短編小説「豚人間」

俺は何故、生まれたのか。

俺は、生まれた時から豚人間だった。真っ当な存在ではない。いや、其うでは無い。もし、俺の他にも豚人間がいて、そいつらと競い合ったら、きっと俺は真っ当な方だ。頭も体も、きっと顔だってそこそこだ。

豚人間の女が俺に恋をして、俺達は結婚して豚人間のベイビーを作る。
ベイビーがヨチヨチ歩いてさ、俺を見上げるんだ。ブーッ!俺はベイビーをあやす。鼻を鳴らすのが得意だ。ベイビーがフゴッ、フゴッ、ブフウ、ブッフ、フゴッと笑う。そんな幸福があったに違いない。

だがな。

豚人間は他には居ない。俺は生まれ落ちてからタッタ独りの豚人間だった。人間の友達は一人だけいる。アーサーだ。動物園で飼育員をしている。彼は優しい。

おっと!待ってくれ。俺は飼われている訳じゃ無いんだぜ!俺は飼われていない。自立している。俺たちはルームシェアをしている。詰まる所、彼は俺のルームメイトだ。アーサーはよくご飯を呉れる。だが、それは俺の家事行為に対する対価であって、飼育じゃない。アーサーは忙しく、家にはあまりいない。動物園に泊まり込むことも多い。家事は専ら俺の役目となっている。彼の衣服も洗濯するし、彼の部屋も掃除する。食事も俺が作っている。その代わり、アーサーは部屋代を支払い、生活上の経費は彼のクレジットカードを使っても良い。俺には十分過ぎる待遇だった。なにせ、俺は豚人間なのだから、真っ当な部屋に住むことも難しいんだ。俺の記憶は半年前に遡る。俺は住む所を探していたが、不動産屋の奴らは俺が臭いからと賃貸を断りやがる。豚人間は住所を持つことも難しかった。だが、アーサーがいてくれて良かった。不動産屋にアレコレ言って、丁度良い部屋を見つけてくれた。彼の好意を飼育だなんて呼ぶ輩がいたら、俺はそいつの髪の毛を食べる。
他に友達はいない。


俺は養豚場で働いている。所長の名前はベッカーマンだ。豚みたいな奴さ。傲岸で意地汚くて花粉症でいつもブヒブヒ言っていやがる。ハッキリ言って嫌われ者だ。奴は時々豚小屋に来ては豚共を蹴り飛ばしている。お陰で豚たちは人間を毛嫌いしていて、俺まで敵視されている。
ブーッ。
俺が近付くと奴らは鼻を鳴らして威嚇する。奴らの武器は硬い鼻先と牙で、俺を見ると突進してくる。百キロの巨魁が獰猛に突進するのだ。俺の前の豚係は突進されて骨砕かれ肉が削げ、重篤の怪我を負って気息奄々生死の境を彷徨って職場を辞した。豚共の相手は時に危険を伴うのだ。

昨日産まれたばかりな子豚がいて、この豚だけは俺によく懐いた。
この年の春に豚舎の生殖豚は十三頭の子豚を産んだ。そのうちの一頭は圧死した。残りの十二頭は生殖豚の乳房に並んで乳を飲んでいる。生殖豚は三歳になったので、これが最後の出産になるだろう。役目を終えた生殖豚は「と」されることになっている。肉質が落ちているので加工食品専用の「と」になる。生殖豚から生まれる肉豚たちは生まれておよそ半年で出荷され、「と」される。半年でこの子豚たちは頑健に育って百キロの肉塊となる。「と」された枝肉は部位に分けられてラベルが貼られて肉屋で売られる。乳を吸って子豚たちは眠った。十二頭のうちの四頭が雄であった。

夜に。
俺は子豚を抱き上げた。

俺に懐いた子豚に俺はボニーと名前を付けた。
ボニーの、産毛の生えた滑らかな皮革に血脈が通い、肉塊の核たる心臓が温かく拍動していた。彼らは無辜の眠りの中にあって原始の夢を見ているのだろう。
俺はボニーの体を仰向けに固定した。彼らの小さな陰嚢を切って、中に納まっている睾丸を取り出して切除した。

ボニーは哭いた。そして鼻先を振って暴れた。
俺の指が血に塗れた。
雄豚は肉が臭くなるから生殖器が育つ前に去勢をしなければならない。
止血してやろうと、ガーゼを手に取った。

  ピギィ。
俺は啼いた。振り返った。
酔っ払ったベッカーマンが豚と間違えて俺を蹴ったのだ。

「何をする!」
俺は言った。
「ピギィ」
亦た蹴られて俺は啼いた。
ベッカーマンは豚を蹴ろうとしたんじゃなかった。蹴らんとして俺を蹴っているんだ。

「豚人間め」ベッカーマンは唾を吐いた。
「豚人間だ!」俺は叫んだ。
「悪いか!」俺の反論は虚しかった。
何故なら俺は紛う事なき豚人間だったから。
豚は売り物になる。だが俺は?俺は何になる?
俺は何故、生まれた。
食肉にもならず、人間共からも豚からも忌み嫌われた。

神よ!
俺の神よ。豚人間の神よ。この哀れな豚人間を救い給え!
だが、原始より豚人間などいないのだ。
だから神もいない。
俺が祈る事が出来る神など。

--------------------------------------

「神など無用だ」とアーサーは云う。
「もし神様なんてものがいて、それは何の役に立つんだ?神様が給金を払ってくれるのか?」
「いてくれるだけで良いじゃないか。」
ペペロンチーノを作りながら俺は言った。フライパンを新しくしたので、火加減が良い。ガーリックとチリペッパーがオリーブオイルによく馴染む。
もし豚人間の神様がいたら、神様は俺を憐れんでくれるのだろうか。優しい言葉を掛けて人生の労苦をねぎらってくれるだろうか。
愛玩動物を愛でるように俺の頭を撫でるだろうか。

ペペロンチーノが出来上がって、大皿に盛りつけた。
それからサラダとパスタとスズキのムニエルを食卓に並べた。
アーサーは神に対して簡素に祈った。俺はそれを見ていた。

「またスズキのムニエル!」アーサーは言った。
「今週三度目だ。」
毎度の食事は俺が作っていて、アーサーは何もしない。
「どうしてスズキばかり買ってくるんだ。」
アーサーは言った。
「好きなものが買えるだろう?」
食材料のお金はアーサーのクレジットカードが払っている。
俺は畜舎で働いているが、吝嗇のベッカーマンが給金をけちるので、俺の財布には1000リベルも入っていない。生活の費用面はアーサーに依らざるを得ないのだ。
繰り返し言うが、俺は飼育されてる訳じゃないんだぜ。

飼われる、という事は人生の選択を放棄するという事だ。人間は自由だ。もちろん豚人間だって自由だ。なんだってできる。今から山に登ることも出来るし、深海だって月面にだって行ける。そうした選択肢を放棄して盲目に生きる事が飼われるということだ。

豚たち。奴らは明日の我が身の事も考えない。生まれて半年後、彼らに待ち受ける「と」を考えない。豚舎で出産されて、出荷され、「と」される商品としての生。その将来を彼らは知らず、甘んじて飼育されている。

俺は違う。将来の事だって多少は考えている。カリブに移住して波に浮かびながら太陽の光を浴びたい。サンオイルで日焼けしたい。例えばテレビに出て、仲間に呼びかけたい。世界中の何処かに他の豚人間がいる。きっと、いる。どこかに豚人間の国があるんだ。そうでなければ、俺はどうして此処にいるんだ。俺は屹度、豚人間の国から空穂舟に乗って漂流したのだ。

俺は過去を思い出せない。一番古い記憶は半年前にアーサーと一緒に部屋を物色した時のものだ。それ以前の俺が何処で何をしていたのか、思い出せない。
「豚人間は劫初爾来、俺独りである」、俺は其れを知っているが、何処かに仲間たちがいるのだ、という希いもある。他の星の住人だって構わない。宇宙の果てにもし豚人間がいるのなら、俺は彼らを神と呼んだって良い。屹度、俺たちは良い友達になれる。

俺はペペロンチーノを食べるアーサーに夢を切々と語った。
アーサーは言った。
「俺は君の事が好きだよ」

それからアーサーのモバイルフォンに電話がかかってきた。きっと動物園からだ。アーサーは電話で難しい事を話している。アーサーの仕事の話は俺には理解ができない。

------------------------------------------------------

ベッカーマンに蹴られた俺は豚糞の中に沈んだ。子豚が弾かれて飛んだ。弾かれた豚が啼いた。

プーウィー!

豚たちが怒って俺に突進して、俺の脇腹を抉った。俺は衝撃によろけて倒れた。豚たちは騒然としていた。混乱した豚は其処らに目盲に突進した。お互いに衝突して倒れて更に混乱は広がった。子豚たちが幾匹か踏まれて、倒れた豚の下敷きになった。

この状況を何とか収拾せねばならなかったが、俺は脇腹を痛めて起き上がれなかった。
ボニーも他の子豚同様に混乱から逃げ惑っていた。ボニーはまだ小さい。100キロを超える大人豚の下敷きになったら全身が砕けて死んでしまう。
俺はボニーに手を伸ばしたが、ボニーはその手からも逃げて、扉の隙間から逃げてしまった。

俺はなんとか起き上がり、ボニーの後を追いかけようとした。

「おい」
ベッカーマンが俺の肩を掴んだ。
「何処に行くんだ」
俺はベッカーマンをぶん殴ってやった。

「助けてくれ」ベッカーマンは叫んだ。
「豚人間に殺される!」

農場の人間共に猟銃で追いかけられる前に、俺はその場から逃げ出した。

ボニーを捕まえるんだ。

俺は空を見上げた。
俺は夜の空がこんなにも頼りなく昏い事を初めて知った。
塵芥よりも小さな星が、瞬いて揺れていた。

「アーサー」
俺はアーサーに電話を掛けた。
「ボニーが逃げてしまった。追いかけなくっちゃ。」

アーサーはすぐに来てくれた。
俺たちは暫く周辺を探したがボニーは見つからなかった。
川で溺れてしまったんじゃないかと俺は心配になった。悪漢に捕まって売られてしまうかもしれない。精肉されてしまうかもしれない。子豚を炙って皮を食べる人種だっているのだ。

俺たちは夜の川原を暫く歩いた。川向うに街明かりが見える。その光を川面が反射していた。浩然泰斗に滔滔と水が流れていた。
明かりに導かれる夜虫のように俺たちは街に出た。

夜街では人間の男共女共がネオンの中で浮かれていた。一体何がそんなに楽しいのか。何奴も酔って哄笑していた。

路地裏にマダム・チコリの店がある。ドアを開くとガランとベルが鳴った。客は誰もいなかった。

「あんた、また来たの?」マダム・チコリは言った。
「駄目かい?」
「あんたが来ると臭いが消えないんだよ。」マダムは言った。

「頼むよ、マダム」
俺が何かを答える前にアーサーが言った。
「特別料金を頂くからね」
「分かったよ。」
「それから、他の客が来たらすぐ帰って頂戴よ」
「ああ」

俺たちはカウンターに並んで座った。
「トウモロコシ酒をくれよ」俺は言った。
「ホホホ」マダム・チコリは笑った。
それからトウモロコシ酒のロックを出した。アーサーはミルクを注文した。

「ボニーは何処に行ったんだろう」俺は言った。
「そんなに遠くに行きやしないさ」アーサーは言った。
「仕事は忙しい?」俺は言った。
「まあね」アーサーは言った。
「動物たちは元気?」
「まあね」アーサーは言った。

飲み終える前に仕事帰りの男達が店に入ってきて、俺を見るなり顔を顰めた。俺達はマダムから追い出された。トウモロコシ酒をまだ飲み終えていなかったが、料金はキッチリ割増で取られた。
たった少しのトウモロコシ酒で俺は酩酊して街を歩いた。

「暴れてやる」俺は言った。
「やめろよ」アーサーが言った。
「ブヒイ!」俺は走りだした。
アーサーを置き去りにして。

ブヒブヒ、ブヒブヒィ!

俺は吠えた。
月に向かって。
猛っていた、俺の中の野生の血が。

「この街を恐怖のどん底に突き落としてやるのも悪くない」
何故なら俺は豚人間だから。
俺は居ても立っても居られなくなり喚きながら一等高層のビルヂングの屋上に上った。街を見下ろしてやりたかった。脱糞したかった。街中が俺のクソ塗れになれば良い。
俺は今、当に暴力の化身であった。

「何故なら俺は豚人間で、俺には神も、悪魔もいないのだ!」
屋上の、鉄扉を開くと赤い満月が、そのゲッコウが俺を貫いた。ゲッコウが心臓を貫いて、俺は一瞬、怯んだ。チクチクと皮膚が疼いた。
だがもう俺に怖いものなどありはしない。俺は一歩前に踏み出した。全身が赤く染まった。まるで精肉されたようだった。

野生が、血が!
俺が!

俺は堪らなくなってパンツを脱いだのだ。
俺の尻尾が屹立した。
準備は万端だった。豚人間として呪われた生を受けて、人間からも豚からも忌み嫌われて育った俺は今日も人生の疲弊をアルコオルで洗い流そうと街場の飲み屋に入ったが体良く追い出され、人間社会て生きることに改めて悲憤するのであった。かくなる上は俺は豚人間の悪魔となってこの世の人間と豚に復讐する事を決心し、摩天楼の高みから己の糞尿をネオン煌めく夜街に撒き散らす事を決意したのだ。

だが。
しかし。

コンクリートに映った影が。
「待ち給え」と言った。

俺は赤光の中に揺らぐ影に対峙した。

「待ち給え」影は言った。
俺は考えた。
変だぞ。影が喋っている。
赤い満月の晩には影が喋るのだろうか。
俺は知らない。

俺は尋ねた。
「もしかして神様ですか?」

「そうだよ」影は応えた。
「人間の神様ですか?豚の神様ですか?」
「豚人間の神様だよ」
「俺の神様ですか?」
「そうだよ」

ピギイ。
その時、豚の鳴き声が聞こえた。
ボニーの鳴き声だった。
俺は亦た、影をみたが、それは既に平面的なただの豚人間の影だった。

屋上の、貯水塔の裏側で若者たちがホームレスを蹴飛ばしていた。
ホームレスが悲鳴をあげた。

ピギイ。
鳴き声が聞こえた。

若者たちが哄笑した。何がそんなに可笑しいのだろうか。女も混ざっていた。酔っていた。ネオンが光って彼らを赤に、緑に染めた。

すり鉢状の社会の、最底辺における弱肉強食に。俺の血は無性に滾った。
俺は鼻先に力を込めて突進した。若者を突き飛ばし、ついでにホームレスも突き飛ばした。

げぶう。
ホームレスが呻いた。

人間どもめ!全身を充血させて、俺は喚いた。
喰らってやろうか!人間どもめ!

若者たちが逃げ出して、ホームレスは仰向けに転がった。ホームレスが腹に抱えていた動物が鳴いた。

ピギィ。

ポニー!

ホームレスの奴め、迷子のボニーを庇護したのか、売るのか、或いは食べるつもりだったのか。迷子のボニーは、ホームレスの手から逃れた。
可哀想なボニーはすっかり怯えていた。俺は鼻を鳴らしてボニーを呼んだ。だが、会話は通じなかった。俺は豚語を知らないし、ボニーは俺の言葉が分からない。ボニーは屋上の階段口に向かって脱兎の如く逃げ出した。

待ってくれ!
俺は叫んだ。

階段を駆け下りたら転んでしまう!
でもボニーは待ってくれないから、俺はボニーを追って走り出した。

そのボニーの行く手を遮って、抱えあげた男がいた。
アーサーだった。

「ああ、アーサー!良かった、ボニーを掴まえてくれて。」俺はアーサーに駆け寄った。暴れて息が切れた。
「暑い!」俺は開襟して胸元を扇いだ。
ボニーもアーサーの胸元で小刻みに震えていた。
「さあ。おいで。」俺はボニーを撫でた。
「俺の部屋で一緒に暮らそう」

ベッカーマンを殴ってしまった俺には帰るべき職場がない。それにボニーを農場に帰す気にもなれなかった。農場に戻ればボニーは半年後に「と」場に出荷される。たった半年だ。そのために豚共は産まれるんだ。生殖豚に種付けして「生まれさせ」られるんだ。だって仕方ない。食肉にする目的以外で彼らを殖やす畜舎主などいないんだから。もし、彼らの人生に選択というものがあるならば、生まれ落ちて肉となるか、肉とならずに生まれないか、其の二択だ。豚の寿命は15年以上あるにもかかわらず、彼らは半年で断末される。
だって仕方ない。畜養とはそういうものだ。

俺はアーサーからボニーを受け取ろうとした。
だが、アーサーはボニーを手放そうとしなかった。
「順番が来たんだ。」アーサーは言った。
「順番が」アーサーは言った。

「なあ、アーサー。ボニーを渡してくれよ。」
俺はアーサーに言ったが、アーサーは返事をしなかった。
「なあ、クロール」とアーサーは俺の名前を呼んだ。
「旅行にでも行こうか」
「何の話?」
「旅行にでも行こう」
「ボニーは一緒に行けるの?」
「ボニーは駄目だ、豚だから」
「じゃあ行けないよ、ボニーの世話をしなくちゃ」

俺がそう言うとアーサーはボニーを放り捨てた。
「ああ!ボニー!何をするんだ!」
「順番が来たんだ!」
「何の」
アーサーは懐に手を入れた。その仕草は映画の中で悪漢が銃を取り出すシーンに似ていた。

フゴ。
俺は緊張して思わず鼻が鳴った。産毛が逆立ち血の気が引いた。
だが、アーサーが懐から緩徐に取り出した其れは銃でない。

「注射器?」
「なあクロール、お前は自分が何者か考えたことがあるか?」
「俺は豚人間だ!」
「そう。じゃあ豚人間とはなんだ?」
「豚人間は豚人間だ。」
「そんな種族があるのか?お前は豚人間の父母から産まれたのか?」
「覚えていない。俺は記憶喪失なんだ。」
「本当に記憶喪失だと思っているのか?お前は一体、自分が何歳だと思っている?」

分からなかった。

「お前は記憶喪失じゃない。」アーサーは言った。
「お前の記憶が半年しかないのは、単にお前が生まれたのが半年前だからだ。」

肉豚は半年で体重が100キロに達する。
「お前は生後半年の個体だ。」

ゲッコウが、アーサーの言葉が俺の心臓を貫いた。その寸毫にボニーは逃げてしまった。
俺の眼球はボニーの尻を見送った。俺は亦た、独りになってしまった。
アーサーは喋り続けた。

「豚の臓器は人間の臓器に似ているんだ。」
遺伝子改良を施して、内臓を欠損させた豚を作り、その豚の受精卵に人間の万能細胞を注入すると、その欠損豚は人間の万能細胞を使って欠損した内臓を再生する。つまり、豚の体内で人間の臓器が作られる。そうして豚の作った臓器を人間に移植する研究が進められている。クライアントの万能細胞を使えば、クライアントの遺伝子を持った臓器が作られる。この方法であれば移植時に免疫が拒絶されることはない。つまり、一頭の生きている豚をクライアント専用の臓器工場にしているんだ。

と、アーサーは言った。

「何の話?」
俺は言った。アーサーの話は難しくて俺には理解できない。
「もっと簡単に説明してくれ」

「ええと、」アーサーは言い淀んだ。
「人間の内臓をね、体の中で育てる豚さんがね、いるんだよ。」
アーサーは言った。
「うん」
俺は返事をした。人間の内臓を体の中で育てる豚がいるのだな。

「そうした豚さんたちはね、運動機能は要らないから、手足はなくて、頭と体だけで生きてるんだけどね。そんな、芋虫みたいな豚さんを飼っている動物園みたいな所があるんだよ。」
「ふうん」
俺は思った。変な動物園だなあ!

「実は、その動物園に暮らしている手足のない豚さんが、お前の兄弟なんだ。」
「そうなんだ」
「つまりね、お前もその動物園で生まれたんだよ。」
「へえ!」
「遺伝子というね、体を作る素、があるんだけど、それを弄って手足のない内臓生成豚を作ったんだけど、何故か人間の手足を持った豚が生まれちゃってね。」
「うん」
「それがお前なんだよ」
「ふうん」
「で、お前の内臓も誰かに提供するための内臓で、その誰かは自分の内臓がお前の中で成熟するのをこの半年、待っていたんだよ。」
「うん」
「でも難しい手術だから、お医者さんが忙しくてね、順番待ちになっていたんだけど、漸く其の順番が回って来たんだ。」
「うん」
順番が来たんだなあ、と俺は思った。

「つまり?」俺は言った。
「つまり?」アーサーは言った。
つまり、どういう事なんだ?

「つまり」アーサーは言った。
「お前は死ぬんだ。」

「えっ?」俺は驚いた。
「死ぬの?」
「そうだよ」アーサーは言った。
「でも」アーサーは言った。
「このお注射をすれば怖くないんだよ」
「そうなの?」
「そうだよ。気持ちよくなってね、眠くなってね。それで全部終わるからね。嫌な事もね。怖い事もね。」
「そうなんだ。」
「だからお注射しようね。」
「分かった」
俺は分かった。アーサーは俺に注射をした。

「ああ、そういえば」俺は言った。
「なんだい」アーサーは言った。
「今日の晩御飯はスズキのムニエルを作ろうと思って、でもソースに使うピクルスを切らしてしまっているんだ。」
「そう」
「買いに行かなくちゃ」
俺の体内を巡る血流が鈍重になって、俺は朦朧とした。ピクルスを買わないといけない。ピクルスを買うなら五番街のスーパーマーケットが良いんだ。あそこは安くて良い酢加減のピクルスが売ってるから。

その時。

アーサーの電話が鳴った。
「アロー」アーサーが電話に出た。
「なんだって!」
大仰に驚くアーサーの声が聞こえたが、俺は眠りに落ちてしまった。

-------

沢山の人間共が並んでいた。多くはペンを携えて何かを必死にメモしていた。何人かはカメラを持って、俺と隣のアーサーとその他横一列に並んで座る知らない人々に向けてフラッシュを盛んに焚いた。

「豚人間に人権が認められたそうですね」人間の女の記者が言った。
「その見通しができた、という事でまだ議院の最終的な可決は得ていません。」アーサーが言った。
「クロンダイクさん、当事者としてどう思われますか?」女記者が言った。
「コメントを下さい!」その後ろにいた若い男の記者が叫んだ。会場は熱気と騒音で雑然としていた。
「豚人間が新たな人類として認められた歴史的瞬間だ!」どこかで誰かが叫んだ。

「畜産業界からは法案の可決に非難の声が上がっています。それについてどう思われますか?」また会場内の誰かが言った。
多くの人間が喚きあっていた。人々の声で頭が痛かった。
「政治的な問題を彼にするのは控えて頂きたい。」アーサーは言った。「我々は研究者だ。政治的に中立を保ちたい。」

「豚人間の誕生はまさにその研究者のエゴイズムに思えますが。」左から三番目の眼鏡が言った。
「そうだそうだ!」別の眼鏡が言った。
「彼の人生に責任が取れるのか!」

「それはどういう意味ですか?」アーサーは言った。
「豚人間は突然変異の個体であって種族ではない。つまり、彼は絶対的に孤独だということです。彼の配偶者は豚になるんですか?人間ですか?それとももう一体、豚人間の雌が生まれるまで非人道的な実験を繰り返すんですか?」

「配偶者は人生に必須ですか?私は結婚していませんが。私の人生は欠落している?」
「それはあなたの自由であって、彼にはその選択肢すらない事が問題だと言っているのです。」

「彼の臓器を待ち望んだクライアントには何と説明を?契約不履行に当たるのでは?告訴準備をしているとの話も聞きましたよ!」

「ああ、時間ですので終了します。」
「まだ何も答えていない!」場内は騒然と紛糾した。
「説明責任を果たせ!」
「クロンダイクさん、コメントを!」
ペンを持つ人々の視線が集まって、俺の皮を焦がすかのような熱気だった。

「ああ、ええと」
席を立つついでに俺はマイクに向かって声を出した。

「ええと」咳払いをしようとしたが、緊張していたため思わず鼻が鳴った。

「ふご」

幾人かの人が話を始めた俺に気付いて押し黙った。それらの人々は隣の人間を肘で突いて黙るよう促した。沈黙が波となって会場に広がり、場内を鎮めた。

「俺は、豚人間だ。人間たちは俺を人間か豚かどちらかに区分けしたいらしいが、俺は人間になりたいとも思っていないし、豚になるのも御免だ。」

つい先頃まで俺は近日内臓を取られて「と」される予定だったが、幸運にも死ななくても良いらしい。豚の寿命は十五年くらいと聞いたから、俺はあと十四年と半年くらい生きていられる。
俺は彼の研究所で生まれたからアーサーの事は俺の父親か神様みたいなものだと思っている。俺は俺を生み出したアーサーに感謝しているし、これからも俺はアーサーと一緒にそこそこ幸福に生きていきたいと思っているよ。

それだけ言って俺は会場を後にした。先に壇上を降りたアーサーが呆気に取られた顔で俺を迎えた。会場の人々も呆気に取られた顔をしていた。俺は何か変な事を言ってしまったのかもしれない。

その夜、アーサーと俺と、あと何人かのよく分からない人々はダンスパーティーに出席した。俺は会場に入る前に風呂屋で念入りに洗われた。

「臭い?」俺は尋ねた。
「いや?」よく分からない人達が答えた。
「どちらかといえば良い匂いだ。産まれたての子豚のような。」

階段を降りて会場に入った。先程と同じようなフラッシュが俺を盲ませた。重低音に響く轟音が耳を塞いだ。

「踊れるか?」よく分からない人々は俺に尋ねた。
「もちろん」俺は答えた。

人間の女たちが何人か俺の周りを囲んだ。俺は踊りながらトウモロコシ酒を沢山飲んだ。
若者たちからオートグラフを求められたのでTシャツに蹄のスタンプを押してあげた。それが周囲に流行して、俺は何度も蹄のスタンプを押した。人間の男たちに。人間の女たちに。

ホールの隅にソファとローテーブルが並んでいて、疲れた俺は腰を下ろした。其処でも何人かの知らない人間に囲まれた。

「ソーセージを食うか?」と俺は聞かれた。周りの女たちが笑った。
「やめておくよ」俺は答えた。
「でも豚肉は嫌いじゃないよ」俺はそう言った。

目の前の酔った男は言った。
「豚は豚肉を食べて育つんだろ?」

肉豚が「と」された後に、売り物にならない内臓や骨などの部位は加熱処理されて豚共の飼料や畑の肥料になる。豚共は与えられた同胞から作られた飼料をよく食べる。そして肥えて、立派に育つ。
豚は「と」によって食肉になり、飼料になり、肥料になって跡形もなく消失する。土に撒かれた豚肥料が、綺麗な花を咲かせることもあるだろう。

「豚肉は嫌いじゃないよ」俺は言った。
「でもいまは気分じゃないからね」

「食えよ!」

酔った男は怒鳴った。
その声は俺の耳に響いた後に轟音に消えた。
「豚め!」
誰にも怒声は届かなかった。俺はアーサーを探した。アーサーは見つからなかった。
何人かの男に羽交い締めされて、俺の目の前にソーセージが突きつけられた。俺は改めて怒鳴っている男の顔を見た。見覚えがあった。ビルヂングの屋上でホームレスを蹴っ飛ばしていて、その後に俺が殴った奴だった。

「悪かった」俺は言った。
「外に連れ出せ!」俺は路地裏に連れ出されて散々蹴られた。

アーサーの友人の一人の、よく分からない奴が、輪の外から俺を見ていた。

「助けてくれ」俺は言った。
「臓器のクライアントが待っているんだ。お前の内臓を。」
その男は言った。
「生きているお前から臓器を取り出すのは無理だとしても、死んで臓器提供するなら問題無いんだろう?」
男はそう言って煙草の煙を吐いた。

「ああ、臓器提供カードを書かせるのを忘れていたな。」男は言った。
「だが、問題ない。後で代わりに書いておいてやるよ。」

「助けて」俺は言った。
「出荷だよ」男は言った。

俺は逃げようとした。背中を力の限り強ばらせて頭を大きくふるった。それで何人かを突き飛ばした。

「あ」
頓狂な声をあげた奴がいた。
最初に俺を殴った奴だった。
俺の牙が奴の腹肉を抉っていた。破けた服を抑えていたが、その隙間に白く肉の断面が見えて、直に鮮血した。

「あ」
周囲の人間が呆気に取られた。見る間に男のシャツは赤く染まった。

「豚め」

男は言った。

その騒動で俺は捕らえられ、反転した国民感情によって豚人間に人権を認める法案は否決された。

---------------------------------------------------------

俺はカリブの海に浮かんでいる。太陽が滾っている。太陽が滾って、俺の身を焦がす。サンオイルを塗って俺の皮革はすっかり日焼けした。波は静かに揺れていた。光礫が反射して、俺を目眩ませた。波の冷たさが心地良かった。このまま、海に浮かんで何処かに見知らぬ島に流れ着くのも悪くない。其処には豚人間が暮らしていて、豚人間の集落があって婚姻して出産をして子供たちは元気に育ち、老人は十五年の寿命を全うする。死んだ豚人間は埋葬されて、近親の豚人間たちは冥福を願って神に祈る。

炭酸ガスで暫し微睡んだ俺は、刹那の間にそんな夢を見た。

そして「と」された。

俺の臓器はクライアントに移植され、その他の部分は食肉となり、骨や肉屑は肥料になる。そんな肥料が美しい花を咲かせる事もあるだろう。

(短編小説「豚人間」村崎懐炉)

#小説 #NEMURENU #ネムキリスペクト #知らなかったんだ