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短編小説「椰子林の象と殺人鬼」

機械時計の四枚並んだ回転板の末尾がパタリと動いて時刻は0時24分となった。
その、微かの音で沢渡万斛サワタリバンコクは目を覚ました。
起き上がった沢渡万斛が目にしたものは機械時計の0時24分と、その隣に置かれたゲルマニウムラジオがカーテンの隙間から差し込んだ夜灯によって鈍く反射する金属光沢であった。

沢渡万斛は何故自分が目を覚ましたのか不思議であった。
彼は自室にいた。ムッとする熱帯特有の湿気が、部屋を満たしていた。重い空気が息苦しい。いつもいる自室が深夜に装飾されて異なる部屋に思えた。
彼は再び目を閉じて寝ようとした。

パタリ。
また機械式時計の回転板が回った。0時25分。

ザリザリと油蝉の鳴く如き音がしてラジオから人声が漏れた。

「……が……、見つかりました。……が、……」

彼の部屋が赤く点滅した。国家権力の特殊車両が回転灯を光らせて、街路を通り抜けた。
赤い点滅が彼の周囲を繰る繰ると回った。
彼は赤い目眩の中にいるような錯覚に陥った。
繰る繰る、繰る繰る、赤く染まった部屋が回転していた。

彼のゲルマニウムラジオは特殊車両の無線を拾っているようだった。

「……首しか、……女……」

特殊車両が離れると、再び彼は夜灯の差し込む仄暗い部屋の中にいた。

パタリ。
微かな音で刻刻と時が進む。0時間26分。

彼は未だ部屋の中で息を潜めていた。何故斯くも彼は目を覚まし、突然の不安に怯えているのか。そう、彼は不安に怯えている。だがその理由は分からない。明日、彼のチームは樹海にあるプランテーションへ視察に行く事になっていた。いつもより早起きをしなくてはいけない。彼は4時に起きて、5時に部屋を出るつもりであった。0時24分は些か起きるのが早過ぎる。と、彼は思った。

パタリ。
0時27分。

パタリ。
0時28分。

パタリ。
0時29分。

ふと、沢渡万斛は自室に違和感を覚えた。
彼の部屋は自然木が飾られており、部屋にはナチュラルウッドの香りで満たされる。彼は先日、自然木を新たに採集したので木の香りも未だ新鮮である。が、その匂いに彼の知らない甘い香りが混ざっていた。
女御の香水のような。

パタリ。
0時30分。

パタリ。
0時31分。外では雨が降り出したようだ。強い雨音と濡れた路面をオートモービルが走り去る音が聞こえる。湿度が一段高まって、香水の匂いが強くなった。

パタリ。
0時32分。

パタリ。
0時33分。

彼は0時33分の時計を見た時、突然一昨日の昼休憩の出来事を思い出した。

一昨日の午後0時33分、彼は食事を終えてシェスタに入ろうとしていた。彼は職場のハンモックに横たわり目をつぶった。
ラジオから昼間のトーク番組が流れていた。
「 もしも私たちの神様が何でも願い事を叶えてくれるとしたら?」
質問に対するリスナーの回答が淡々と紹介されていた。大衆の凡俗たる欲望を耳にしながら彼は自身の願い事について考えた。

「札束の出る魔法のポケットが欲しい」
と、同じくハンモックに寝ている同僚が言った。

「いつでも最高の料理を作ってくれる召使いが欲しい」
他の同僚が言った。
彼らは皆、ハンモックで午睡をしようとしていた。午睡前の他愛ない戯れであった。

「伴侶だ」
沢渡は言った。

誰も返事をしなかった。彼らにとってその願いが最も虚しいものに違いなかった。その言葉には夢などない。その言葉を否定する色褪せた現実しか見えない。もう誰も喋らない。沢渡ももう喋らない。
静かに時間は過ぎてやがて同僚たちの寝息が聞こえ始めた。沢渡もまた日陰のハンモックで午後の眠りに落ちた。

--------

いま沢渡は深夜の自室にいて、平素嗅ぎ慣れない甘い匂いを感知している。果実の腐臭のような気怠い甘さ。

もしか、俺たちの神様が願い事を聞いてくれて、俺に伴侶を届けてくれたのではあるまいか。
そう沢渡は考えた。考えて彼は高揚した。トキメキに胸が高鳴った。
もしか、俺が寝ている間だけ現れる伴侶の残り香なのではあるまいか。
もしか、突然現れた伴侶が俺にプレゼントを残したのではあるまいか。
期待の余り、じっとしていることに耐えられなくなり彼はベッド脇に立つシェードランプを灯けた。

フィラメントの焦げる小さな音がして、ぼんやりとランプは発光した。
彼の部屋がランプの間接照明で照らされた。物言わぬ、馴染み深い家具たちが陰翳の中に浮かび上がった。

果たして。
黒革張りの彼のソファに、花嫁姿の女がいた。

彼女の着る純白のドレスが彼のさもしい空間の一部を消しゴムで消し去ったように。間接照明の淡い色合いの中で花嫁のドレスが灰霞の空白となっていた。

ベッドから身を起こした沢渡万斛とソファに腰掛けた女は白熱灯の部屋に対峙した。

「伴侶だ」
彼は思った。ソファに腰掛ける彼女は紛うことなき伴侶であった。

「神の思し召しだろうか」
彼は思った。そうでなくては深夜の私室に花嫁の現れる謂れが無い。
だが、願望の成就に対して些か語弊があると彼は思った。

彼の部屋に現れた純白のドレスの花嫁は、何処で落として来たのか首が無い。

首が、無い。

ウェディングドレスを着衣して、手足はある。ドレスの着こなしはファッショナブルだ。彼女の白磁器のような肌に輝く装飾具も見事だ。
ただ、惜しむらくは首が無い。遠目には分かりにくいが、断面はさながら精肉のように鋭利だ。

「このようなものを頼んだ訳では、無い」
彼は思った。そして困った。首無の伴侶は彼には荷が重かった。有り体に言えば彼の首無の伴侶はどう見ても死んでいる。

彼は伴侶の遺体に触れた。
冷えきっているが、凍っている訳ではない。常温である。常温であるにも関わらず保存状態が安定しているのは工業的に、死体が保存されたからに違いない。血抜きされた死体の血管の隅々に血色のシリコンを注入する防腐処理がある。少なくとも、死体が悪臭を放ったり虫が湧く心配は無さそうであった。

それだけ確認して、沢渡万斛は明日の仕事に備えて再び就寝した。



ハードボイルド
エンターテイメント小説

「椰子林の象と殺人鬼」

御首了一









翌朝、予定通り4時に起床して5時に部屋を出て、彼は事務所に5時45分に到着した。
昨夜の豪雨は止んでいたが、濡れた大地が湿気を孕み、明け方の街を霧が包んでいた。事務所もまた結露して高い湿度に侵されていた。
沢渡万斛は事務所の湯沸かし器の電源を入れて、少し待った。電熱線によって水が沸騰した。
彼は沸騰の音を聞きながら、霧深い街並みを見た。

今朝、彼は近くの教会で女の首が発見されたニュースを知った。身元もすぐに判った。美人で評判の画商であった。ニュースに生前の顔が写った。確かに美人だ。三日前から行方不明になっていた。
身体が未だ発見されていない。

そうだろう、彼女の身体と思しき遺体はまだ彼の部屋にある。

彼は珈琲を淹れた。

同僚である島田が出社した。
「昨晩の雨、凄かったね」
と、彼は言った。
「そうだね」
と沢渡は返事をした。
同僚島田は誰とも話を合わせられる気の利いた人間で、沢渡も彼を親しく思ってた。
「ニュースを見た?」
「見たよ」
当然、市内で発見された首無し死体のニュースだ。

「凄い美人だった」
島田は言った。

「そうだ、美人が勿体ない」
出社した主任の赤木が言った。
「おはようございます」
沢渡万斛は挨拶をした。
「ああ」
主任は言った。

沢渡万斛は主任が苦手だ。彼の粗暴な人間性を快く思っていない。それが伝わるのか主任も沢渡万斛とは距離を措く。

「珈琲を貰っても?」
主任が尋ねた。
「勿論ですとも」
沢渡万斛は言った。乳酸臭が鼻につく。二日酔いなのだ。赤木のそのような堕落しない所も沢渡が赤木を厭う理由になっていた。

「真壁君が来れば出発できますが」
島田が言った。沢渡にはそれが「真壁が来ないので出発できない」という意味に聞こえた。
「粗忽な奴め」
赤木が言った。主任である赤木の苛立ちには理由があった。真壁は遅刻癖があるのだ。監督者である赤木主任は真壁の粗忽をよく思わない。だが、真壁の粗忽こそが沢渡にとって真壁の親友たる所以であった。
どうにも主任と価値観の相容れない沢渡万斛が、主任からの嫌がらせもなく会社勤めをしていられるのは、主任が真壁を目下の敵と看做しているからであった。言わば真壁は熱射の紫外線から肌を守る日除け傘であった。

彼らは珈琲を飲みながら、真壁の出社を待った。
時刻は5時56分になった。

「賭けをしないか」
主任が言った。
「真壁が遅刻するかどうか……、俺はすると思う。奴が来るのは、そうだな。6時3分だ」
「僕はしないと思います、5時59分」
と島田が言った。
「お前はどう思う?」
赤木主任が沢渡万斛に尋ねた。

「彼は今日、早めに出社する事を忘れていて、掛かってきた電話で自分が遅刻した事を知り、慌てた彼は電話に対して体調不良なので欠勤すると答えると思います」
沢渡万斛は答えた。

時刻は5時58分になった。

「何を賭けますか?」
島田が言った。
「負けた奴は今日の報告書係にしよう」
赤木主任が言った。

時刻は5時59分になった。
ドアが開いた。

だが現れたのは真壁では無い。後輩の上野であった。

「先輩は体調不良で休むので僕が代わりを頼まれました」
と上野は言った。

「聞いてない」
赤木は答えた。主任に相談なく勝手に人員を変更し、その報告のない事が真壁氏が真壁氏たる所以であった。
赤木主任も突発の人員変更を認めるか迷ったが、既に上野が来てしまったので、止む無く同行を認めた。
彼らは社用車に乗って黙々と樹海を目指した。

青木ヶ原樹海は森林が開拓されて巨大なアブラヤシ農園が拡がる。年々農園は拡大の一途を辿り、いまや面積は樹海の3分の1にあたる1万ヘクタールに達した。富士山領の緩やかな裾野に整然と並んだアブラヤシの立木が広大に広がっている。

沢渡が勤める「株式会社樹海パーム」は樹海のアブラヤシ農園でパーム油を生産して、加工会社に販売している。
現地には何度か行った事がある。
熱帯特有の高温多湿の息苦しさ、皮膚を焼く太陽。毎日午後になると計ったように始まるスコール。充満する草いきれ。
その農園で働く黒く日焼けした労働者たち。

「象がいるよ」
赤木主任が新人に言った。
樹海の周辺には野生の象が暮らしていて、時にその姿を樹影の中に覗かせる。
だが象が椰子の木を倒木してしまうので、農園から象は害獣として扱われている。以前沢渡は現地の人から象用の毒を見せて貰った事がある。

「果物に毒を混ぜて撒いておくのだ」と現地の人間は言った。真っ黒に日焼けして、眼球の白眼が浮いている。現地の人はそう言って林檎を地面に放った。ここが象の散歩道になっているのだという。
その翌日に子像が死んだ。
毒の林檎を食べたのだ。
現地の人達はその場で象を解体して何処かに持って行ってしまった。象皮や象牙は売れるし、肉は食べるのだと言う。

「先輩、あれは?」
上野が窓外を指さした。
「あれは象園だよ」
島田が言った。
「象を保護してる」

「いや隔離だよ」
赤木が言った。
「必要な数の象は囲いの中で確保しているので、森の中の象は殺しても良い」

「象を殺す?そんな事が許されるんですか?」
上野が言った。その反応も当然だ、と沢渡は思う。象を保護しなければならない、これが世間一般的な常識だった。一定の頭数の保護する象を確保した以上、保護しなくても良い象を現地の人々が駆除している事実を国民は知らない。
だが、彼らも象に悪意があるのではない。彼らには彼らの生活があるのだ。そしてその彼らに象を殺さなければならない生活を強いているのが沢渡らの会社なのであった。

「象園の中では象に餌をあげたり、象に乗ったり出来るよ」
島田が言った。

一行が現地の事務所に入ると所員たちが騒然としていた。

「作業員に行方不明者が出ました」
と所員が言った。
「それは大変だ。」
赤木が言った。
「手伝おうか?」
「お願いします」

赤木は言った。
「少し忙しくなるよ」

沢渡達は二手に分かれて行方不明になった労働者を探すことになった。
写真が渡された。

八ッ場啓司、45歳、男。体型は中肉中背。農園勤務5年目。新潟県出身。体色は日焼けして黒い。現在の髪型は坊主頭。近眼で黒縁のメガネをかけている。

沢渡は写真を見た。他の現地の人々同様に真っ黒に日焼けして白目が浮いている。外見に特徴たる特徴が無い。彼には行方不明者となった八ッ場啓司と、彼の特徴を説明する現場監督の区別もつかない。

「特技はジャズギターで、国際大会に招聘された事もあります。実際に上手でしたね、会社の宴会ではよく余興として披露していましたよ。得意なのは確か……ええと、指の数が足りない……」
現場監督の棚田が説明をしたが、ギタリストの名前が出ない。
「 ジャンゴ・ラインハルト?」
島田が言った。
「 そうそう、指の数がね、合ってる」
棚田が答えた。

赤木と島田、沢渡と新人の上野の二手に分かれて彼らは森林の中に入った。
彼らの手には信号弾が渡された。
「使える?」
信号弾について沢渡は上野に聞いた。
「使えません」
上野は言った。沢渡も信号弾を使った事は無かった。

沢渡達は樹海の中に入った。原生林の中に象の道が出来ている。

「迷わないように」
現場監督の棚田が言った。
沢渡達は棚田が先導した。他に現地の労働者が一名加わる。
「よろしくお願いします」
労働者の名前は柳と言った。真っ黒に日焼けして白目が浮いている。坊主頭で黒縁の眼鏡をかけている。頑健の体躯だ。これが行方不明の八ッ場だと言われても疑うらくはない。

「行方不明になった八ッ場君はどんな人?」
沢渡は柳に聞いた。
「良い奴ですよ」
柳は言った。前を歩く柳の筋肉が揺れた。
屈強だ、と沢渡は思った。長年デスクワークで筋肉を衰えさせた沢渡達と違って彼らの行う肉体労働は日々行われる筋肉の鍛錬に近しい。彼らは高さ10メートルに切り揃えられたアブラヤシの天辺に生る椰子の実を長い鎌で刈る。アブラヤシの果実は集合して果房と呼ばれる塊になっている。果房の重量は約40kg。地面に落ちた40kgの果房を抱え上げて車に積むのが彼らの仕事なのだ。

長年の肉体労働に耐えた彼らの身体は沢渡や新人の上野の持つ身体と根幹が異なる。
もしも彼らに襲撃をされたら忽ち、沢渡らデスクワーク人間は圧壊するだろう。彼らは沢渡らよりも大きく強い。そして熱帯雨林に暮らす象たちはその彼らより大きく強い。だが支配の構造は逆だ。象は現地の人々に毒殺されて、現地の人々はデスクワーク人間に監督される。
その沢渡らは会社から安月給で使用されて、会社役員ばかりが私腹を肥やしている。

熱帯雨林の樹海は巨岩と大木の根が大きな高低差を形成していた。ビルほどもあるような巨岩を見上げたかと思えば、次に彼らは谷底にいて、両岸にかかる橋のような大木の根を潜りながら進んだ。
樹皮や地表を苔が覆って、緑だけが浮き出たような景色であった。
沢渡は何度か樹海を訪れたが、このような奥にまで入るのは初めてだった。

行方不明となった八ッ場が象の道から外れて原生林の奥深くに入ってしまえば、見つける事は不可能ではないかと思う。
沢渡が現場監督である棚田に尋ねると、それは無いと言われた。原生林は足場が悪く、枝や蔦を伐採して進まねばならない。小動物ならまだしも人間が歩き進められるものでは無い。仮にそうして奥を進んだ跡があれば、直ぐに追いつけるだろうと言う。
彼らが原生林を進むうちに棚田の無線が鳴った。

「見つかりましたよ」
棚田が言った。

沢渡らが現地に着くと、怪我をした八ッ場を数人が囲んでいた。逃げる途中で怪我をして動けなくなっている所を保護されたらしい。
現場監督の棚田が八ッ場に尋ねた。
「他に仲間はいるか」
「いない」
「どうやって逃げようとした」
「樹海に隠れてやり過ごすつもりだった」
「手引きしようとした奴がいるだろう?」
「いない」

現場監督棚田が赤木を振り返って首を振った。赤木が信号弾を構えて発砲した。
それで八ッ場は絶命した。

集会を行うために労働者が集められて、赤木が訓示を行った。
いかに農園で作られる原油がこの国の産業を支えているか、国民の生活の基盤となっているか。そのような偉大な生製品を作るこの農園で働く事が如何に矜恃であるか、力強く赤木は語るのであった。

「どんなに豪奢な生活を送る大富豪もパーム油がもたらす恩恵に預からなければ暮らしていけない!」
熱弁の具合がテレビショッピングみたいだ、と沢渡は思った。

その後に沢渡らは園内の事務所で食事を摂った。沢渡は密かに象肉を期待していたが、振る舞われたのは樹海にいる猿の肉塊を塩焼きして削いだものだった。長く削がれた薄い肉片を甘辛いソースに絡めて食べる。

食後に赤木は書類の確認を行うため事務所に残った。その間、沢渡と島田、上野の三人は園内の巡回を行った。

「先程の男はどうして殺されたんですか?」
上野は言った。
「行方不明っていうのはね」
島田は言った。

行方不明者とは、事業場から逃げ出して隔離施設に逃げ込む者を言う。労働に耐えかねて逃げ出す者を匿う施設があるのだ。労働者達はその場所を知っているが、管理者側は知らない。隔離施設は不定期に場所を変える。労働基準監督署と呼ばれる国家機関がその場所を知っていて、必要に応じて相談者に示唆をするのだと専らの噂である。
行方不明者が多い事業場には労働基準監督署の監査が入り経営について四の五の言われるので、株式会社樹海パームでは逃げ出す者が隔離施設に入る前に見つけて粛清する事になっている。

「殺人ですよね?」
上野が言った。
「殺人?」
沢渡は言った。年に数人、アブラヤシの下敷きになって死ぬ者がいる。高さ10メートルの高木から四十kgの果房が落下するのだ。当たれば死ぬ。
産業医が死因を書いて、地元の警察が機械的に処理するので、いつの間にか機械的な処理を隠れ箕にした粛清が常習化していた。

「悪い言い方をすれば、殺人になるかもしれないが。しかし、もし彼が行方不明になった時に、下手をしたら農園は労基署の下手糞な指導によって閉鎖に追いやられるかもしれない。そうなれば我々含めて多くの労働者が失業する。その失業者を救える者は誰もいないんだよ。労基署だって救えやしない。国家権力が我々を雇ってくれる事など無いのだから。」
島田が言った。

上野のような新人には刺激が強い話かもしれないがいづれ慣れる、と沢渡は思っている。
とはいえ、信号弾の引鉄を沢渡が引いた事はない。我々デスクワークが現地の人を撃つのを沢渡は初めて見た。
あれは赤木の性癖だろうか、それとも赤木なりの誠実な労働行為だろうか。
沢渡が将来、赤木のような立場に立ったとして、沢渡は引鉄を引くだろうか。
現地の人達の慣行を傍観する事と、加担する事には明確な線引きがあるように思う。だが、それも感傷だ。引鉄を引かなければならない時もあるのだろう。

強い象を毒殺する強い労働者、彼らを支配する社会的階層。沢渡らも、強くなければいけないのだ。

死んだ八ッ場が解体されて食べられるという事は無かったが、彼の私財は彼を捕まえた労働者達に分け与えられるそうだ。労働者たちが相互監視を強化する為の既得権益であった。

八ッ場のジャズギターは親友たる柳に与えられた。売ればそれなりの現金になるらしい。柳は謹んでそれを受け取り、上手に現金化する算段をしていた。

その日は象園に子象が保護された。母象が象園の周囲をウロウロしていたので、殺されてしまった。

夕方になる前に沢渡らは会社に向かって出発した。

会社に戻ったのが夜八時。報告書を上野が作成するのを見届けて、沢渡は帰宅した。

帰宅した沢渡を待っていたのは首無の花嫁であった。
防腐処理された死体は血色良く沢渡を出迎えた。最新の防腐処理は死後硬直も回避できる。花嫁は血色よく艷容で柔らかい。
死体から香る甘い匂いが部屋に充満していた。

すっかり届け忘れてしまった。
と沢渡は思った。今日、死体を国家権力の出先機関に届けるつもりであった。
明日、届け出れば良いだろうか。
沢渡は死体について調べてみた。被害者女性の写真が幾つか出てきた。美人だ。煌びやかで沢渡の住む油糧塗れの世界とは人種が異なる。

沢渡は検索画面を閉じた。
花嫁の死体は未だそこにあった。
ニュースには女性の身体的特徴など書かれないので、この花嫁が美人の生首の肉体たる確証はないが、生首と首無し死体など同市内にそう何組もあるものでは無いだろう。

花嫁の死体の真向かいに沢渡は座った。

今日は色々な事が起こった。
花嫁の死体の遺棄。
熱帯雨林で密かに行われた殺人。子象の保護と母象の死。

沢渡は珈琲を淹れた。ジャコウネコにコーヒーノキの果実を食べさせて、腸内発酵させたもの、コピルアク。これは今日のお土産に現地の人々から頂戴したものだった。
農園の近くにジャコウネコ園があって、そこでジャコウネコの糞を集めて珈琲や香料を作っている。糞から発酵珈琲や香料は少ししか取れないので稀少な品物だった。
沢渡は現地の人々の明るい笑顔を思い出した。
部屋に置いたサンダルウッドと、女から漂うイランイラン、珈琲から香るジャコウネコのシベットが絡まり、複雑な甘さを持った匂いに変わった。
シトシトと雨が降り始めた。小夜時雨。高まった湿度に匂いはまた濃くなった。

数日間、沢渡は花嫁の死体と同居した。
仕事が多忙で余裕がない。死体の拾得を国家権力に届け出ようとすれば説明に時間がかかるだろう。それは翌日の仕事に差し支える。
数日の同居のうちに、女の甘い香りに包まれるうちに、彼は花嫁の肉体が彼の部屋から喪われる事に不安を覚えるようになった。

ニュースでは未だに美人画商の肉体が見つからない事をミステリーとして報じた。そのニュースを見て彼は怯えた。いつか国家権力が彼の元にやってきて、彼の花嫁を押収する。

「まさか本物の死体だとは」
もし国家権力が彼に死体の横領を詰問した時に、彼はそのように答えるつもりだった。毎晩、彼は国家権力に弁明する自らを想像した。些か言い訳が苦しい。もしかしたら国家権力には通用しないかもしれない。彼は夜毎煩悶するのであった。

沢渡は夜毎、煩悶しながら日中は株式会社樹海パームで精勤した。パームの売上は益々増えた。パームは植物性油脂の代表で、マーガリン、食品、香料、香水、洗剤など幅広く活用される。 北都に新たなチョコレートメーカーが出来たので、パーム油の需要量が増えたのである。

その日の仕事帰りに沢渡は化粧品店に寄って香水を買うつもりだった。
花嫁は変わらぬ血色であった。きめ細やかな皮膚は保湿に優れて美しさを保っていたが、イランイランの香りは日にちを経るごとに弱まった。 花嫁の魅力を損なわせないために、彼は然るべき準備をせなばならない。

「どんな香水を探してるの?」
化粧品店の美容部員は言った。
「イランイランを使ったものが良い」
と沢渡は答えた。出来るだけ花嫁が付けていたものと同じものを探したかった。狂おしい程に濃厚な甘い花の香り。爛熟の果実の香り。

「これは?」
美容部員が小瓶を取り出した。
「良い香りだけど、もっと甘い香りが良い」
沢渡は言った。
「それならこれは?」
「花の香りが爽やかすぎる」
「もっと濃厚なもの?」
「そう」
「良いのがあるわ」
美容部員は言った。
「あまり仕入れないのだけれど、最近は良く出るわね」
と、奥から小さなガラス壺を持ってきた。濃厚でエキゾチックで五感が溶けるような甘い匂い。あの夜に部屋を満たした匂い。
「これにするよ」
沢渡は言った。
「プレゼント?」
「 そう」
「 彼女?」
「 伴侶だ」
「喜んでくれると良いわね」

沢渡は御礼を言っても店を出た。
ドアを閉めると沢渡は誇らしい気持ちになって意気軒昂と歩いた。独り身である沢渡は思えば誰かのために金銭を消費したことがない。若い時分には家庭というものに憧れた季節もあった。だがいつしか憧憬は錆びて潤滑油が切れてギシギシと軋むようになり、それが恥ずかしくなって、彼は憧れを諦念に替えた。

だが、どうだ。と沢渡は思った。
いま俺の心身は熱く滾っている。この熱帯夜よりも熱く、俺の心が燃えている。誰かの事を思うことがこんなにも素敵な事だったなんて!この喜びに比べたら今までのどんな愉悦だって泥水と一緒だ。

笑い出したくなるような高揚を胸に控えて彼は街道を闊歩闊歩と行進した。

だが、彼の高揚が続いたのは束の間であった。
「君、待ち給え」
と沢渡は背中に声を掛けられた。
振り向くとそこには見知らぬ国家権力がいた。

「化粧品店で何を買ったのか見せなさい」
若い国家権力は言った。
「 嫌だ」
沢渡は言った。
「俺が何を買おうと自由だ」
「何を」
国家権力は目角を立てて言った。いつもは争い事を避ける沢渡も吉日たる本日は引くところを知らない。国家権力の難癖を許すまじと憤懣を顕に対峙した。

「まあ待て」とその二人に老年の男が割って入った。
「いまこの辺りでね、おかしな事がないか聞いて回ってるんだ」
と老年の男は言った。
「 ほら、最近は特に、物騒だろう?」
「買い物を見せろ」
若い国家権力が言った。
「見せて貰わなくても良いよ、何を買ったの?」
老年の国家権力は言った。
沢渡は慌てた。
だが、その狼狽を面にしては不可いけないような気がして、表情を強ばらせた。
不躾な若い国家権力の態度に不興のフリをして、固い表情も誤魔化そうと思った。だがいつまでも商品を隠すのは怪しいのではないか。因循と沢渡は悩んだ。考えて彼はとうとう躍起になった。

「放っておいてくれ」
乱暴に体をぶつけて二人の間を沢渡は通り過ぎた。
「おい、待て!」
若い男が沢渡を呼んだが、それ以上の追求は無かった。

国家権力達が沢渡を尾行けているのではないかと怯えながら、彼は無駄にドラッグストアに寄ったり、時計店のショウウィンドウに見惚れたり、本屋や花屋を冷やかしたりしながら出来うる限りの寄り道をして帰った。幾度も彼は自らを狙う追跡者を探したが、そのような影を見つける事は無かった。
そうした寄り道を経て帰った彼は、焦燥と胡乱の中をさ迷った挙句、手に本と花束とペアウォッチの入った買い物袋を提げていた。
彼は花束を彼女の胸に置き、腕で留めた。

どんなやり取りで花束を買ったのか、彼は覚えていなかったが、青と白の花を基調にしたブーケは彼女には暗過ぎた。もっと明るい色を注文するべきだった。それから彼は彼女の腕にペアウォッチを嵌めた。彼もまた手首に同型の時計を嵌めた。店員に勧められるがままに買った彼にも、花嫁にも似合わないデザインだった。

テーブルに彼は本を置いた。タイトルは「火星」。赤いオリンポス山と青く光る火星の夕焼けが表紙になっていた。国家権力からの追っ手を免れるため、彼は本屋に入ったが、若い女の店員が懐疑的に彼を睨めるので、直ぐに居心地が悪くなり、目に付いた自然科学雑誌を買って出てきてしまった。何ら時間を費やすこともできなかった。

花束と香水、ペアウォッチと科学雑誌。
ちぐはぐだ。こんなものを欲していたわけではないのに。下世話で凡庸な出費だ。
彼は悲しくなった。

—-----

株式会社樹海パームの社内で、被害者女性のいつまでも見つからない胴体について議論が起こったのは、翌日の午後であった。

「つまり美人画商はデート商法の元締めで、結婚詐欺の被害届まで出されていたと」
赤木主任が言った。
「だから被害に遭った男性が怨恨に駆られて犯行を」
島田が言った。

「それはおかしい」
赤木が言った。
「怨恨は猟奇殺人に繋がらない」
成程、と沢渡は思った。
死体が綺麗に保存されている。怨恨の成せる技ではない。犯人たる猟奇殺人者は頭部は国家権力に発見させておいて、身体の方は何故に俺に託したのだろう。俺がすぐに届け出ると思ったのだろうか。
勿論、俺にだってそのつもりはあった。体を届け出て、死体は五体満足に無事に発見。何某なにがしかの手掛かりをえて、犯人逮捕に繋がったかもしれない。
俺が身体の拾得を届け出ないばかりにいたづらに捜査が混乱している。

そこで沢渡はハッとした。発見された頭部はどうなっているんだろう?恐らく頭部も念入りな防腐処理が施され、血色シリコンによって生前と違わぬ生気を宿している筈だ。美貌の頭部は?
国家権力の奴らは花嫁の頭部を埋葬したのだろうか、それとも証拠品として官舎の奥底に仕舞っているのだろうか。

彼は国家権力の官舎の奥底に保管された生首を想像して、底知れぬ恐怖を覚えた。深海でいつまでも腐らぬ生首が眠っているような永劫の孤独。

—----

「それにしても真壁の奴、今日も来ないじゃないか」
話題が変わって赤木主任が言った。

沢渡の同僚の真壁は先日の出張に欠勤をしたまま、未だに出社していなかった。
欠勤四日目。
当初は真壁の勤務不良の性根故に連絡を寄越さないのだと思っていたが、数日を重ねて連絡がない事に、良からぬ不安を感じるのであった。

「死んでいたりして」
赤木が言った。

いま、同僚の真壁の置かれた状態について、四つの可能性がある。

・病気、或いは事故、事件によって死んでいる。

・彼の当初の申告通り、病床に伏せっている。或いは自室で怠業している

・生きているが彼の望まぬ事由によって外に出れずにいる

・自発的に失踪している、或いは外で他殺されている。部屋にはいない。

島田は真壁に電話をした。
電話は繋がらなかった。
「もう一日様子を見よう」
赤木は言った。

樹海パームと新たに契約した北都のチョコレート工場が、30年間の詳細の試算書を要求したため、彼らは連日残業が続いていた。
「経年の物価高騰と人件費の増額がシミュレーションに反映されていない」
最初に作った試算書は無体に弾かれた。

残業しながら沢渡の気分は優れなかった。日中に囚われた暗澹の思いが彼の心裡に蟠っていた。彼は胸を掻きむしった。

だが、俺に何が出来る。巨大な社会の車輪に押し潰された小市民の俺に。彼は権力構造から搾取され、簒奪される。彼に出来る事は小市民の任辱に耐えながら縷縷と日常を継続させる事しかない。

仕事を終えて、帰路についた彼は、街歩く人々が彼を凝視する視線に気が付いた。
彼は隣を歩く島田に言った。
「みんなが俺を見ている」
「気のせいだよ」
島田が言った。

「 気の所為」の事をアポフェニアと呼ぶ。
無作為や無意味の中に意味を読み取ろうとしてしまう状態。
彼は些細な人々の視線に触れてはそこから作為的な意味を読み取り「凝視」に感じてしまう。
と島田は説明した。
「君は疲れているんだよ、よくおやすみ」
彼は言った。

島田と別れて沢渡は地下鉄に乗った。やはり人々が沢渡を凝視していた。その視線が恐ろしくて沢渡は地下鉄に乗る間、ずっと俯きながら刺さるような凝視の視線に耐えた。

また人々は口々に沢渡の事を話題にした。
ひそめく声で彼を意気地無しと罵るのであった。
そのような人々の囁きが聞こえて、沢渡は地下鉄の人々を屹と見据えた。
だが、その時にはもう誰もが彼から目を背けて素知らぬ振りをしているのであった。

地下鉄を降りて、街路を歩くと野良犬までもが沢渡をめつけた。

犬畜生までもが俺を蔑む!
沢渡の性根は怯懦となった。彼は街路の裏路地から裏路地へ、誰にも見られぬように家路を辿った。
それでも人々は窓から彼を猊下して嘲笑するのであった。

その時。
九天の嘲笑に耳目を塞ぎ、疲労困憊に挙措を失った彼を尚、大きく嗤う声があった。その哄笑の轟音に彼の心胆は潰れる程にひしがれた。
見ればその轟音は酒類提供店の裏口の、雑に置かれたゴミ箱から聞こえている。

沢渡がゴミ箱の蓋を開けると果たしてそこには一人の男が入っていた。裸の男が轡を噛まされて喘鳴している。

性癖なのかゴミ箱の男は手腕がラバーバンドで縛られている。
性癖なのかこの者は膝脛がラバーバンドで縛られている。
その者が卑屈の眼差しで沢渡を嘲っていた。
沢渡は此の者を見た事がある。
先日、沢渡が香水を購入した時にしつこくした老年の国家権力であった。
此奴が沢渡を恫喝したので沢渡は神経を摩耗して現在に至る。沢渡の神経衰弱の元凶である。人民の血を啜る悪鬼の如き国家権力が斯様な淫蕩に油を売りつつ、猶お、沢渡を嘲笑する事が沢渡には度し難い倨傲に映る。
国家権力の制服や携行品は路地裏に乱雑に散らばっていた。
怒りに震える沢渡は此処で、ひとつの意地悪い復讐を思いついた。
彼の者の性癖がどのような形で満足するか知らないが、落ちている衣服を沢渡が持って帰ってしまえば、此奴は裸で家まで帰るしかない。
そうとも、俺は彼の者が散らかした制服も、荷物も全て持ち帰ってやろう。
簒奪だ。国家権力達が小市民から財物を奪うように。彼らが俺から伴侶を奪おうとするように。
俺が路地裏を任辱に耐えながら背中を丸めて歩いたように、此奴も精々路地裏を人目を避けて歩くが良い。
沢渡はゴミ箱の蓋を閉めた。
それから老年の国家権力が脱ぎ捨てた衣服から小荷物から全て小脇に抱えて走り去った。

斯くして沢渡は国家権力の制服と、ニューナンブ式拳銃を得たのである。


翌日、株式会社樹海パームの経理室では出社しない真壁社員について再び討議が行われた。
昨日一日彼と連絡がつかないことから暢気に事を構えているのはよろしからぬように思われた。
そこで主任である赤木と新人の上野が真壁の家に向かった。事情を話してアパルトマンの大家に鍵を開けて貰うと、真壁の腐乱死体など何処にも無い。部屋の中はもぬけの殻であった。

家具はそのままであったが、貴重品は残っていないようだった。争われた形跡も無かったので夜逃げでもしたのだろう、と結論付けられた。

その話を赤木から聞いて沢渡は、心裡の片隅で安堵した。
何かの事件に巻き込まれて、真壁が部屋の中で惨殺されている事まで想像していた。悪い予想が外れて良かった。
だが、次の瞬間に沢渡は自らの想像していたこと以上に良くない事が、「いまこの瞬間に」起こるやもしれぬ可能性に気付き戦慄ぞっとした。
彼は咄嗟に俯いた。
誰も、「それ」に気が付かなければ良い、と彼は早鐘の如く動悸する心臓を抑えて願った。
だが、彼の願いは虚しかった。

「真壁を捕まえないといけないな」
赤木は言った。

沢渡は面を上げる事が出来なかった。この張り詰めた、尚且つ歓喜に満ちたような赤木の声音に聞き覚えがある。
樹海のプランテーションで逃亡した現地の人を信号弾で粛清した、あの声音である。

過酷な労働に耐えかねる労働者を庇護する施設があって、そこに匿われる事を行方不明と呼ぶ。
その施設は国家権力によって運営されており、労働者の訴え如何によって、事業場には監査が入る。監査とは国家権力が行う民業の蹂躙である。下手をすれば閉業、倒産。財産は没収されて官吏に分配される。
沢渡らは失業すればもうこの国に働き口など無いのだ。国家権力は彼らを救わない。

真壁が保護施設に入るより前に、彼を捕まえねばならない。

赤木は社用車の手配をした。だが、赤木も誰も転々と場所を替える保護施設の在所を知らなかった。
もし、沢渡が捜索部隊の指揮を取るなら入念の情報収集から始めて捜索の方向を決定する。動く前の慎重な下準備が必要なのだ。

だが赤木は行先も分からぬまま、各員を社用車に押し込めて愚連隊のように闇雲に街中を走った。
情報も準備も無いこのような方法でまさか真壁が見つかる筈が無い。
沢渡は幾分安堵した。真壁が逃げ切ってくれる事を願った。
だが、と沢渡は思う。
真壁が保護されて会社に国家権力の監査が入ったら?

やはり沢渡らは真壁を見つけなければならない。また沢渡は思った。真壁は今日、ネクタイピンをしているだろうか。彼は金地の良いネクタイピンを持っている。彼がもし死んだら、俺はあのネクタイピンを貰おう。

街中はネオンに彩られていた。夜の女達が歩いている。その女達に赤木は手当り次第に声を掛けた。
「何処へ行くのよ」
女達は言った。
「狩りだよ」
赤木は言った。

青いドレスと赤いドレスの二人組が赤木に誘われて社用車に乗った。
「楽しい所に連れて行ってよ」
女達は言った。

「俺たちの仲間を探してるんだよ」
赤木は真壁の写真を女達に見せた。
「見つけたら良い事ある?」
青いドレスの女が言った。
「 パーティだよ」
赤木は言った。

女達は携帯端末を使って仲間内に写真を配って情報を集めた。
それで真壁は簡単に捕まった。彼は繁華街を飲み歩いていた。

赤木は捕まえた真壁に目隠しをして、日本海を臨む摩天楼の屋上に連れていった。それから彼は真壁を屋上の淵に立たせて目隠しを取った。

「落ちる落ちる」
真壁は言った。
赤木は小石を拾って振りかぶり、真壁に向かって投げた。
小石は真壁を外れて、ビルの合間の路地裏に落ちていった。
峡谷の谺のように、小石の落ちる音が奈落に反響した。
「落ちる落ちる」
真壁は言った。
それを見て赤木は笑った。女達も笑った。

赤木は沢渡らに小石を投げるよう言った。
島田も上野も小石を投げた。小石は外れて奈落の谺が響いた。
「 わあああ……」
真壁は恐怖に震えていた。
沢渡も小石を投げた。
小石は外れた。だが強いビル風に煽られて、真壁は奈落に落ちた。

熱帯雨林のプランテーションでアブラヤシの果房が落ちて、割れた果実から赤い油液が流れて大地に吸収されていく。
真壁はアブラヤシになったのだ、と沢渡は思った。

「ああ、」
目の前から真壁が消えるのを見て、赤木は興ざめしたようだった。
「 死なせるつもりは無かったんだけどなあ」

摩天楼を塒にする烏たちが一斉に鳴き出した。或いははじめから鳴いていたのかもしれない。沢渡が気付かなかっただけで。もう誰が何を喋っているのか沢渡には聞き取れない。

赤木は女達を連れて何処かに消えてしまった。
上野は無言で帰った。
屋上には沢渡と島田が残った。

島田は何かを言っていたが、彼の言葉が沢渡にはとうとう分からなかった。

その日、家に帰った沢渡は先日に拾得した国家権力の制服に着替えた。
鏡に自らを映すと、沢渡は自らが生まれ変わったように感じられた。
国家権力の制服は力の象徴であり、沢渡はいま誰よりも強い。
勇猛たる自らに見惚れた。彼はニューナンブ式拳銃も拾得していたので、彼は鏡の前で様々にポーズして拳銃を構えた。

彼は弱小たる自らが国家権力に変身する事の愉悦に耽った。
「撃つぞ撃つぞ! 」
得意げに彼は言った。

その時、彼のゲルマニウムラジオが再びノイズを拾った。

首が…、首が…、

サイレンが鳴った。
国家権力の緊急車両が近付いて、
彼は再び回転する赤い部屋の中にいた。目眩しながら彼の部屋は高速に回転した。

赤橙の目眩の中で、彼は幻覚を見た。
死んだ同僚の真壁が社内で嘲笑されている。
罵倒される。
怒号と叱責を受ける。
彼だけに終わらない残業が課せられる。

「私は自身の劣った能力と生理的嫌悪感の生じる容姿によってこの度取引先であるOX石鹸株式会社の受付嬢に過度の嫌悪感を生じさせ、また同嬢がそのために数日間出勤が出来なくなるPTSDを発症し、OX石鹸様の業務継続に困難を生じせしめ、関係者の皆様に多大なるご迷惑をお掛けした事を陳謝すると共に、私の低能と不細工が当社樹海パームの名前を汚し……」

全体朝礼で真壁が始末書を読み上げさせられる。社員達はそれを無表情に聞いた。

真壁はビルから落ちて、彼の油糧たる肉体は破裂し、アブラヤシの赤い精油がアスファルトに吸い込まれていく。

夕闇に沈む雑踏に鴉が鳴き喚いていた。黒鴉の啼哭で視界が黒く染まっていく。

その黒斑の視界の中に起つ島田。彼が、何か、喋る。その声が沢渡には分からない。黒鴉が喚くので、聞こえない。啼哭が反響して、視界が黒染に侵される。

「……と……で、……XXXX」

島田の呟きが黒染の間隙から僅かに覗く。
沢渡は幻覚の島田の唇を注視した。

「僕と君で赤木を殺してしまおうか?」


と、屋上で島田は言った。
「何の話?」
沢渡は言った。
「赤木は死んだ方が良いと思わない?」
と、島田は言った。
「思わない、人を害することは良くない」
沢渡は言った。
「もうこんなに沢山殺しているのに?」
島田は言った。

沢渡は。

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突然の記憶の甦生に沢渡は驚息を呑んだ。
見れば部屋は赤橙を回転させながら離れていく緊急車両の残照が引いていく所であった。

「赤木を殺す?」
赤橙が引いて部屋はランプシェードから広がる柔らかな間接照明の、平素の沢渡の部屋に戻った。
鏡の中では似合わない国家権力の制服を着た沢渡が血色の悪い顔相で佇んでいる。
彼の手には黒鉄の拳銃が握られている。
沢渡の伴侶が静かに彼を見つめている。
首を落とした鋭利の切断面が血色シリコンによって艶色に光っていた。

沢渡は島田の言葉を反芻した。
島田は赤木を殺すつもりなのだろうか?
もし沢渡が手伝わなかったとしても?
もし赤木が死んだとして、島田は事実を知る沢渡を口を封じようとするだろうか?

沢渡は掌中の黒鉄を持ち替えた。其れは冷たく黒く重厚であった。

それならば。
沢渡は考えた。
この銃弾は誰に撃つべきなのだろう?

沢渡は鏡を見た。
花嫁の傍らでみすぼらしい貧相な男が拳銃を握っている。

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再び、樹海のプランテーションに視察に行く日が訪れた。

早朝の事務所に沢渡は一番に到着し、珈琲を淹れた。
コーヒーメーカーの中で電熱線が水を沸騰させて、珈琲豆に滴下する。
熱帯夜の明けなんとなづむ未明の事務所の隅端に珈琲の香りが漂っていく。

実の所、この数日に限っていえば沢渡の生活は平和であった。

島田はあれ以来、不穏な事は言わなかった。もしかしたらあの屋上での発言は沢渡の神経衰弱が見せた幻であったのかもしれない。赤木もまた彼なりの作法で比較的静かに、粛々と仕事をこなしていた。

不思議と死んだ真壁の死体は誰にも見つからず、巷間のニュースに上る事は無かった。

沢渡の部屋の花嫁は以前として艷容であった。彼女は淑女らしく毎朝、沢渡を見送り、毎晩仕事に疲弊する沢渡を出迎えるのであった。

沢渡にとっては全てが調和した日々で、このような日々がずっと続けば良いのにと願ってやまない。

彼は珈琲を彼のカップに注ぎ、一口を飲んだ。ローストされた珈琲の深みのある苦味に豆の持つ酸味が加わる芳醇に彼の味覚嗅覚が満たされていく。
彼は大きくため息をついた。

予定通り、集合時間の10分前に赤木と島田が出社した。あとひとり、新人の上野が来る筈であった。

5時55分。

「賭けようか?」
赤木が言った。

「上野が来る時間について」
「良いですよ」
島田が言った。
「何を賭けますか?」
「今日も報告書かな」

全くいつもと同じ光景であった。繰り返し繰り返し紡がれる穏当の日々。

「5時58分」
「俺は6時1分」

次は沢渡が答える番だった。

「体調不良で休むという連絡が6時丁度に来ます」
沢渡は言った。

5時59分。
上野は現れない。
「珈琲を貰っても?」
赤木が言った。
「どうぞ」
沢渡が言った。珈琲豆は沢渡の私財であった。彼らは分け合いながら暮らしているのだ。

6時00分。
集合時刻となった。
赤木と島田は雑談をしながら、扉の外側の廊下に耳を傾けていた。
熱帯の啾々と地面の鳴る音が聞こえるばかりで上野が到着した気配は無かった。

6時01分。
島田の予想は外れ、沢渡の予想も外れた。
赤木と島田は彼らの樹海の象園が地方自治法第244条施設として一般開放されることについて話をしていた。

6時02分。
上野は未だ来ない。赤木の予想も外れた。

6時03分。
小雨が降り出していた。

6時04分。
沢渡が珈琲を飲み終えた。

6時05分。
島田が上野に電話をした。
電話は繋がらない。

6時06分。
赤木が舌打ちをした。

6時07分。
再び島田が上野に電話をした。電話は繋がらない。

6時08分。
今度は赤木が上野に電話をした。電話は繋がらない。

6時09分。
とうとう誰も喋らない。

6時10分。
赤木が言った。
「出発しよう」

三人の乗った車が数時間をかけて樹海に向かった。

終始、彼らは無言であったが、恐らくそれは彼らが互いに分かり合えない事柄を考えていたからだった。

時折、彼らは流れているカーラジオに耳を傾けて音楽の事について話し合った。
彼らは古いロックミュージックが好きだった。寡黙な彼らに変わってラジオ番組は延々とロックミュージックを流した。

樹海の農園に着くと、象園の園長に着任した男が彼らを出迎えた。

浅黒く日焼けした男で麻のシャツを着て麦わら帽子を被っていた。沢渡はこの男を見たことがない。
聞けば地方官僚の天下りであった。象園が地方自治法第244条施設として認可される為に尽力をした人物らしい。慇懃無礼が鼻についた。沢渡ら実務を担う底辺の社員を鼻から馬鹿にしている様子が窺い知れた。

だがそれを赤木も島田も気にする様子は無かった。

象の園長は園内をバスに乗って案内した。先日とうってかわり象園は熱帯雨林を開拓して整然と整備されていた。
この園内には象や数種類の猿が暮らしている。

「危険は無い?」
赤木は聞いた。
「無いよ」
園長は言った。

園内は熱帯雨林に設置したスピーカーからファミリー向けの音楽が流れ始めた。以前の象園には無かった趣向だ。
樹上の猿たちが不穏に騒いだ。

「象がいましたよ」
園長が言った。
バスが走る車道の脇にゆっくりと体躯を揺らす象がいた。バスは道路に沿って象のすぐ傍を通り過ぎようとした。

「危ない」
島田が言った。
象はバスが近付くと、頭を下げてバスの横腹に突進した。簡単にバスは横転し、赤木たちはバスから放り出された。
象は鼻を使って倒れたバスをもう一度押して、更に一回転を加えた。
象が荒ぶっていた。

沢渡らはバスから放り出されたが幸いに怪我は無かった。
「暴れ象だ、どうして園内に」
島田が言った。

象のオスは一年に一度の周期でマストと呼ばれる状態になる。
こめかみの腫瘤の裏側にある側頭腺から黒い液体が流れ続け、常に狂瀾の状態となる。苛立ちの余り目に付いた生物のすべてに襲いかかる。それは同族たる象種にも容赦しない。オス象は定期的にこのような凶暴性を有するので象の集団生活の中には暮らせない。野生の象はメスと子どもだけで群れを作り暮らしている。オスは通常群れから離れて一人で暮らす。暮らせないのだ、他の象達とは。抗い難い衝動が彼ら、オス象を突き動かすので。

オス象を象園に入れてはいけない。象園を運営する現地の人々なら誰でも知っている常識だ。

かつてのインドにはテロ組織の精神的支柱となる人物の名前が冠された象がいて、彼は2年間で27人の人間を殺した。象を怒らせたらその人間はもう助からない。何処までも追いかけられて、踏みつけられて殺される。

通常、マスト状態のオス象であっても不用意に近付かなければ危険は無い。が、園内に流れる音楽が彼らを苛立たせた事、そこにバスが至近距離を通りがかった為に象が怒ったのだと思われる。

「助けて」
園長が言った。
沢渡は園長に駆け寄ったが、彼はバスの下敷きになっていた。
象が再度、バスに体当たりして園長の肉体はその衝撃で寸断された。

沢渡らは木に登った。
下を見ると寸断されて断絶魔の悲鳴をあげている園長が象に踏みつけられていた。象は苛立ちをぶつける事に容赦がない。
園長の不幸は象に索敵された事だけだった。苛立つ象の視界に園長が入った。それだけで園長は象の標的となった。象に善悪などない。原初の衝動にその身をおもねるだけだ。
園長はもう何も喋らなかった。寸断された上に何度も踏みつけられて、圧壊して死んだのだ。

赤木と島田と沢渡はそれを木の上から見ていた。

園長が微塵も動かなくなり、象は園長に興味を失くしたようだった。象の苛立ちは次に沢渡らに向かった。象の体重は5トン。体重をかければ大木すらなぎ倒す。
沢渡らの登った木が大きく傾いだ。姿勢の均衡を崩して、島田が落下しかけた。沢渡はそれを目にした。だが沢渡は沢渡自身が落ちまいと必死であった。必死で幹にしがみついた。手を伸ばす事など出来ない。度重なる衝撃に沢渡すら落ちるのは時間の問題であった。
かろうじて赤木が島田を支えた。だが、それが何の意味があるだろう。象にとっては周囲にいる全ての生き物が憎しみの対象になのだ。こめかみの側頭腺からは憎悪の象徴である黒い液体がとめどなく流れた。このような巨大な生物が明確な殺意を持って襲いかかる時、人間は全く無力だ。

樹木は巨象の体躯による振動で直に倒れる。沢渡は死を覚悟した。
象に踏まれて死ぬなど凡そ想像だにしない死に様だった。
沢渡は自分自身がもっと非業めいた、悲劇的な、英雄的な死に方をすると思っていたが、彼の死因は象、だった。

沢渡が死を覚悟した時、象は急に意欲を失くした。急激に体熱が冷めて沢渡らに興味を失くした。
樹木に体当たりを続ける事で苛立ちが治まったのだろうか。
象らしい緩やかな足取りで暴れ象は森林に帰った。

傾いだ樹木にしがみつきながら、沢渡らは拾われた命を胸に抱えて呆然としていた。それから、誰となく笑いが零れて彼らは樹木の上の不格好な姿を大いに笑った。

「象だってさ」
沢渡は言った。一瞬間前まで沢渡は象に殺される事を覚悟していたのだ。死因が象である事を覚悟していたのだ。

「象!」
島田も赤木も笑った。

三人を取り巻いた今朝からの錆びた丁番のような雰囲気が漸く解れた。三人は以前からの親友のように笑った。確かに三人には死線を超えた事の連帯感が生まれていた。

暫く笑い合って、笑う事に少し疲れて三人は黙った。
沢渡は風が熱帯雨林を揺らす葉擦れの音を聞いた。
他には何の音もしなかった。

「上野を殺しただろう?」
赤木が言った。
沢渡は赤木を見た。真っ直ぐに島田を見つめるその目が笑っていなかった。
一瞬間前の、安堵と三人を繋いだ連帯感が急速に冷えた。

「いいえ」
島田は言った。
いつものように笑っていた。
その笑顔が贋物なのかどうか沢渡には分からなかった。沢渡が分かっているのは島田が沢渡の友人である事と、その島田が赤木を殺そうとしている事だった。
そう島田は赤木を殺そうとしている。もし、島田が赤木を殺すタイミングを見計らっているなら、今がチャンスであることは間違いない。赤木を殺して、象のせいにすれば良い。目撃者はいない。

また沢渡は考える。赤木は島田が上野を殺したのだと糾弾した。もしそれが真実なのだとしたら?

沢渡はどちらに加勢すれば良いのだろう。来るべき瞬間に備えて沢渡の心臓は大きな拍動を繰り返した。

風が止んで、熱帯雨林は静寂に包まれた。

「そうか」
赤木が言った。
「ええ」
島田が言った。

それでその話は終わった。赤木が何をもって島田が上野を殺した事に疑念したのか理由は語られなかった。

三人は来た道を歩いて戻った。途中、死んだ子象を鼻で撫でる母象を見た。
先程の暴れ象が子象を殺したのかもしれなかった。

「可哀想に」
赤木は言った。

農園の事務所に戻り園長が暴れ象に殺された事を伝えると事務所内は騒然となったが、三人にとってはあまり関係の無い話であったので、彼らは視察を終えて職場に向かった。

結局、島田は赤木を殺さなかったし、沢渡にそれを頼むことも無かった。沢渡は象に襲われた時に木から落ちかけた島田を赤木が助けたのを見ていた。
沢渡は何も出来なかった。見殺しにしたのだ。赤木は果敢に島田を守ったというのに。

「こんなに沢山の人間を殺したのに?」
とあの時、屋上で、島田は言った。その通り、直接手を掛けずとも沢渡は沢山の人間を見殺している。沢渡は無自覚殺人の虚無の中に暮らしている。沢渡が見殺した人間は幾人に上るだろうか。連続殺人鬼と呼ばれても相違無い程に彼は多くの人間を見殺した。だが、それがどうしたと沢渡は思う。お前らは、皆同じだ。俺と同じく皆が等しく沈黙の連続殺人鬼なのだ。
いいや、俺よりももっと性質の粗悪な連続殺人鬼が諸兄らなのだと彼は思った。

行き道とは翻って、穏当の雰囲気で赤木と島田と沢渡は会社への道程を走り続けた。
途中、彼らは小諸のサービスエリアに寄って蕎麦を食べた。蕎麦の実の素朴の味わいが活きてふんだんに使われた鰹だしともろみの香ばしさが滋養のある味わいだった。セットで天丼が付いた。美味であった。人類の、少なくとも沢渡の生きる事を肯定するかのような。

食堂のテレビがニュースを伝えた。美人画商生首殺人事件被害者の父母が、事件以降メディアで未だ逮捕されない猟奇殺人者に悲憤慷慨を訴えていたが、今度はその父母が何者かに殺害されたのだとニュースは報じた。
北都で起こる連続殺人事件に人々は恐怖している、と街角を歩く人々にテレビクルーがインタビューをしていた。
ちょうどテレビ画面には株式会社樹海パームの近くが映った。

「会社の近くだ」
赤木が言った。
「ちょっと看板が映ったんじゃないですか」
島田が言った。

穏当に彼らは帰路を辿って会社に着いて解散した。報告書は島田と沢渡で作成した。特に園長が象に踏み潰される場面は、園長の最後の言葉、象に幾度も踏み潰されながら発した音声「 オオオオオオ」の語と彼の死について克明に記載するよう試みた。
リアリティが半歩足りないと、沢渡は思ったが報告書の仕上がりに島田は満足したようだった。

会社を出る頃にはすっかり深夜であった。

沢渡は帰宅のために彼の自家用車に乗った。
彼は今日一日の事を考えた。
島田が安易に人倫を踏み外す事を阻止した。彼は平和を勝ち取る事に成功したのだ。
彼は胸元の拳銃を握った。拳銃の重量も冷たさも変わらない。彼は当初、拳銃を革命の道具であると思っていた。世界の変革のためには拳銃がなくてはならないと思っていた。だが彼は拳銃など使わずにひとつの悲劇を回避した。平素の意気地のない彼であれば、彼はこのような偉業を達成することは出来たかったかもしれない。拳銃を所持する事で精神が補強された結果であるかもしれない。つまりは武器の平和的利用だ。
彼は高揚した。
そうだ、俺は平和の使者だ、英雄だ。
彼は誇らしさの余り、破顔し、かかと笑い声をあげた。

そして英雄たる彼は、彼の凱旋を部屋で待ち侘びる嫣然の花嫁について考えた。

「ドレスを買おう」
彼は突然思い立った。そしてその思考は雷撃となって彼に落ちた。考えてみれば、彼が花嫁を迎えてから彼女は常に花嫁姿なのであった。そうだ、服だ。人間の根幹は衣食住であった。彼は全く配慮が欠けていた。英雄の伴侶にふさわしいドレスを買おう。

彼は車を停めてドレスの店に入った。夜の女達のためのドレスショップは間もなく店を閉める所であった。

「ドレスだ!」
彼は言った。
「サイズは?」
店員は言った。
難問であった。予想外の問いに用意された答えが無い。だが彼は英雄であった。苦難こそが彼の進む道であった。
彼は身振り手振りでサイズを伝えた。
店員は怪訝な顔をしながらも彼に豪奢なドレスを与えた。
「お支払いは?」
店員は言った。
「キャッシュだ」
彼は言った。

店から出て彼は再び車に乗って颯爽と家に帰ろうとしたが、その時天を割るような警笛が鳴った。
彼は驚いて停止した。
運転席の彼に近付く者があった。若い国家権力である。
「見た事がある奴だ」
彼は思った。
以前、彼に声を掛けた不遜の若い国家権力であった。確か、その時は老年の国家権力も同行していた筈だが、若い国家権力は一人の様子だった。

「ここは駐停車禁止だ」
若い国家権力は言った。
「もう出るよ」
沢渡は言った。
「違反だ」
若い国家権力は言った。
「免許証を出せ」
若い国家権力は沢渡に違反を申し渡し、道交法上の処分を加えるつもりらしかった。
「まさか」
沢渡は言った。
「ほんの少しだ」

「違反は違反だ」
若い国家権力は言った。譲歩も交渉も情状酌量も無い。そこにあるのは権力だけだった。およそ人間らしからぬ権力の象徴を前に沢渡の血圧は上昇し、電熱線が血液を沸騰させたかのように体熱が上がった。血液の沸騰が極点に達した時、彼の思考は空白となった。

「助けて」
若い国家権力は言った。
だが沢渡は容赦しなかった。譲歩も交渉も情状酌量も無い。沢渡は淀みなく黒鉄の銃爪を引いた。

破裂音がして、その音響が鎮まった後に彼の嗅覚は火薬の匂いを嗅いだ。
眼前に斃れた国家権力の象徴は、いつの間にか月並みな人間の死体に変わっていた。

彼の周囲に国家権力達が集まってきた。
次々国家権力の特殊車両が到着し、彼を赤色灯で囲んだ。彼は回転する赤い目眩の軸芯であった。

彼は部屋の中で彼を待ち侘びる花嫁について考えた。花嫁は国家権力によって押収され、彼らの手で蹂躙されるに違いない。肉体の所有者たる彼が、猟奇殺人事件の犯人にされ、事件は解決となるのだろう。このような結末を彼は望んだ訳では無かった。だが彼に何が出来ただろう。
彼に出来る事など、樹上から落ちないように必死にしがみついている事しか無い。

国家権力達が彼に向かってニューナンブ式の拳銃を構えた。

彼は腕時計の時刻を見た。
0時23分。




(了)

短編小説「椰子林の象」
(22,200文字)
初出2023.02.28

#小説 #ネムキリスペクト #黒山羊派 #こんなもの頼んでないけど