短編小説「雪は降る、夜汽車は進む 月兎夜話」


僕は顰め面して文机に臨み、頻りに有無有無と唸っている。
唸り乍らも気はそぞろで、ペン先を繰る繰る回したり、原稿用紙にうさぎの絵など描いたりして遊んでいる。

「ニンジン大好き!」
とうさぎが言った。

その傍らに人参畑を描いて、うさぎ達が人参の収穫をしている。丸々と太ったうさぎたち。きっとうさぎの村では今夜は人参パーティを行うのだ。人参ペーストを練り込んだスポンジに人参の甘露煮と生クリームをデコレートして、人参のケーキが作られる。
人参のクッキー。
人参のプディング。
人参のサンドイッチ、スパゲティ、ピッツァ。
人参のパーティメニュウが次々食卓に並べられる。その間を子供たちが走り回る。
うさぎ村には古びた工房があって、そこでは老翁のうさぎたちが茹でた人参を砕いたものを酒精で発酵して、後にそれを蒸留する事数度、桜樽の中に寝かせて数年。蔵には年年歳歳の人参酒が幾樽も眠っている。
今宵の酒席には新たな樽が卸されて、老いたうさぎ達は左まいて一献傾けるに違いない。
そうだな、季節は春だ。
その証拠に人参酒を満たしたかわらけに桜の花弁が落ちてくる。
オヤ、コレハ何処カラ。
とうさぎが仰いだ空に月影。
望月に月兎が餅をついている。
ヤア、其方ノ調子ハドウダイ、ペッタンコ!
なんて、ね。

「あらお上手」
背後に座して居た筈の三方ヶ原女史がいつの間にやら近付いて、うさぎ村の絵を覗いて言った。その言葉の蓋し冷淡な事。

「うむ」と僕は言った。
「こうしていると神来訪れて文章が進むのだ。これも作家にとっては神聖な儀式だネ。」

「ふうん」と三方ヶ原女史が言った。
女史のブラウスが着崩れて皺が寄っていた。
額に前髪が幾条張り付いていた。
相変わらず艶のある。
最近は其処に凄みが加わって女史は益々美人に成った。

「お追従を遣う位なら早い所、原稿を仕上げて頂けませんか。凄みが加わったのは朝からずっと此処で先生の背中を睨んでいるからです。もう何時間も、原稿を、待っているのですが」

「うむ」
仕事熱心な事だ。大変、結構。だがもう少し肩の力を抜いた方が良い。眉根の皺は美人には似合わぬ。

「だから、先生が原稿を仕上げてくれれば眉根の皺も無くなりますよ」

何故か考えが全て見透かされる。女の勘は恐ろしいと言うが。

「どうして先生の考えが筒抜けなのか不思議なようですが、先生の単純思考など何もかもお見通しです。其処らの犬ころの方が余程難しい事を考えております。」

僕は知人の好意で旅行誌を紹介して貰って季毎に紀行文を寄せている。僕の旅行には必ず事件が起こってスペクタクルに富むので紀行文も大変好評だ。モットモットと読者からの催促が止まない。廃坑とラドン温泉のある山の湯治場を訪れたが何時のまにか猫村に迷い込み、猫長老から頼まれて紛失した鰹節を探す羽目に成った。鰹節は猫三郎が盗んだものに思われたが実は猫三郎の鰹節は猫二郎の作った 偽物で、本物は怪人猫仮面が持ち去った後である。気球に乗って逃げようとする猫仮面を僕と猫少年ニャン太郎は追いかけたのである。

「其処のくだりはカットされましたよ。」
三方ヶ原君が言った。

「ええ?」僕は言った。
「ラドン温泉に浸かって河原を散歩して、以降の駄文は全て削除されました。」
「ええ?」僕は言った。
「私にとっては毎度毎度、先生が同じ事を繰り返す事に驚きです。2000文字の紀行文の依頼に原稿用紙五十枚を費やされて、文字総数が二万文字。掲載しきれぬ一万八千文字は削除される。当たり前ですよね?」
「名作に仕上がったのに!」
「まず依頼をちゃんと理解しろ!」
女史に一喝されてしまった。

先日、僕は旅行社の勧めで或る雪国へ行ってきた。深夜出発の鉄道に乗った。客車は寝台になっていて粗末な掛け布団が貸付られた。
寝台に横臥して鉄車輪が線路を軋ませる細かな振動を感じていた。起きている乗客たちがいるのか、鉄輪の走る轟音の中にボソボソと呟くような人語が混じる。何を話しているのかは知れない。
僕はなんとなしに聞き耳を立てていた。

みゃあたら…ねがんす…てら、てら

姿も見えぬ見知らぬ人の、訛りのある断続的な言葉は耳に届く頃には分解されて、まるで異国人の言葉のようであった。

うさぎ

偶然か意味不明の音の羅列にうさぎ、と聞こえた。
うさぎが、どうした。
僕は寝付けずに車内販売の安酒でも買おうかと寝台から起居した。
暗い廊下に立って、改めて客車の中を眺めてみると死体安置所のような寝台が夜の中に並んでいる。
こうしているとどの寝台からも話声が聞こえる気もする。
死体たちが夜籠に揺られて運ばれているのかもしれない。
「アンタ、何処デ、死ナハッタ」と旅は道連れ世は情け。互いの身の上話に花を咲かせるものかもしれない。

うさぎ

と声が聞こえた。
うさぎがどうした。

車窓から外でも眺めれば月の兎でも見えるだろうサ。先ずは酒、それから座席。死体安置所の中を歩いて数歩。寝台のカーテンがふわりと揺れて中が覗いた。
女の足。生白い、うさぎの毛色のような。女が寝台の壁に凭れて半身を起こしていた。浴衣の裾が捲れて足が伸びている。
女と、目が、合った。
充血した、赤い目。
うさぎの、ような?
僕は思わず目を背けて寝台車を後にして、それから終点駅まで座席車にいた。

夜明け前に特急は終着駅に着き、客たちは揃って降りて、ばらばらと散った。
深夜の女性に顔を合わせるのが憚られるような心持ちがして僕は少し遅れて列車を降りた。旅行社の用意した旅館に着いて、驚いた。
その、女がいる。
同じ宿の宿泊客らしい。
ひとりの、女旅。
凡そ劇的なのは此処までで、僕と言えば女の事が気になって声を掛けようか掛けまいか部屋の中で煩悶し、とうとう何処にも行かず終いで一泊二日の旅を終えた。始終女の事ばかり考えて宿の呉れた海鮮振る舞いの食事も、定評ある設えの温泉も、気がそぞろのまま済まして何一つ覚えていない。
その紀行文を、三方ヶ原女史に提出しなければならないのだが、僕には何一つ書ける文句がない。困った。弱り果てた。かくなる上は、かくなる上は?


「毎度、仰々しく長たらしい駄文ばかり書き上げて、そうかと思えば今日は締切過ぎてもちっとも仕上がらない。全く帯に短し襷に長し。役に立たない先生ですね!」

大変な物の言いようである。女史も編集担当に付いたはじめの頃は慎み深くたおやかで僕が何をしても怒らなかったが、慣れたものか砕けたものか昨今はすっかり口が悪く成った。

「朝から動かぬ背中を睨み続けて、漸く一生懸命書き出したかと思って覗いたら、原稿用紙の上でうさぎが人参を掘っている。これが怒らずにいられましょうか。」

「そう言えばもう昼だネ。」
「そうですね」
「女史はお腹が空いて気が立っているのだろう。どうだい昼飯にでも行かれては。」
「その間に先生に逃げられたら、堪ったものじゃありません。昼飯など不要です。」
「先日美味しい洋食屋を見つけたのだ。どうだい一緒に。そこのオムライスが絶品でね。卵の蕩け具合と言ったら無いのだよ。旨いものを食うと頬が落ちると言うだろう?蕩けて頬が落ちるかと思った。全く絶品。あのオムライスを食べぬなど人生の損失甚だしかり。ナアニ座って書こうとして何も書けないんだ。こう言う時には多少動いた方が良いアイデアも浮かぶものだよ。」
「先生、経費は出ませんよ。」
「結構、結構。実は最近、収入を得たのだ。」
「先生が、ですか?」
「意外そうだね。」
「先生に収入を得るような甲斐性があるとは思いませんでした。」
「うむ、そうだね。」
「まさか労働された筈もなし。財布でも拾われましたか。」
「失敬だな。」
「では、何を。」
「うむ、財布を拾った。」
「呆れた!」
ところが、コレがそんなに簡易な話ではない。確かに財布を僕は拾った。黒い革の折りたたみ財布だ。そして中身を見た。誰かに抜かれた後と見えて財布はすっかり空であった。レシートやら紙切ればかりで小銭ひとつも入っておらぬ。せめて小銭くらいは残しておけば良いのに世知辛い夜の中である。そのまま捨ててしまおうかと思ったが、もしや空の財布でも当人にとっては思い入れがあるやもしれぬ。そう思い直して僕はそれを交番に届けたのだ。ところが官憲の奴めらはすっかり僕を不審人物扱いして日頃は何をしているのだ、とか、身なりが汚いだとか、この辺で空き巣、物取り、ひったくりが横行しているだとか、何やら面白くない話ばかり仕掛けてくる。財布を拾って届けた善良の市民を捕まえて全く官憲のけしからぬ話である。


そんな話を三方ヶ原君に話しながら半刻歩いて商店街の中にある件の洋食屋に着いた。
雑貨店の脇に2階に上がる階段があって、入口の脇に小さな看板で山猫軒。と書いてある。
「当店は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知下さい」と札が下がっていて、山猫がニヤニヤ嗤う絵が描かれている。

「おや、こんな店だったかな」僕は言った。
「まあ、とりあえず入りましょう」と三方ヶ原君が言った。「まさか取って食われる事は無いでしょう。」
店内は存外普通の内装で、数組の客が食事をしていた。
女給が水を呉れた。
「オムライスを、二つ。それから食後にコーヒーを。」と僕は注文した。
「経費では落ちませんよ。」三方ヶ原君が言った。
「そうだ、臨時収入の話をしていたね。すっかり官憲の悪口に夢中になって当初の話題を忘れていた。」

官憲の横柄な態度に辟易して、僕は帰途に着いた。全く不貞腐れていた。そうした時に商店街の入口で悲鳴が上がった。振り返ると男が走ってくる。その背後に悲鳴を上げたと思われる婦人がいる。
男は周囲の人を突き飛ばしながら此方に向かって走ってくる。
「ひったくりだ!」
と誰かが言った。
「捕まえろ」
どうしたものかとマゴマゴしていると、男が僕をも突き飛ばした。
「捕まえろ」と誰かが言った。
僕は倒れて尻餅をついて、男は走り去った。

「とそんな事があったんだ」と僕は言った。
「先生、肝心の臨時収入の話がちっとも分からないですよ。」と三方ヶ原君が言った。
「そうだった、その話だ。」

官憲と言いひったくりの悪漢と言い、全く僕は蔑ろにされて憤懣やる方ない儘、帰途に着いたのだ。全く度し難い暴挙だ。世も末だ。かくなる上は甘味を腹一杯暴食すべしと僕は喫茶「アマンド」のショウケースを覗いた。そして財布の中を覗いた。
何処ぞの出版社の吝嗇のお陰で僕の財布が霞を喰っている!全く以て悲憤慷慨。僕はこの怒気を鎮める術すら持たぬのだ!吝嗇の出版社と吝嗇の編集担当によって!

「ご不満なら今のお仕事も取り上げますからね」
と三方ヶ原君が言った。

そこで僕は全く絶望して道路端に座り込んだ。
世に抗議するのだ。絶望を訴えるのだ。座り込みだ。これもまた芸術だ!そうして僕が言葉にならぬ嘆きを世間に抗議していると、親切な方が小銭を呉れた。

洋食店のメニュウを見ながら話半分に聞いていた三方ヶ原君がぎょっとして僕を見た。

その後も幾人か小銭を呉れる親切な御仁がいて、中々世も捨てたものでは無い。

三方ヶ原君は阿呆のような大口を開けて唖然としている。彼女のような狭量の、胸板の薄い人間には世の人情が分からぬのだろう。悲しい時代だ。

そうして僕はアマンドのコーヒーセットにありついた、という訳だ。
支払いを済ますと美人の女給が商店街の福引券を呉れた。
商店街組合の前で抽選会をやっているのだという。
福引のような児戯を喜ぶ年でもないが、他にやる事もなし、座興と思って福引の列に並んだ。
伽藍、と福引を回すと赤玉が出た。なんだと思うと手鐘が鳴らされた。禿頭の親父が「当たりだ」と言う。一体何を貰えるのかと胸高鳴って、待っていたら籠の付いた自転車を貰った。

自転車。
この僕が自転車でサイクリングなど慄っとする。それこそ悪夢だ。それとも乗ればそこそこに良いものかしら。風切ってベル鳴らしながら街を抜けると楽しいだろうか。
例えば後ろに誰かを乗せたり?
例えば?
誰を?
うさぎを?
うさぎと一緒に春日向のサイクリング。桜の香りする風の中をサイクリング、サイクリング。

「おや」と後ろに乗ったうさぎ殿が言った。
見ると前方に走っているのは先程のひったくり犯だ。「追い掛け給え」と、うさぎ殿が言う。
僕は漕ぐ足に力を入れた。ウサギ殿と共に憎き悪漢を拿捕するのだ。
官憲の奴らもこれで僕を見直すだろう。賞状なんかも貰えるかしら。
などと貰ったばかりの自転車を曳きながら、うさぎと一緒の捕物帖物語についてぼんやり考えていたら、人にぶつかって仕舞った。

「相すみませぬ」と僕は詫びて顔を見たところ、先程のひったくりの男ではないか。驚いた僕の顔を見て男も万事を察したものと見え、そそくさ人混みに逃げようとする。
「君、待ちたまえ」と僕は声掛けたが存ぜぬ振りの聞こえぬ振り。
今を逃してはならぬと僕は自転車に乗って男を追い掛けた、が。何分乗り慣れぬので、ふらふらして速度が上がらぬ、息も切れる。
それでも橋の上で追いついて、男を捕まえた。
「泥棒!」
僕は大声を挙げた。
「泥棒じゃない!」
男も叫んだ。
「ひったくり野郎!」
僕は叫んだ。
「違う!」
と男は叫んだ。
実際に、違った。

話を聞けば男は確かに婦人の鞄を奪って逃げた。だが、その婦人は男の家内で要するに家庭内の痴話のうち。

「鞄を奪ってどうした?」と僕が尋ねると
「競輪に行った」と言う。
「屑!」僕は言った。
「違う!」と男は言った。
男は元来競輪などした事はないが、夢枕に昨年死んだ愛猫が立って、競輪場に行って最終レースの某という選手に賭けろと言う。
たかが夢、されど夢と半信半疑な夢心地で家内に話をした所、そんな胡乱な話ばかりしているから仕事は奮わない、娘は家出する、出前の自転車は盗まれる。いい加減にしろと男の矜恃を壊す事ばかり言われ、遂に喝となって家内の鞄を奪って競輪場の最終レースへ走ったという。

「それからどうした」と僕は聞いた。
「それが」と男は答えた。

「聞いてる?」僕は三方ヶ原君に聞いた。
「あんまり」三方ヶ原君は答えた。
「先生のお話と同じで結論に達するまでに話の脱線が多くて、何の話をしていたものか疾うに分からなくなるのです。話を聞く集中力が持ちません。」
三方ヶ原君も昔は一生懸命僕の話を聞いてくれたものだが、すっかりすげない。
そうこうするうちに女給が来て目の前にオムライスを二皿運んだ。

「山猫軒、という名前でしたが料理は出ましたね。」と三方ヶ原君が言った。

「宮沢賢治という著名な小説家がいてね。」僕は言った。
「……ええ?」三方ヶ原君は言った。
「代表作に登場するのが山猫軒」
僕の学識に感心しているのか三方ヶ原君は唖然と口を開けて阿呆面をしている。

「先生、周りに人もおりますし、先生の高邁の学識を披露するのは止めておきましょう。先生のアレが暴露されますから。」と三方ヶ原君は言った。

成程、確かにオムライスに集う衆人に僕の崇高の文学は些か難しいかもしれないと、僕は大きく首肯して
「それでは、もう一言聞いて呉れ給え」
「なんですか?」
「彼に敬意を表して新しい小説のタイトルを思い付いた。」
「聞きましょう」
「銀河鉄道殺人事件」
三方ヶ原君がライスにむせた。
「そして冒頭の一文は」

「カンパネルラが死んだ」

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食後の珈琲を飲みながら、僕と三方ヶ原君が談話していると奥から店主が挨拶に来た。やあやあ、その節は。その後の調子はどうだいと挨拶をする。
それを三方ヶ原君が訝しげに見ている。
「先生が人付き合いをなさるなんて珍しい。」
「まあね、僕だって社交力はあるのだ。」
「何の繋がりなんですか?不器用人間倶楽部にでも加入したんですか?」
「実は先程のひったくり。」
「ああ、競輪の屑男ですか。」
「それが彼だ。」
「ええ?」

話の顛末としては以下である。
橋の上で揉み合いした男、山猫軒の店主、宮沢治一郎は、猫のお告げによって車券を買いに競輪の最終レースに向かった。
だが、猫の言った選手が分からない!
「猫田にゃん吉」と夢枕の愛猫は言ったが最終レースは競輪界の名門猫田八兄弟が揃ってレースに参加しており、猫田勘吉をはじめ、番吉、三吉、乱吉とそれらしい名前が八人いるのだ。
全員買っては配当など無いに等しく、一人にしようにも当てがつかない。
夢の言葉を必死に思い出そうとしてみたが、夢は泡沫。細部はすっかり霧散してしまった。仕方ないから猫田八兄弟の長兄番吉を買ったが、勝ったのは三吉だった。
猫のお告げが当たったのか外れたのかも分からぬまま、失意のうちに帰途に着いた。そして橋の上で冴えない男に難癖つけられて揉み合う始末。
「俺はついてない」と男は嘆くのであった。
「自転車が盗まれては出前にも行けぬ」

そんな話を聞かされては流石に僕も同情して、福引で当たった自転車を呉れてやった。そうしたら御礼に夕食をご馳走してくれると言うのでこの店で店主自慢のオムライスを賞味したという訳さ。
「では収入というのは?」
「この店の食事券を沢山貰ったんだよ。」
僕は食事券の束を三方ヶ原君に見せた。屹度、僕の商才に感動するだろうと思ったが彼女は軽くため息をついて
「つくづく先生はお金にご縁が無いんですねえ」
と言った。

そんな所に店内を訪ねた客がある。
「昨日、財布を落としたのだが、知らんかね」
店主が応対しようとして
「あ!猫田番吉!」
「俺のこと、知ってるのかい?」
「あんたに賭けて負けたんだ!あんな精彩のない走りをして!」
「猫田番吉って誰ですか?」と三方ヶ原君が聞いた。
「先程話に出てきたの競輪選手だろう。店主が掛けたという。競輪界の英雄猫田八兄弟の長男だ。」
「残りの七人は何処にいるんですか?」
「兄弟だからいつも一緒という訳ではないと思うよ。」
「もし、俺の事を知ってるというなら何か食べさせてくれないか。腹ぺこなんだ。」と猫田番吉は言った。
「食わせてやっても良いが、料金は倍だ!」
と店主は言った。
「オムライスを美味しいと思って食べてましたが、店主の人格が全てを台無しにしますね。」
「人格と味は関係ないよ。」
「私はそうは思わないですけれど」
猫田番吉は尚も言った。
「頼むよ。金が無いんだ。」
「こっちもだ!」と山猫軒の店主が言った。
「財布を落としたって言いましたね?」三方ヶ原君が猫田番吉に尋ねた。
「そうなんだよ。俺の財布を知らないか?」
「どんな財布ですか?」
「黒い革の折りたたみの財布だ。猫のシールが貼ってある。俺のマークなんだよ。」
「ほら!先生、来ましたよ!」
「なんだい?」
「先生が拾った財布!」
「財布を拾ったのかい?」
「そういえば猫のシールが貼ってあったぞ!」
「早速交番に行きましょう!」
「ヨシきた僕の善良の証左だ。官憲に一泡吹かせてやる。」

交番にて猫田番吉は無事自分の財布を取り戻した。
「中身は抜かれていて空っぽだったけれどね」
「なに、最初から空っぽだ。」
「呆れた!」
類は友を呼ぶとはこのような事かと思いました。揃いも揃って金欠ばかり。とは後日、三方ヶ原君が語った言葉である。
「さあ、財布を拾ったんだから御礼を呉たまえ。」僕は手掌を差し出した。
だが。
「財布に金がないので、渡す御礼がない。」と猫田番吉。呆れた吝嗇家である。
「何でも良いから呉れ給え」と吾輩。吝嗇では負けぬ。そうして僕は猫田番吉から財布の中の福引券を貰ったのである。

運命の歯車が一回転、わらしべ長者が振り出しに戻って再び僕は福引券に戻るのだ。
「あ、その福引券」
と三方ヶ原君が言った。
「なんだい?」
「この前、先生が(経費で)乗られた寝台特急が特等賞で当たる奴ですよ。」
「なんと」

運否天賦に敏感な読者諸兄なら、この物語の結末は既に見え給う。
雑誌社の計らいで搭乗した寝台特急の旅を、僕は兎女の登場で無に帰して、現在進行形で大いに困っている次第。胸の平たい三方ヶ原君に軟禁されて執筆を強要されるも、経験の無いものは書けぬのが作家の宿命。甚だ困った所に助け舟。この福引券は、僕に再び寝台特急のトワイライトをもたらす僥倖に他ならない。天啓!僕の日頃の行いがこの瞬間に報われるのだ!
と、意気込んで回した福引は白玉。
「残念、外れです」
僕の手元に残ったものは。
「ポケットティッシューです。」
年若の商店街のお兄さんが、無味乾燥の真白のポケットティッシューを手渡した。
嗚呼、無情ナリ現世!

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「残念でしたね」と三方ヶ原君が言う。
「きっとそのポケットティッシューが新たな福を授けてくれますよ。」

気休めは止してくれ給え。僕の落胆は甚だし。

「どうしてそんなに残念がってるんですか?もう夜汽車には乗られたのに。」
「それは」と言いかけて押し黙る。
美女に現を抜かして旅にならなかった等、言えよう筈もない。

そんな黙った僕を怪訝に伺う彼女。
「私、此処で失礼しますよ。買いたい物があったので。」
と別れた。
トボトボと独り歩く商店街。
三方ヶ原君にチクチクと責められるのも心苦しいが、独りはもっと苦しい。
手のひらのポケットティッシューを見つめる。柔らかき、白紙。

くしゅん。
と背後で声がした。
くしゃみ。
声からして乙女の。

振り返って、僕は。
背後にいたのは夜汽車の旅で見掛けた兎女。
こんな出会いがあるものか。

僕はポケットティッシューを差し出した。
「使われますか?」
見知らぬ男の申し出に眉根を寄せて怪訝の顔をする彼女。
「いいえ」
「何処かでお会いしましたか」
「さあ」
「確か雪国で」
「いいえ、分かりません」

「どうかしたの?」
と彼女の隣の男が言った。
「さあ」と彼女が言った。

「ああ、人違いでした」と僕はその場を後にする。
嗚呼、嗚呼、独り、ひとり。
独りだ、僕は。屹度彼女は彼氏と夜汽車の旅の予約して、旅の直前に彼氏と喧嘩などして一人旅となったのだろう。
そうして無為の旅をした後に帰宅した彼女は彼氏殿と仲直りをして、充血の目を潤ませた兎女をご卒業し給うたのだ。

ティッシューを僕は外套のポケットに入れる。マフラーを巻き直す。今晩は雪が降るな、冷えるから。

日暮れの息が白い。
日暮れの息が、白い、のだ。

月兎、今宵は姿を現さぬ。
独りなんだな、僕は。

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その晩、僕はまたひとり部屋にいて文机に座り鼻毛を抜いていた。

相変わらず文章は進まないし、原稿用紙の上にはうさぎが増える。
人参の収穫祭が終わってうさぎの村では運動会が行われていた。
うさぎたちが紅白に別れて綱引きや玉入れ競技で競っている。
うさぎの子どもたちによるお遊戯は可愛らしい。
ふふふ。
と僕は笑った。

夜が更けていた。
おお、寒い。
僕は首を縮めて綿入りのどてらを羽織り直した。火鉢に火を入れる。熾火が点って、火点がじんわりと暖かい。火鉢は有っても餅はなし。月兎の餅でも落ちて来ぬものか。
窓から外を眺れば。
満月。
嗚呼、嫌味に明るい月天心。己が不明ばかりよく見える。

全く埒の明かぬ事だ。今日一日をして僕の手元に残ったものがポケットティッシュー一つとは。凍えて鼻水がちとなり、僕はティッシューで鼻をかんだ。昨日も今日も時間があった所で書けぬものは書けぬ。だって何も旅などしてないのだもの。明日が来たって書ける道理は無い。そうして明日も朝から三方ヶ原君からチクチクと責め苦を受けるのだ。かくなる上は、かくなる上は?


人参大好き!

うさぎ村では新たな子どもたちも生まれていよいよ活況。老うさぎたちは目を細めて微笑む。自らの幼き日々を振り返るのか。

追憶に唱歌が流れる。
うさぎ追いしかのやま
いや、うさぎを追っては不可ないな。

おや。運動会の端っこで怪我をしている子うさぎがいるぞ。どれ、助けてやろう。何、礼なんて。色気が出た頃に恩返しに来ておくれ。

そうして月日は幾星霜。独り寝の雪夜にドアの呼び鈴がころんころん。現れたるは透ける肌した雪娘。
旅の者ですが一夜の宿に困っております。どうか一晩泊めてやって頂けませんか。
衣服は雪に濡れ透けてすっかり凍えて震えている。
いいとも、いいとも。一夜と言わず何夜でも。
お好きなだけ此処にいなされ。
丁度私も今晩は寝付けぬところ。ご一緒にバアボンなど如何ですか。それより、そんなに濡れてしまってはお寒いでしょう。風呂を沸かして差し上げる。遠慮など要りません。若い方が身体を冷やしては不可ない。
ええ、それではお言葉に甘えてと衣服を脱ぐ雪娘。その白き事。


と、そんな夢想をしていたら、ころろんと呼び鈴が鳴った。
おや、こんな夜更けに誰かしら。僕は玄関扉に声を掛けた。
「どなたですか?」
「私です。」
「私ってまさか本当に兎の子ではないだろうね。」

ドアーを開けると三方ヶ原君がいた。
「先生、何をしておいででしたか?」
外は雪が降っていたようだ。コートに小雪が付いている。寒さに頬が赤らんで、三方ヶ原君が冷えている。
逃げようとしていた、等とはまさか言えない。

「逃げようとしていた等とはまさか言えない。先生、お顔にそう書いて御座いますわ。」
三方ヶ原君が言った。相変わらずの鋭さ、今日も美人だ。
「お追従遣っても駄目ですよ。」
吐く息が白い。

こうまで追い詰められては詮方無い。僕は到頭、三方ヶ原君に白状した。
「そんな訳で実は宿の外には一歩も出なかったのだ。」

「呆れた」
と三方ヶ原君は笑った。彼女の笑顔は素敵だ。これは掛け値なしの僕の秘密。彼女の笑顔にいつも救われている。そんな顔色を気取られてはならぬ。
「鈴のような」笑顔でひとしきり彼女は笑ってそれから。
「まあ、そんな事だろうと思っていました。」
「折角の旅券を済まなかったね」そうやって謝ると三方ヶ原君が
「あはは」と笑う。

「先生、差し入れを持って来ましたよ」
と取り出したのは餅である。
「火鉢に火が入った頃だと思いまして。」
部屋に上がり込んで網の上に餅を載せる。
じりじりと遠赤外線に温められて、僕と三方ヶ原君が見守る中、程なくして餅はぽっくり膨らんだ。
「おお、美味そうだ。矢張り雪夜に餅はよく似合う。月の兎が杵突いて、柔らかき兎餅。大変有難い贈り物だ。」
箸で突ついて餅を裏返す。
「もうひとつプレゼントがありますよ」と三方ヶ原君が言った。
「もうひとつ?」

「ええ。」と彼女が見せたのは夜汽車の特等切符であった。
「餅を買った次いでに私も商店街の福引を致しまして、切符が当たったのです。寝台特急のペアチケットが。」
「ペアチケット?」
「先生がまた見知らぬ美女にうつつを抜かさぬよう、今度は私が先生を見張って差し上げます。」嗚呼、神来。名文の生まれる予感。三方ヶ原君は今日も美人だ。

「先生、お追従使っても何も出ませんよ。」
彼女の胸板の如く平坦に線路は続くよ何処までも。
「む?」
彼女との夜汽車の旅は屹度素晴らしいものになるに違いない。

(短編小説「雪は降る、夜汽車は進む 月兎夜話」村崎懐炉)

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