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短編小説「終焉」

貂川鉄郎はその時、極めて重大な事実に気が付いた。

いつの頃からか知れないが、貂川鉄郎は暫く模糊とした季節の中に、眠っていたような気がする。いや違う。決して眠っていたわけではない。だが夢遊病者のように不覚であった。
数々の心象が陰影となって目の前を流れた。そんなものを何十年、なのか何秒なのか知れないが胡乱に眺めていた気がする。

だが鉄道の、鉄輪が路鉄を擦る轟音によって、貂川鉄郎は長い微睡みから覚醒した。


鉄郎は駅のホームにいた。
目の前を鉄道が通過した。
鉄郎は見た。鉄道に乗る人々を。子供の玩具箱に雑多と雅楽多が積まれたように、車両には人々が所狭しと詰められていた。
少女が窓際に圧されていた。

その少女と目が合った、気がした。

一瞬間のうちに車両は通り過ぎた。轟音の遠ざかるを見送って、不図、貂川鉄郎は己が明智に気が付いた。

そして、鉄郎の人生史上、極めて重大な事実に気が付いた。

いつの頃からか知れないが貂川鉄郎は幽霊である。



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短編小説「終焉」
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喧噪。

「根拠のない差別だ!」
「人権の抑圧反対!」
「非人道の政府は去れ!」
デモを行う人々がいる。
「俺たちに人権を認めろ!」
と、口々に叫ぶ。

多くの人々が、改札の前に並んでいた。
改札の前には駅員が並び、順番の来た者の額に測定機械を充てる。
「次、イッテヨシ、次、イッテヨシ、次・・・」
と並んでいた貂川鉄郎もまた額に機械を当てられた。
センサーが赤く光って軽薄な警告音が鳴った。
「ダメ、外れて」と言われて貂川鉄郎は人々の列から退けられた。

その貂川鉄郎の後には未だ長い列が連なり、次々と検査に合格していく。
列から外れた貂川は困惑した。其れを駅員に尋ねた。
「どうしたら良いんだ、俺は」
駅員の言葉は冷ややかだった。
「もう一度、列の最後尾に並んで再た検査を受けなさい。」
「またダメだったら?」
尋ねた不愛想の若者に対して駅員は迷惑そうに答えた。
「二回、不適格となった者は欠格になる。」
すげないやり取りに、貂川鉄郎は自らが迷子になったような心細さと腹立たしさを感じた。だが、他に行くあてのない鉄郎はまた最後尾に並ぶのであった。鉄郎が最後尾に並んだ時に、見知らぬ男が忙しなく列に駆け寄って鉄郎にぶつかった。男の勢いに鉄郎は弾かれて前列にいた女に当たった。女はよろけて其の前列の老人にぶつかった。
じろりと、女は貂川鉄郎を睨んだ。それでまた鉄郎はいたたまれない気持ちになるのであった。
再び順番が来て鉄郎の額には再度測定器が当てられた。またもや電子音が長く鳴って、貂川鉄郎は到頭、欠格となった。鉄郎は顔を赤くして列から外れた。鉄郎は途方に暮れた。
背後で怒声がした。鉄郎の次順にいた男である。

「機械が壊れている!」男は駅員に主張した。
「次」駅員は男を退けた。
「やり直せ!」男は叫んだ。

「非人道的だ!」
「特権階級の横暴だ!」
其れを見たデモの人々は横並びして駅員たちを野次った。
欠格となった鉄郎は額に「悪霊」と書かれた朱印を押されて放逐された。
行き場を失った鉄郎は駅から出て河原に座った。
河原には同じく行き場を失った人々がまばらにいた。所在を無くして一様に川の流れを眺めていた。

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死者なのだ、彼らは。
一様に、死んでいる。

駅は、幽霊列車に乗らんとする死者で溢れていた。
幽霊の駅員が乗客を選別する。或る者は乗る事が赦される。改札を通過して幽霊列車のホームに立つ。だが或る者は赦されずに駅舎から放逐される。
何を基準に選民をしているのか、貂川哲郎は知らない。
「生前の罪によって裁きが決まるのだ」と誰かが話をしていた。エジプト神話では冥府の神アヌビスが死者の心臓と真実の羽根を天秤にかけ、救われる魂と救われぬ魂を選り分けた。羽根より軽い心臓、つまり穢れのない死者は楽園に導かれる。反対に罪に穢れた心臓を秤に乗せると犯した罪業の重責によって天秤が堕ちる。穢れた魂は奈落に堕ちて、巨獣アメミトに喰らわれて永遠に消失する。

「合理的だ。心臓を取り出すよりも」と誰かが言った。
「問題は精度だよ、測定機械の」と誰かが言った。

そもそも罪を犯さない人間などいるのだろうか、と貂川鉄郎は考えた。程度の差こそあれ、誰でも罪を犯しながら生きるのだ。罪の無い人間などいない。其れを如何して裁く。一体何を測るセンサーなのか。貂川鉄郎は不合格となって悪霊の朱印を押されたが、貂川鉄郎には自らの罪に心当たりがない。自らは地獄に堕とされる程の罪人だろうか。機械の誤動作では無いだろうか。いま改札を通過して幽霊列車に乗る幽霊たちと、自らに何の差があろう。


貂川鉄郎の隣りに先程見掛けた男が腰掛けた。
「乗り損なった」
と、男は言った。
鉄郎は男の顔を見た。疲弊していた。
男の額にも「悪霊」の朱印が押されていた。
「あの機械、壊れてるよ」

その時。
馭輪、馭輪と音を立てて鉄道が空に飛び立った。

それを貂川鉄郎と、その男、樺林一郎は、阿呆のように半開きの口で見送った。
「ああやって飛び立つ鉄道の幾つかは途中で爆発するらしいぜ」
樺林一郎は言った。

そんなこともあるのか、と鉄郎は鉄道の行く末を見上げながら思った。
鉄郎は先程、寿司詰めの列車で窓際に圧された少女を思い出した。
彼女の乗った鉄道が、宇宙空間で爆ぜる。
サイレント映画のように無音だ。
乗客たちは人形のように手足が捥げて、無辺なる宇宙空間の四方へ散逸する。
少女の頭と胴体と手足は散り散りに宇宙へ漂う。
ゆっくりと宇宙空間の彼方に消える少女の頭部と、鉄郎は目が合う。と、いう夢想。

あの目。
救いを求めている、眼差し。

いまや、誰もがあんな目をしている。困惑して救いを求める、目。
鉄郎と樺林が見上げた空には月が浮かんでいた。
空の半分程もある、巨大な月が。
明日、月が落ちて、地球は滅亡する。

「明日、地球が粉々になっちゃっうんだって」貂川鉄郎は言った。
「明後日じゃなかった?」樺林一郎は言った。
「予定が変わったんだよ。思ってたよりも堕ちる速度が早いんだって。」
「明日か」樺林は唸った。

皆、救けを求めているのだ。生きている者も、死んでいる者も。

月が堕ちてくる。
そのニュースが流れたのは十年前であった。当時は誰も信じなかった。信じたとしても十年もあれば、誰かが何とかするでしょ?と往来の街頭インタビューで若者が答えていた。そう答えた舌に銀色のピアスが光った。

事実、人類はこの問題に対して出来うる限り迅速に、多角的に「何とか」した。月魄の落下を回避する事も、月を破壊する事も出来ないと知ると、勤勉に次の手として火星への移住計画に着手した。着々と人類は計画を進め、着々と移住は進み、到頭地球に人類は居なくなった。
いま残っているのは僅かばかりの人口で、それも明日には全員が最終の宇宙船に乗って旅立つ事が決まっている。地球が滅亡するとしても、人類は滅亡を免れたのだ。

だが、もう一つの人類である霊人間、即ち死者、幽霊たちは大いに困った。
彼らは全く時流に乗り遅れた。世事に疎く結託もない。技術もない。彼らが街角に佇んで胡乱に夕陽を眺めるうちに刻々と地球滅亡の日が迫る。
或る時、幽霊たちは集会を開き動議を発した。このままでは!
このままでは彼らは地球と共に粉々に散る。

貂川鉄郎は考える。そうなったら我々はどうなるんだろう。消えるんだろうか。それとも消えずに未来永劫、宇宙を漂うのだろうか。
貂川鉄郎は宇宙を浮遊する幽霊となった自らを想像した。何千年、何万年の孤独に慄っとした。

霊体とは磁場なのだ、とかつて生前に鉄郎は聞いた事がある、ような気がする。いま幽霊となって鉄郎は磁力の存在となったのだろうか。鉄郎は手のひらを見た。生命線が長い。手首まである。生前はそんなものを冗談半分に喜んでいたものだが、今や全く意味がない。いや、こうして現に第二の人生を歩んでいる。長い生命線が、鉄郎の生命を延長している。
鉄郎は自らの冗長な生命線のゆく果てを考えた。暗い宇宙空間を浮遊する宇宙塵としての生。そこに終わりは有って呉れるのだろうか。

轟、轟と音がして、また幽霊列車が空に飛び立った。
河原の悪霊たち、つまり鉄郎や樺林のような「欠格」の幽霊たちは、腑抜けた顔で幽霊列車を見送るのであった。

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駅から外れて貂川鉄郎と樺林一郎は街中を歩いていた。どの店も無人であったが残存者用に開放されていて、そのうちの幾つかは酔狂の幽霊が店主などを務めて店の真似事をしている。
時折、賑わっている店があった。
「文明の残照だ。」
樺林が言った。

明日、地球が滅亡するとしても、人々は日常を守ろうとする。
二人はバーに入った。幽霊のバーテンダーが二人を出迎えた。

「いらっしゃい」
物静かに温和であった。

「温かい店だ」樺林が言った。
「店主も死人とは思えない」
「そうだね」鉄郎も言った。
「何にしましょうか」と幽霊店主は言った。

「何が良いと思う?」
樺林は鉄郎に尋ねた。
「こんな店に来た事がないから知らない。」
鉄郎は言った。

「任せるよ」
と、樺島は幽霊店主に言った。

「ええ」
店主はシェイカーに幾つかのアルコールと、それからロックアイスを入れて、律動的に其れを振るった。氷が立てる刻々とした音が小気味良かった。
カクテルグラスにチェリーを入れて、店主はカクテルを注いだ。青い、カクテルだった。店主は二人に同じものを出した。

「どうぞ」幽霊店主は言った。
「何てカクテル?」グラスを持ち上げて、クルクルと回しながら樺林が言った。
「地球、という名前です」幽霊店主が言った。

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「マスターは、この店、長いのかい?」樺林が訊いた。
「死んで暫く経ちましたねえ。恥ずかしながら最近、目が覚めた次第です。」
いまの店主は孫にあたる筈であるが、幽霊店主が起きた時にはもう移民の後であった。
「一人になって今更老いぼれが移民だなんだと足掻くのも恥ずかしく、かつてを懐かしんで店など開いております。」と幽霊店主は語った。
「明日になったらどうなっちまうのかねえ」樺林は尋ねた。
「俺達も粉々になって其れで『おじゃん』になるのかねえ」
「さあねえ、もしかしたら、宇宙の中に置いてきぼりになるのかもしれないですねえ」
年寄りたちの話を聞きながら鉄郎はカクテルを飲んだ。
青いアルコールは地球の味がした。

或る者は「欠格」して、また或る者は自主的に、幽霊たちは街中に残っていた。

「見ろよ」
樺林が言った。
「シェルターが売ってる。…地球が壊れても大丈夫、って書いてある。…冗談だろ?」

二人の前を人権擁護団体のデモ行進が通り過ぎる。
「幽霊にも人権を!」
「不当な選民は廃止しろ!」
悪霊のスタンプを額に押された者が多い。
「僻みだよ、あれは」樺林が言った。
「そうかな、必死なだけだよ。生きるという事に。」鉄郎は言った。

「政府は良くやってる。」樺林は言った。
「俺は、そう思う。選民から外れたのは残念だけど。」

人類が火星に移民するにつれて、世界には幽霊が増えだした。何処かに眠っていた魂が、不図、目を覚ます。そして、彼らは生き生きと人類の居なくなった地球で暮らし始めた。鉄郎もその一人であった。地球の最期が近付くにつれて、彼らの意識は明智を得た。彼等のうち或る者は政治家で、或る者は技術者であった。彼らは或る日に地球の滅亡を識った。彼らは言った。

我らも火星に行くのだ!
人類を追って。

海に眠る鉄道が引き揚げられて、幽霊技術者により宇宙航空用に改良された。幽霊による幽霊のための政府が作られて、幽霊の中央省庁、地方行政、役所が出来て、各市区町村の中に自治会が組織され、告知の事項は直ちに回覧板によって周知された。頭に霞がかかって浮遊していた幽霊達も次々明晰になって結託した。元人類の力は偉大であった。
幽霊列車は幽霊達の希望であった。
新たな人類の、新たな未来を獲得したのだ。
平和のうちに万歳が叫ばれた。

だが、その平和は彼等に生贄を要求する巨大な怪物であった。幽霊人口に対して幽霊列車の生産が遅延している。

全幽霊を火星に送る事が出来ない。

幽霊政府による発表は人々を絶望させた。誰が火星に向かい、誰が地球に残るのか。その選別方法は。其れを公平に決める事が出来るのか、拾う生命と、捨てる生命の選別を。
幽霊列車初号の打ち上げを祝う除幕式の、テープカットと共に狂騒の時代が始まった。幽霊列車は次々発車する。幽霊たちは我先にと駅に集まった。その人々を駅員たちが測定機械で選別する。測定の基準は秘密にされた。
罪の重さで決まるのだ、と誰かが言う。罪人は奈落に堕ちて地獄の巨獣アメミトに喰らわれるのだ。

鉄郎は何故自分が選民から外れたのか分からない。だが、もし咎人が選ばれて選外となっているのだとしたら、いま同行する樺林もまた咎人なのだろうか。

「何処か行く?」樺林は訊いた。
地球が滅亡するまでにまだ、時間がある。

「公会堂でコンサートが開かれてる。聖歌隊が来ているみたいだ。」と樺林が言った。
「博物館は?」鉄郎は言った。
「良いね」樺林は言った。

「博物館にはよく来たよ」樺林が言った。
「大きな恐竜の骨格標本があるんだ」
「本物?」鉄郎が訊いた。
「レプリカだよ。」樺林は言った。
「本物なら恐竜の幽霊に会えると思ったのに」
「そんなの実際にいたら大変だよ、怪獣映画どころの騒ぎじゃない」
「博物館には一人で来たの?」
「いや家族とだよ」
「家族がいたんだ?」
「いたよ、女房と娘と」
「無事に逃げた?」
「女房は、多分ね。娘は何とも」
「何とも?」鉄郎は尋ねた。

「死んだからね、もう何年も前に」
と樺林は言った。

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鉄郎は初めて博物館に来た。博物館が、鉄郎の通学路に有る事は知っていた。だが自らには無縁の場所に思っていた。鉄郎という存在と博物館の間には実測以上に観念的の距離があった。博物館は鉄郎にとって見えても辿り着けぬ蜃気楼のような場所であった。

いま、幽霊となった鉄郎は初めて博物館に入館し、ブラキオサウルスの骨格標本を見上げていた。巨大だ。こんなに大きな生き物が群れをなして大地を闊歩していた時代が、この地球には有ったのだ。その足元に犬ほどの大きさの骨格標本もあった。

「ヴェロキラプトル」
群れて狩りをしながら暮らしていた。

学芸員の幽霊がいて、その古代生物について説明をしてくれた。

「ああ、本当に犬みたいだ」
「或る生き物が滅んだ後に、似たような生物群が誕生する。不思議な事だね」
「自分たちは人間の代わり?」
「そうかもしれないね。いなくなった人間の代わりとして地球に作られたのかもしれない」

もっと壮大な話をすれば、実の所、貂川鉄郎が人間であった貂川鉄郎の幽霊であるのかどうかなど全く定かでは無いのだ。
貂川鉄郎の残留を核にして新たに生まれた残照のような生物なのかもしれないよ。
と、鉄郎は学芸員の幽霊に話をしてみた。
「自分達の正体など誰にも分からないからね」学芸員の幽霊は言った。

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「あっちに生きている人間がいるよ」と学芸員の幽霊は言った。
「生きている人間?」
地球に残る事を決めた幽霊たちがいるのと同様に人間にも地球に残る連中がいるのだ。

彼の人は太古の海が描かれた絵画の前に立っていた。
幽霊達が遠巻きに人間を見ていた。
人間に幽霊は見えない。幽霊に囲まれて、観覧の対象になっているなどとはまさか思わないだろう。

「本当に人間がいる」鉄郎は言った。

「女房だ」
樺林は言った。

「え?」
鉄郎は言った。
「女房だ、俺の。どうして逃げなかったんだ」
樺林は言った。

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樺林は妻を前にして、時間が止まったようだった。

鉄郎は樺林が喋るのを待った。
樺林は悩んでいた。
妻を火星に逃がしたいのだ。

「人間の乗る宇宙船はもう無いのだろうか」樺林は言った。
「さあ」鉄郎は言った。
「行こう」樺林は言った。

博物館を出てから樺林はすっかり様子を変えてしまった。自らが宇宙の藻屑となる覚悟は定まっても、身内が藻屑となる事はまた覚悟の種類が異なるのだ。
「人間が乗る宇宙船」は実の所まだあるのかもしれない。そしてそれは間もなく出港するのかもしれない。
「俺は女房には逃げて欲しいのだ」樺林は言った。

二人は公会堂に出掛けて聖歌隊の歌うのを聴いた。公会堂には様々なチラシが張ってあってその中には宇宙船の出港予定表があった。

「ここに出港予定が張ってあるよ」鉄郎は樺林に言った。
明朝、最後の便が出るようだった。

鉄郎と樺林は夕食を食べる為に街を散策した。
「何をたべよう?」樺林は訊いた。
「最後の夕食だ。何が良いかな。」
地球に近づいた月が巨大な月輪になっていた。
月の影に地球は落ちて、夜は、鉄郎の知るどの夜よりも闇の色を濃くしていた。

「怖い光景だ」鉄郎は言った。
「終末ってこう言う事なんだな。こんな巨大な月輪を眺めるとはね。」
エジプトの死者の書に出てくる巨獣の口はこんなかしら、と鉄郎は思った。

咎人を飲み込む巨獣。
樺林は先程聴いた聖歌隊の歌を口ずさんだ。
「自分の娘のために」と、樺林は言った。

「ご飯何を食べよう」
「そうだね」
「月を見ながら食べるんだ、似合うものは何だろう?」
「うどんかな」
「国民食だね」

柳の並んだ水路沿いにうどんの屋台が出ていて、二人はそこで月見饂飩を食べた。

「アタシも明日の朝には出発でさあ。」
と屋台の幽霊が言った。
「乗れるのかい?」
「検査済みですよ。…お客さんは?」
「残念ながら不合格だ。」樺林は額のスタンプを見せた。
「おや」と店主は言った。

「罪が重いと不合格になるなんて聞きますが、お客さん、何か悪さをしなすったね?」と店主は言った。
「人を殺したんだよ」樺林は言った。
鉄郎は其れを聞いて凝々と驚いた。
「冗談だよ」樺林は言った。

夜になっても狂瀾に幽霊列車は次々と発車されていた。

その突如。
傲、岸、と巨きな音がして、地上が微々微々と震えた。
屋台の暖簾を捲って二人が夜空を見上げると、幽霊列車が空で燃えていた。打ち上げに失敗して爆発したのだ。燃えて粉々になった幽霊たちが見えるようだ。と、鉄郎は思った。
その横で樺林は十字を切った。

うどんを啜り終えて、二人はまた昼間のバーテンダーに会いに行った。
店は繁盛していた。
「タダなんでね」とバーテンダーは笑った。
「昼間飲んだ青い奴をもう一杯頼むよ」樺林は言った。
鉄郎はミルクを注文した。

「女房に会ったんだよ」と樺林はバーテンダーに言った。
「へえ」とバーテンダーは言った。
「珍しい事もあるんですね」
幽霊たちは自分の知人に会う事などあまり無い。
鉄郎も駅で知人を探したりもしたが、見知った者は誰もいないように思われた。尤も、鉄郎は未だ若く鬼籍に入った知人など僅かしか居ないのだが。

「いや」と樺林は言った。
「女房は生きているんだ。すっかりもう移民したと思ったのに。」
「どうして逃げなかったんでしょうねえ」幽霊店主は言った。

「子ども、かな」樺林は言った。
「死んだうちの子どもがまだその辺にいる気がしてるんじゃないかな。」
樺林はそれからため息をついて、また言った。
「馬鹿馬鹿しい。実に非科学的だよ。」
樺林は青いカクテルを一息に飲み干した。

「マスター、バーボンをくれ。」
樺林は幽霊店主の出したバーボンも一息に飲み干した。
「文句言ってくる。」
「何処へ」
「女房の所に」
「何処にいるか分かるの?」
「分かるさ」
そう言って樺林はふらふらと歩き始めた。

鉄郎は心配になって後をつけた。樺林が向かったマンションは彼の住処と思われる。
鍵が掛かっていたので樺林はチャイムを押した。

ドアが開いて樺林の奥方が廊下に顔を覗かせた。
「ただいま」と言って樺林は部屋に入った。
「入って良いよ」と樺林が言うので鉄郎も部屋に入った。
樺林の妻は誰もいないドアに不審を感じつつも、再たドアを閉めた。

「なあ」と樺林は鉄郎に言った。
「どうしたら良いだろう?」
「どうしたいの?」
「こいつが宇宙船に乗って火星に行ってくれれば良い」
彼らの話し声は人間に聞こえない。

「字を書いてみるのはどう?」
「メモ帳はあったかな」
樺林はペンを取ってメモ帳に絵を書いた。
「何の絵?」鉄郎は聞いた。
「うさぎ」樺林は答えた。
樺林はメモ帳を妻に見せた。
だが、妻にはそのメモ帳も見えていないようだった。

「なんだこれ?」
「どうなってる?俺たちの手に持つものも見えていない。」

鉄郎は奥方の飲んでいたアルコールのグラスを持ち上げた。
「あ、グラスが二つに別れた。」
グラスは実体と鉄郎の手の中のグラスに分離した。生者には幽体のグラスは見えないようだ。

「分離しないように持てないのかな」
「そうっとやってみよう」
鉄郎は力を加減しながらグラス本体を持とうとした。霊体のグラスと物体のグラスが分離する間際の力加減でなんとか小刻みにグラスの実体を震わせる事ができるようだ。

「ひ」
奥方が震えるグラスを見て息を呑んだ。

「よし、見えてる。」
二人が動かせるものは限りがあったが、その存在を知らせるために二人はあらゆるものを震わせたり、揺らしたり、手を叩いて音を立てた。

樺林の奥方は恐怖に青ざめてそれを見ていた。

「ポルターガイストだな、これ」
電灯の吊るし紐を叩いて大きく揺らしながら樺林は言った。
「ポルターガイストの舞台裏はこんな感じだったんだね」
グラスを震わせながら鉄郎は言った。
「結構体力を使う」樺林は言った。

だが、二人の試みは奥方を怖がらせるばかりで、目的には一向に近づいていない。鉄郎にはそのように思われた。
「どうしよう?」樺林は言った。
どうして良いか分からない。鉄郎は困った。

「あなた?」
奥方は言った。
「あなたなの?」

「ビンゴ」
樺林は言った。
勢いよく電灯の紐を大きく叩いて、肯定の合図をした。
それを見て妻は言った。
「あなたなのね」

樺林はもう一度電灯の紐を叩いた。

「イエス、ノーしか伝えられない。」樺林は困った。
「火星に行けと言いたいのに」

暫し思案を嵩ねて、樺林は玄関の花瓶を揺らした。
それから洗面台まで小走りして洗顔フォームを揺らし、更に小走りしてベッドサイドのイルカのルームランプを揺らした。

「花瓶、洗顔フォーム、イルカ…ああ、カセイ、ね!」鉄郎は言った。
だがその符号が意味する所は奥方にとっては難解だ。符牒遊びではあるまいし、ひねり過ぎている、とも思った。しかし、我々死人には他に生存の世界に関与する術がないのだ。
樺林はとにかく小走りして花瓶と洗顔フォームとイルカをガタガタと震わせることに神経を注いだ。滑稽だ、と鉄郎は思った。中年男性の小走りが実に滑稽だ。樺林の揺れる脾肉を見ながらそう思った。だが直ぐに考えを改めた。これで良いのだ。これが人間の生きる姿なのだ。鉄郎はいま、樺林の揺れる脾肉に感動していた。加齢の肉体が鉄郎の胸を打った。
花瓶、洗顔フォーム、イルカ。
花瓶、洗顔フォーム、イルカ。
花瓶、洗顔フォーム、イルカ。
カ、セ、イ!
カ、セ、イ!
カ、セ、イ!
頑張れ樺林!
頑張れ樺林!
鉄郎は心の底からエールを送った。
きっと声は届くに違いない。違いないのだ。神に祈ってあげても良かった。

「怒っているのね、あなた」
続け様に騒音するポルターガイストに囲まれて、奥方は言った。
「私が火星に行かないから」

「ビンゴだ!」樺林と鉄郎は声を揃えた。
吊るし紐が樺林に叩かれて快活に揺れた。


「行けないわ、一人でなんて」奥方は言った。
「ダメだ」樺林は言って、吊るし紐を乱暴に回した。
「君は行くんだ、火星に。君は生きろ。」樺林は吊るし紐を回しながら言った。
「行くんだ、朝の便で旅立て」
頭を振るように吊るし紐を振り回した。

「行けと言うのね」奥方は言った。
「そうだ!」樺林は大きく紐を叩いた。

「あなたも一緒なのね」奥方は言った。

樺林の動きが止まった。
樺林は欠格者だ。
地球に残って木っ端微塵になる身の上だ。
奥方と一緒には行けぬ。

樺林は紐を大きく叩いた。
「一緒だとも」
「うちの子も一緒にいるの?」
再び樺林は紐を大きく叩いた。
「みんな一緒だとも!ママー!あたしも一緒よ!」樺林は声色を変えて叫んだ。
「一緒だから、船に乗ってくれ!」

奥方は啜り泣いた。
「一緒なのね」


暫く奥方は樺林の幽霊に向かって思い出話を続けた。その話を聞きながら樺林は吊るし紐を叩いて相槌した。
夜が更けると奥方は微睡み、眠った。

鉄郎は二人の思い出話に興味など無かったので、先に部屋を出て空を眺めた。月影はますます大きくなった。夜空に大きな穴が開いたようだ。
地球の滅亡までもう、あと半日もない。これから行う全ての事が「最後の」という接頭語が着くのだ。最後の晩餐、最後の睡眠、最後の夢。

夢。
樺林の奥方が目覚めた時に自分が夢を見たと思うのかもしれないな。鉄郎は思った。

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あと、数刻をどうやって過ごそう。
鉄郎は考えた。悔いの無い様に、と考えた所でやりたい事が全て出来るものでは無いし、出来ずに悔いが残るなら諦念こそ大切なのだと思う。しかし、全てを諦めるからと云って残った数刻を坐禅して過ごす気も無い。せめて有意義に過ごしたい。有意義にと思うなら、数ある中から最も有為の事をしたい。いや、そうすると出来なかった事が悔いになる。

鉄郎は月影に照らされた自らの影を見ながら思考の堂々巡りの中にいた。

最後の時を。

其れはきっと場所や行動が問題ではなく、誰と一緒に過ごすのかが問題となるのだ。鉄郎は混濁した記憶を辿った。別れた恋人。父母。友人。
もし自分の望みが叶うならば一体自分は誰と終末を過ごしたかったのだろうか。

「待った?」
樺林が外に出てきた。
鉄郎は幽霊として覚醒し、俄然孤独であった。このセンチメントは行き場がない。樺林は鉄郎にとって昨日今日に出会った他人であるが、そのような奇縁の中で終末を迎える事も悪くない、のかもしれない。と、鉄郎は思った。

「今度は何処に行こう?」鉄郎は言った。

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深夜。
樺林の発案で鉄郎と樺林は遊園地に来ていた。
24時間、自動運転された観覧車が澱みなく回転していた。
電光が様々の色に変わって賑やかに発光する。
ネオン装飾のゴンドラに幽霊たちが乗っているのが遠目に見える。

「大きな観覧車だ。」
「どうして人間は観覧車に郷愁を感じるのだろう」
「円運動に人生をなぞるんじゃないかな」
人間は無から生まれて無へと消える。

「死後の世界があるなんて思わなかった。どうして誰も証明が出来なかったんだろう」
「感受する感覚が無いからじゃないかな。甘味の味覚が無い猫に甘味の存在を証明する事はできない。感じ得ないものは存在しないに等しい」
「幽霊が存在するなら他の物も存在するだろうか」
「例えば?」
「河童や天狗、ネッシーや巨大カワウソ、あとは宇宙人とか」
「存在するかもしれないね」
「川にいけば河童がいる?」
「いるかも」
「お化け屋敷には幽霊が?」
「いるかも」
「探しに行こう」

二人はお化け屋敷に入った。終末まで暇を持て余した幽霊達によってお化け屋敷内は混雑していた。
「幽霊が多すぎる」
「想像していたのと少し違う」

それから二人は観覧車に乗って地平線を見た。
「この景色がもう無くなってしまうなんて」
鳥が飛んだ。
鳥も草木も動物たちもあと数刻で滅ぶ。

霊界ラジオで人権擁護団体の記者会見が始まった。

「我々は勝利した。幽霊政府の欺瞞を暴き、人権を回復した。」
幽霊政府が開発した選別機械に欠陥が見つかった、とラジオが言った。
新たな測定機械は人権擁護団体の抱える技術者が既に開発を終えて実用の許諾を得たらしい。

「どういうこと?」鉄郎は尋ねた。
「俺たちの移民が認められるかもしれない、ということ」樺林は言った。

観覧車が大きく揺れた。
また、幽霊列車が爆発したようだった。
「花火のようだ」鉄郎は言った。
幽霊達が花火の中に果敢なく散っていく。

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深夜の駅には再び幽霊たちが集まっていた。
新たな選民測定機械の使用が開始したのだ。

デモをしていた人権擁護団体の一派は勝利のプラカードを掲げて、更なる闘争に向けて街宣活動をしていた。

長蛇の列の最後尾に鉄郎と樺林は並んだ。
こんなに長い列が作られて、地球の滅亡に間に合うのかな、と鉄郎は言った。そう言いながら、長蛇の列はまだまだ伸びていく様に見える。

空からは撥々と不穏の音がし始めていた。小さな雷状の電流が空を駆け抜ける。そのような発光が幾条も黒い空を駆け抜けるのだ。
こんなに悪天候でも列車は出発できるんだろうか、と言った鉄郎の言葉を雷鳴が消した。
樺林は無言だった。その無言の顔を雷光が照らした。夜空を走る紫電と止まない雷鳴が幽霊たちを不安にさせた。

それでも鉄郎が見ている傍から幽霊列車は出発した。
爆発はしない。だが、それは目視の上であって、宇宙航空中に爆発や不具合を起こす車両もあるのかもしれない。本当にあのような杜撰の代物が第四惑星に到達することが出来るのだろうか。

「宇宙空間で爆発する車両も多いから辿り着くのは全体の九割らしいよ。」と樺林は言った。
「一割は辿り着かない?」
「昨日のラジオで説明されていた。今まで幽霊政府が宇宙空間での爆発事故を隠蔽していたらしい。」
「何故、そんな大切なことを?信じられない。我々には知る権利があるのに。」
「それで人権保護団体が言うには幽霊列車の乗車許可民が増える代わりに事故の発生確率が上がって、火星に到達する列車は今後八割に減るだろうと。そのうちの一割が火星への着陸に失敗して炎上するという予想をした技術者もいる。」
「無事に火星に着いた幽霊はどれくらい居るのさ」
「火星との通信手段が確立していないので、分からないらしい」
「もしかしたらゼロかもしれない?」
「流石にそんな事、無いだろう?」

「火星に住み始めた人類に撃ち落とされていると嫌だなあ」
「人類もそんなに殺伐とはしていないと思うけれど」
それは楽観論だ。と貂川鉄郎は思う。

亦た、上空で列車が爆発した。
空の近いところで爆発したようで鉄郎たちに火の粉が降ってきた。

電磁波が乱れている。
幽霊列車は爆発を繰り返し、スペースデブリが量産され、新たな脅威となる。
月の重力の影響を受ける。
このような状況で地球脱出は本当に可能なのだろうか。

「現に出発しているんだ。可能なんだろう」と樺林は言う。
やはりそれも幽霊特有の楽観論に過ぎない。

地球はきっと寂しいのだ。自らの手元から生命体が離れていく。だから我々を作ったし、我々の妨害もするのだ。そのように鉄郎は思う。

犬のような恐竜が絶滅して、その後に犬という生き物が生まれたように、人類が消えた後には人類のようなものが生み出される。種の誕生とは生きる事の本能と、競争と淘汰の結果だ。だが、それらの生存競争がすべて地球の手掌の上で行われる事は、西遊記の空飛ぶ猿が大釈迦の掌を抜ける事が出来なかった逸話に似る。

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新しい検査機を導入した事で、不適格者にはその場で理由が申し渡されるようになっていた。
「精神の下劣です。」 
とある不適格者に駅員が言った。
「下劣とは何だ!」男は猛った。

別の欠格者には駅員が「深層心理が暴力的」と宣告した。

理由が開示される事に配慮がない。
知る権利の行使とはそういうものでは無いだろう。相変わらず幽霊の世界は粗雑であった。これもまた人権擁護団体の勝利が齎した獲得物のひとつであるのかもしれないが、鉄郎は以前の方が好きだった。
樺林の順番が来て、測定機械は間延びした警告音とともに不適格を示した。
「理由は言わなくて良いよ」樺林は言った。

そして。
鉄郎の測定も結果は不適格であった。

「あ」
測定結果を見た駅員が言った。

「なに?」鉄郎は言った。

「君はまだ生きてる」と駅員が言った。

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鉄郎の肉体は生きていて、いまの鉄郎は生霊のような状態らしい。
測定機械は死者の適性を測るので、生霊たる鉄郎は不適格になってしまうと駅員は説明した。以前の粗悪な測定機械では其の状況は分からなかった。

「病気や怪我をして病院に入院している人には時折あるようだよ」と駅員は言った。

「どうしたら良い?」
「生きてるんだから、生者の宇宙船に乗りたまえ」
「俺の肉体は何処に?」
「病人や怪我人は優先して火星に送られたのだ。恐らく火星の何処か、きっと病院に入院して居るのだろう」

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鉄郎は生者の最終便に乗るため、樺林は其れを見送るため街道を歩いていた。鉄郎は見送られる事を遠慮したが、樺林は引かなかった。

「樺林さんはどうして不適格になるの?」と鉄郎は聞いた。
「そうだなあ」と樺林は気のない返事をして答えをはぐらかせた。

それから暫く無言で歩き、二人は宇宙空港に着いた。
大半の人類が火星に移民を終えていて、地球最後の日まで残った人類は数少ない。幽霊列車の混雑とは対照的に空港に集まった人々は疎らであった。
空港のエントランスで遠目に鉄郎は樺林の妻を見つけた。彼女も鉄郎と同じ便に乗り、火星で新しい生を獲得するのだ。
樺林に奥方のいることを伝えようと思ったが、鉄郎は止めた。もしかしたら、樺林も気付いていて何も言わないのかもしれない。

出発の時間が近付く迄、二人は展望スペースに上がって打ち上げ予定の宇宙船を見ていた。宇宙船は細長い流線型で直立していた。その姿が鉄郎には鳥の羽根を思わせる。死者を裁くと云われるマアト神の羽根。
宇宙船を観に数人の生者が展望スペースに来ては去った。

未明の空は重なる紫電によって激しい明滅をしていた。
その下に聳立する宇宙船を、分かたれた二人の運命を、鉄郎と樺林は無言で見つめた。

館内放送で搭乗を促すアナウンスがされた。
間もなく鉄郎は火星に向けて出発し、樺林は滅亡の地球に残される。

「じゃあ」と鉄郎は言った。
そして樺林を見た。


「子どもが死んだ日は雨が降っていて。」


と、樺林は言った。
「傘が、盗まれたんだ」


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その日は曇天が雨に変わり、雨は止みそうに無かった。
俺と子供は傘を閉じて本屋に入った。子どもに絵本を買ってやると約束したのだ。空調が効きすぎて、雨に打たれた身が寒い。子どもがゆっくりと本を選んだ。うさぎの子供の話が気に入ったらしい。うさぎの子が母親から逃げようとして、母親がいつもそれを摑まえる話。子どもを摑まえる母に優しさがあった。

本屋から出たら、傘が無かった。

あ、と子どもが叫んだ。
あのひとが傘を持ってっちゃった。

若者が俺たちの傘を差していた。傘泥棒だ。

待って!

子どもがその若者を追いかけた。

その子供を車がはねた。

子どもが雨の路上に転がっていた。人が集まり始めた。傘を盗んだ若者は振り返り、その光景を見た。表情は無かった。関係が無いのだ、彼には。転がった子供の事など。彼は無表情のまま雨の雑踏に消えた。

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また、
幽霊列車が爆発した。

火の粉が樺林に、鉄郎に降った。

「君は覚えているか。君が盗んだ傘と、それを追いかけた女の子の事を」
と樺林は貂川鉄郎に言った。

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樺林は展望スペースから宇宙船の出発を見送った。

終焉が近い。
空に雷光が走る。昇り始めた旭日が、東の空を赤く染めた。
月が空を覆っている。
月の落ちてくる音が、大気を鈍く震わせる。

展望スペースのベンチに樺林は腰掛けた。

その隣に座った者がある。
樺林の妻であった。
彼女は宇宙船に乗らなかったのだ。
樺林の隣に来たのは偶然であった。
彼女に樺林の姿は見えないのだから。

月が燃え始めた。
大気と摩擦を起こしているのだ。

終焉を待つ。
樺林は無言だ。
その妻もまた。

終焉を待つ。
発火する月が気温を上昇させる。
その月に向かって飛び立つ幽霊列車が次々爆発する。

終焉を待つ。
樺林と妻に幽霊列車の火の粉が振りかかる。
世界が赤く燃え始めた。

終焉を待つ。
月魄が落ちてくる。

終焉を待つ。
無言だ、何もかもが。

終焉を、
待つ。



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《劇終》







(短編小説「終焉」村崎懐炉)



#小説 #ネムキリスペクト #明日地球が粉々になっちゃうんだって #眠れぬ夜の奇妙なアンソロジー



最後にリンクした曲は名古屋の最高に格好良いシンガーソングライター「奥西菓折」さんの「その男、星になれず」。ノストラダムスをテーマにした曲。名曲です。ビデオの制作はtetsuさんです。いつもリンクを貼らせて頂きましてありがとうございます。

この曲はYouTubeでLIVE版も公開されていて、そちらの方もPV版とは異なる魅力を放っています。是非探してみて下さい。

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(歌詞抜粋)

この世の終わりを予言したのは一人で死ぬのが嫌だったからか。医師であり星を愛した男が詩人だったなんて本当かしら。

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#奥西菓折 #tetsu