烈なワキガなんだよ」

男は「美」のために凶行に及んでおりますが、男の「美」が瓦解する瞬間です。女は肉体の死と引き換えに男の美学を殺すのです。

男は自らの魂を守るように、拷問することは忘れて女の首を刎ねます。宙に飛ぶ女の首。そしてその首が落ちてきたとき、女は男の頸動脈に噛みついたのです。首に噛みつかれて苦しむ男。その隙を見て死んでいた筈の彼氏が生き返り、男の足にハサミを刺します。男は苦悶して倒れました。

振りほどかれ、地に落ちた彼女の生首。最後の力を使い果たし、これから死にゆこうとする彼氏と彼女は見つめ合い、微笑み合いました。二人は生命の強さを発揮し、男に復讐を果たしたのです。感動的な場面です。

と、まあね。そんな映画です。
最後はやはり馬鹿馬鹿しい。いままで構築した残虐なスプラッターが虚構の中に崩壊します。最後のドタバタがドリフのコントのようです。なんだ生首が噛みつくって。このラストシーンのために延々40分間弱、スプラッターシーンを見せ続けたのか。最後は爽やかに大笑いで終わらせる。さすがの白石作品です。

ちなみにこの映画は残酷描写が過ぎるので内容を自粛した通常版と、自粛を解禁した「UNRATED版」があります。

★の意味
★★★★★…映画史に残る名作
★★★★…個人的に超オススメ。何度も観たい。
★★★…可もあり不可もあり。
★★…時間の無駄かも。
★…最低の映画です。最低過ぎて貴重かも。

#映画レビュー #白石晃士 #グロテスク #スプラッター