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短編小説「ダイ・ア・リトル、ダンス・ザ・タンゴ」



「序」

タンゴ。

4分の2拍子、或いは8分の4拍子。

文字盤にガラスが嵌め込まれた懐中時計は、ガラス盤に透けて精緻の歯車が半回転を繰り返し乍らタンゴのリズムを刻んでいる。

或いは、俺の拍動も。

タンゴ、タンゴ、君とタンゴを踊ろうよ。
この世はタンゴで出来ている。

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僻村の葬儀場は黒服の男達の殺気に満ちていた。
殺気は彼等の怯懦であった。彼らは怯懦の怒涛によって理知外の沖波に連れ去られまいと、必死に殺気を帯びるのだ。

斎場に安置された男は黒服の男達が慕う兄貴分である。立浪組という田舎任侠の若頭補佐であった、あくまでも生前は。
立浪組はQ県ZET地区の古豪の極道であったが、新進の敵対勢力に押されて衰退の一途を辿っていた。兼ねてから敵対していたのは川端組、川端組から分派した新興勢力の大泉組。勢力は三つ巴で膠着をした。表向きはZET地区裏社会に於ける勢力図の平穏を保つ為、ZET地区の任侠が集まる年末のボウリング大会は恒例行事で、敵対しながらも保身を願う各組の組長、本部長、若頭に若頭補佐を加えた四人でチームを組んで参戦する事が通例であった。
その日。
今年を締め括るボウリング大会に於いて、立浪組の敵対勢力である川端組の組長の愛娘が、流行り風邪で欠場した本部長の代わりに偶々数合わせで参加して、立浪組若頭補佐、鱧宮骸骨と霹靂の恋に堕ち、大会の途中二人抜け出して横死した事が事故であったのか心中であったのか、その分析は事後に行うものとして、今や本日の時点で故・立浪組若頭補佐鱧宮骸骨の葬儀に参列する立浪組の若衆達は愛娘が鱧宮骸骨に殺されたに等しい、と考える川端組組長、川端秋邨からの復讐に恐々と怯えるのであった。

「死体、見ましたか?」
外の警固を固めていた帆立凱が兄貴である荒磯則夫に尋ねた。
「いいや」
荒磯は答えた。その返答に愛想が無かった。
緊張しているのだ。軽口を聞いて気を緩めたく無かった。
「まるで生きているかのような、死体らしいですよ。」
帆立凱が言った。
「其れ、エンバーミングって云うんだよ」
死体を洗った後に機械を使って血管に防腐剤を注入しながら血液を押し出す。凝固した血液成分と防腐剤をそっくり入れ替えて毛細血管の隅々にまで防腐剤を浸透させるのだ。その後、腹部に穿孔して胃腸の残渣物を吸引し腹腔にも防腐剤を入れる。またシリコンを注入して乾燥による陥没部を整形する。傷があれば縫合して修復する。
「防腐剤に色素が含まれていて、皮膚に生きてるような赤みが差すんだよ」
説明しながらも荒磯は警戒を解かない。臨戦している。警戒心から懐の銃のグリップを強く握った。

腐らない死体。まるで、生きているような。
慄っとする。荒磯は思った。

帆立凱がくしゃみをした。
荒磯は破裂音に反射して咄嗟に銃を弟分に突き付けた。
帆立は慌てて両手を挙げた。
その姿を見て勘違いである事が分かった荒磯は、自分の弟分を銃の台尻で小突いた。
その拍子に銃が暴発して三間離れた所にいた組員、フグ田の背中を撃った。それをカチコミと勘違いした組員達は銃声の破裂音がした方向、つまりは荒磯と帆立の兄弟に向けて銃を構えた。

撃たれた組員フグ田は組の抱える闇医者に運ばれた。内科、外科、泌尿器科まで診察できる頼りになる医者だ。どんな死に方をしても穏当の死亡診断書を作成してくれる。この度の二人の横死も事件性を帯びなかったのは彼のような闇医者が死因を心不全とした為である。
そんな笑い話も含みつつ、組員達は一触即発の殺気を孕んだまま、通夜の時間を迎えようとしている。

その緊張は葬儀場のスタッフ達にも伝播した。
「最悪の客です。」
葬儀場の新人である柿本木蓮は言った。

「命賭けの仕事なんだよ。」
その先輩である松村М太郎は言った。
「そんな仕事とは聞いてない」
柿本は言った

「言ったろう?俺達は命を扱っているんだ。」
松村は言った。

取り沙汰されるのが自分の命とは思わなかった、と柿本は思った。

「なんでウチなんですかね」
柿本のいう「ウチ」とは当会館「おもいで葬祭ジェット会館」の事である。
代表取締役はQ林漸次。
スタッフは主任の松村M太郎と営業職の新人柿本木蓮の二名。
老舗であるが、大手の葬儀場に押されて今や廃業寸前である。
柿本の云う「ウチ」という言葉には「ウチのような廃れた葬儀場」という卑屈の念が込められていた。

「今回は会場だけだから」
と松村は言った。
葬儀会社は葬儀の一切を取り仕切る。
通常「ジェット会館」で葬儀を行うのであれば、埋葬火葬許可などの行政手続き、遺体の搬入、防腐処理、宗教家との調整、通夜葬儀、火葬、納骨、その後の四十九日と年忌法要の「一切」をジェット会館が請け負うが、この度の葬儀ではジェット会館側は通夜葬儀の場所を貸すだけ。一切を仕切るのは故人が入信していたらしい新興宗教の導師である。
「自分たちの寺でやれば良いじゃないですか」
柿本は言った。
「そういう集会所がない宗教らしいよ」
「そんなのありますかねえ」
「最近は密葬、直葬も多いからね」
「いづれ葬式なんて無くなるんですかねえ」
費用の嵩む葬儀が敬遠されて、家族葬などの小規模葬、自宅葬が行われることも増えた。
それが大ホールしか持たない「ジェット葬祭」衰退の原因でもあった。大ホールを使った大規模葬儀は費用が嵩むため、不人気であった。
遺族によっては葬儀も行わず、火葬と霊園への納骨のみ行う直葬を希望する家も増えた。
宗教家が介在しないまま、人間が墓に入る。墓の形も様々で管理が無用な共同墓地式の樹木葬、ロッカー型の納骨堂、永久墓。簡易な墓の需要も増えた。
そのような客層に対して安価な葬儀、埋葬をウリにする葬儀会社や宗教も増えた。
「ジェット葬祭」を指名したのは故人が入信していた新興宗教「ナックル教団」である。
村松も柿本もこの町の出身であるが、そのような名前の宗教は知らない。

「なんでウチなんですかねえ」
柿本は言った。


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「なんでこんなところで」
搬送されるフグ田を見ながら帆立は言った。
田舎と雖も設備が新しく清潔感のある大手の葬儀場が進出している。
こんな古びた会場を使わなくても。
「色々あるんだろ」
荒磯は言った。
「色々あるんだよ」
と背後で声がした。
荒磯と帆立は頭を下げた。
「詮索は止しなよ」
組の若衆を取りまとめる若衆筆頭、粟野国男である。
粟野は葬儀場の内外を巡回している。
常に外に立って寒冷に晒される荒磯や帆立たちとは立場が異なる。
「お疲れ様です」
荒磯は言った。
「まあまあ」
そう言って粟野は歩き去った。
若頭補佐が死んだ今、次期の若頭補佐には粟野国男が就任する予定だ。
組長を始め、役員の高齢化が進んだ立浪組では若頭補佐の立場が組員の指揮権を握る。

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「色々あるんですか」
粟野国男に部下の蛯名黒大が尋ねた。
「色々あるよ」
粟野が言った。
「自分もよく知らないけれど」
「あの胡乱な男も?」
「誰?」
「宗教家の」
「ああ」
奇妙な葬式だ。
と粟野も思う。
葬儀場に葬儀を任せず、行政手続きまで教団が代行する。
葬儀場は町の中でも老舗の、粟野も名前は聞いたことのあった会場だが、本葬を取り仕切る新興宗教「ナックル教団」の名前は知らない。

「今日はよろしくお願いします」
白手袋の男に挨拶をされた。
葬儀を取り仕切るナックル教団の導師を名乗る男、三川十王である。
「ああ」
と粟野は言った。
「あとで御遺体をご覧になりますか」
三川十王は言った。
「先ほどご兄弟の方もご覧になって喜ばれておりました」
「ああ、聞いたよ」
エンバーミングを取り仕切ったのもこの男であった。
「腕の立つ職人を抱えておりますので何かの折には。どんな死に方をしても活きの良い死体に仕上げますよ」
冗談のつもりなのか、三川十王はヒヒと笑った。

「いかがわしい男ですね」
蛯名が言った。


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葬儀場館長Q林漸次が組の若衆に絡まれていた。
花輪の札の名前が間違っているらしかった。
「お前が責任者か」
ヤクザが言った。
「大変失礼致しました」
と言ってから、Q林漸次は真っ直ぐに柿本の下へ歩いて彼の頭を叩いた。

「馬鹿野郎」
名札の名前を間違えたのは柿本の仕事であった。
「粟野の字が違ってる」
松村は名札を見た。
「泡になってますね。立浪会若頭筆頭、泡の国男、風俗みたいな名前だ。」
「粟野だ」Q林は言った。
「あわ?」柿本は言った。
「西に木だ」松村は言った。
「早く直して来い」Q林は言った。

pcに向かって作業しながら柿本は言った。
「Q林さん、機嫌悪くないですか?」
「取り仕切っているのが、宗教家だからやりにくくて苛々してるな」
「ああ、殆ど向こうの取り分らしいですね」
「そこに昨日の夜にホトケが続いて寝れてないらしい、西に木ね。昨晩は此処に泊まりだってさ」
「へえ」
「休めないまま、今になってるからさ、西に木ね。気が立ってるんだよな」


即刻印刷して届けられた名札の印字は西に木と書いて「栗野」であったので、Q林は再び組員と揉めた。

「粟野だと言ったろう」組員はQ林の胸を押した。
「舐めてんのか」組員は言った。
「腐れ葬儀屋が」組員は言った。
「うるせえ」Q林は言って組員の胸を押し返した。

松村と柿木は暴れだしたQ林を止めなければならなかった。
組員をかき分けて二人はQ林を輪の外に連れ出した。
「こちらはホトケを預かってんだ」
Q林は言った。
「オタクのホトケは成仏させねえぞ」

それを聞いて怒気を帯びた若衆たちが再びQ林に突進した。
松村と柿木はQ林を連れて奥へ逃げた。
「地縛霊にでもなりやがれ!」
Q林は尚も捨て台詞を吐いた。





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短編小説
ダイ・ア・リトル、ダンス・ザ・タンゴ
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Q林は「離せよ」と抗ったが、抵抗虚しく館内の小部屋に閉じ込めれらた。
「社長、少し落ち着いて下さいよ」
締められたドアの向こう側で松村が言った。
至極最もな意見だと、Q林にも分かっていた。
霊安室であった。
Q林の目の前に、葬儀を待つ棺桶がひとつある。
死者への畏敬が彼の職業意識である。
「すまない」
松村はホールに戻った。

Q林は襟を正して死者に合掌した。
Q林漸次は当館「おもいで葬儀ジェット会館」の代表取締役である。
彼の職業意識は弔いにある。

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粟野は腕時計を見た。間もなく会場が開く。襲撃はあるだろうか。弔問客も増えてきた。
本当は身内だけで密葬にしたかった。だがそれを任侠の体裁が許さない。

「襲撃はあると思う?」
立浪組若衆筆頭の粟野国男は一歩後ろに付き従う部下の蛯名黒大に尋ねた。
「どうでしょう」
蛯名は言った。関心が無い訳ではない。粟野国男の側近蛯名黒大は余計な口は利かない。
「あるとすれば何時だろう」
また粟野国男は尋ねた。
「骨上げですかね」
蛯名黒大は答えた。
それも面白いと粟野は思う。
骨上げの最中の襲撃。
収骨室が真っ赤に染まる事だろう。

だが。
「火葬はないらしいよ、信仰上の都合で土葬だってさ」
信仰は自由であるが、ウチの若頭補佐は余程奇態な宗教観を持っていたようだ。
ガラスを隔てて館内を覗くと祭壇が見える。
祭壇の中央に若頭補佐の写真が飾られている。眉毛の無いリーゼント姿の故人が笑っている。
死人は気楽だ。と粟野は思った。

こんな田舎ヤクザに潰し合いの抗争が始まるのかしら。立浪組、川端組が争って疲弊すれば新興勢力大泉組に潰されるかもしれない。それなら大泉組と一緒に川端組を潰すのは?
いや大泉組はどちらにも加担しないだろう。抗争は泥沼化する。沢山の人間が死ぬ事になるな、粟野は思った。

長らく忘れていた感覚であった。平和が長過ぎた。

それも悪くない。
立浪組若衆筆頭、粟野国男は思った。

「本当は密葬にした方が」
蛯名黒大は言った。
「密葬は駄目だよ」
粟野は言った。こんな時だからこそ通夜も葬儀も行わなければならない。密葬にしたら立浪組は襲撃を恐れて逃げたと吹聴される。
「ヤクザは体裁失ったら終わりだよ」粟野は言った。

「体裁」
自分で言った言葉に引っ掛かる。体裁だ、単なる。
葬儀も、生きているような死化粧も。
「死体、見た?」
「いいえ」
「生きてるみたいだ、と評判だよ。」

開場して葬儀場の職員である松村M太郎と柿本木蓮は受付係になった。
Q林漸次は会場で弔問客を誘導している。
「意外としっかりやってますね」
柿本は言った。
「当たり前だよ」
松村は言った。
「プロだよ」
先程の客商売に有るまじきQ林の激昂はとてもプロには思えなかった。
「司会もQ林さんですか?」
「今日は外注。杉原さんね」
葬儀を進行する司会には相応の技術が求められるため、司会業の斡旋業者に外注する事が多い。
杉原という司会は柿本も知っていた。数回、彼女の司会を見た。
「僕、杉原さんの司会、好きですよ。艶がありますよね。」
「葬式で艶があってどうするるんだよ」
「いま、ちょっと洒落て見たんですけれど分かりました?」
「分かんねえよ、バカ」

断続的に来る弔問客に記帳してもらい、香典を受け取る。香典は後ろに控える組本部の局員に渡す。局員は額面を勘定して手提げ金庫に入れる。松村と柿本は香典返しを渡す。
柿本は弔問客が香典ではなくピストルを取り出す事を想像して震えた。
弔問客が胸元からピストルを取り出す。柿本に銃口を向ける。
それに気付いた背後の局員が早撃ちにピストルを撃つ。その弾が柿本の背中に当たる。殺し屋の銃弾もまた柿本の胸骨を貫く。
背後の局員は尚もピストルを撃ち続け、手前の殺し屋もピストルを撃ち続けた。銃弾は全て柿本に当たる。という想像。


女の、怒号が聞こえて、柿本は我に返った。

表玄関の方である。
柿本は松村を見た。松村はQ林を見た。

表玄関が開かれて弔問客の身体検査が行われていた。
女が組員と揉めている。

「あたしはここのスタッフだと言ってるだろ」女が言った。
「そうは言っても例外は無いんです」組員が答えた。

「あんた達のルールなんて知るか」と司会業の杉原龍子女史は答えた。

「触るな」
杉原龍子は組員に言った。
そこにQ林が割って入った。
「確かにウチの職員だ。俺が保証する」
「疚しい事が無ければ、調べさせて下さいよ」
組員は言った。
「疚しい事も無いのに調べられて溜まるか、クソッタレ!」

「あんなに口が悪くて司会が務まるんですか」
柿本木蓮は言った。
「まあ、務まるよ、ある程度は」松村M太郎が言った

すみません、すみませんと言いながらQ林は杉原龍子女史を会場に入れた。

「てめえらのホトケは成仏させねえぞ」
杉原龍子は男達に向かって喚いた。

「あの啖呵流行ってるんですか?」
柿本は松村に訊いた。

「地縛霊になりやがれ」
杉原龍子は喚きながら、事務所に連れて行かれた。

入場した弔問客達はホールの席に着席した。
遺体を納めた棺の上蓋には観音扉があって、扉を開くと故人が見える。
希望があれば観音扉を開けて故人を拝む事が出来た。
遺体の傍にいる男が、扉の開閉に対応していた。

「あの人は?」
柿本は尋ねた。
「ナックル教団の導師だって」
松村は答えた。
「ああやってエンバーミングの自慢ばかりしてる」
其れがあまりに露骨で松村の目にはエンバーミングの営業にしか見えない。
松村も先程遺体を拝ませて貰った。確かに生きているようだった。赤みの差した遺体は目を瞑り、白スーツを着用していた。今にも動き出しそうだ。美しい死体、という浪漫が松村にも分からないでは無いが。
「アイツは好きになれない」
松村は言った。

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実は。
川端組の三下見習いであるチンピラ、葦原カミートは仇敵の葬儀を破壊するため既に会場に潜入していた。

葦原カミートが川端組から命令を受けたのは昨晩の事であった。
「殺す訳じゃないから」
と川端組の構成員、猫成一誠は言った。
そう言ってから猫成が懐から取り出したものは写真とピストルであった。
「適当に引っ掻き回すだけ。やり方は何でも良いよ」
取り敢えず一発撃って、アイツらが慌ててくれれば良い。
「但し、奴らに捕まるな」
猫成は煙草を取り出し、口に咥えながら言った。
「捕まったら?」
葦原カミートは尋ねた。
猫成は懐からピストル型のライターを取り出した。火力を上げた改造品だ。
引鉄を引くとバーナーの如く火柱が立った。
「死ぬよ」
煙草に火を点けて猫成は言った。
テーブルの上にはピストルとピストル型のライターが並んで置かれた。よく似ていた。
だが、それらは違うものだ。


「似てるな」
猫成は言った。葦原カミートは猫成を見た。
猫成は葦原カミートを見ていた。
「コイツと」
猫成は写真を示した。立浪組若頭補佐、鱧宮骸骨がボウリングシャツを着て笑っていた。三日前のボウリング大会の写真で、鱧宮が五連続ストライクを取った時の写真であった。
それから猫成は葦原を指さした。
「お前」

「そうですかね」
「雰囲気あるよ」
「こいつ眉毛ないっすよ」
「お前も眉毛剃ればもっと似てるよ」

明日の景気付けに、と行って二人は夜街を歩いた。
ショーウィンドウには夜の街並みと葦原カミートが映っていた。風体が冴えない。
「明日はどんな服を着たら良いと思う?」
カミートは猫成に尋ねた。
「ビシッとキメろよ、ヒットマン」
カミートはテーラーショップに入って白いスーツを買った。
「どう?」
白いスーツを着たカミートは猫成に尋ねた。
「ハハハ」
猫成は笑った。

それから二人はマジックミラーバーで浴びるようにジンを呑んだ。
マジックミラーが透けて、向こう側に下着姿の女達がいた。
水族館のように。
葦原は女達を見て、酒を飲んだ。
「ヤクザは体裁を失ったら終わりだよ」
猫成は言った。
その言葉を聞きながら、カミートはまたジンを煽った。
マジックミラーの向こう側で、熱帯魚のような女達が哄笑した。

その勢いで葦原はひとり、ジンを片手に未明の葬儀場に下見に来た。
玄関は開いていた。
ダウンライトで会館の中は仄かに光っていた。
人の気配は無かった。

彼はジンを煽った。
月が出ていた。

人間関係の縁故が薄い葦原カミートは、葬儀場というものに来たことが無い。
アルコールと好奇心が彼を蛮勇にした。
ホールでは既に葬儀の準備は整っていた。
中央の台に棺桶が置かれるのだろう。
生花と供物と花輪が並んだ真ん中に遺影が置かれた。
そんなに似てるだろうか。
先程言われた事を思い出した。
眉毛の無いリーゼントの男が銀幕スターのように角度を決めて笑っていた。
立浪組若頭補佐、鱧宮骸骨。
対して、葦原は友人がひとりもいないチンピラである。日頃はアイスクリームバスでアルバイトをしている。
葦原カミートは猫成から受け取ったピストルを遺影に向けて構えた。

構えて見て分かったが、間違えてピストル型のライターの方を持ってきてしまった。
グリップの窓にオイルが波立って揺れていた。

引鉄を引くと銃口から火柱が立った。火柱の猛火が彼の前髪と眉毛を焼いた。

その時。

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物音がした。
Q林は祭壇のあるホールに向かった。
誰もいなかった。
眉毛の無いリーゼントの男が遺影の中で笑っていた。


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葦原カミートが隠れた先は遺体の安置室であった。
安置室に二つの木棺が並んでいた。
廊下の足音が近付いていた。

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そして、今。
葦原カミートは木棺の中にいて、通夜の儀を受けていた。
何故、そうなったのか。彼にも分からない。

未明に。
彼は葬儀場の黒服に見つかる事を恐れて咄嗟に木棺の蓋を開けた。
木棺には死体が入っている。と葦原は想像していたが、想像に反して木棺は空であった。その空の木棺に葦原は隠れた。
木棺の中で彼は耳を澄ませた。
足音は安置室の扉を開けて、いつまでも離れなかった。
彼はひたすら待った。
待って、そのまま眠って仕舞った。

起きたら、通夜が始まっていた。棺桶の扉が開いていて、天井が見えた。

読経が聞こえる。

誰もが寝ている彼を死んだ若頭補佐と信じたらしい。

何故誰も気付かない。

確かに葦原は恋人から「死んだように眠る」男だと揶揄された事がある。眠っている間、葦原は硬直して微動だにしない。

だからと言って間違えるだろうか。
彼が入ったのは空の木棺であった。本物の鱧宮骸骨の死体は何処にあるんだろう?もう1つの木棺に入っていたのだろうか。だとすれば、安置室を調べたら、此処に寝る俺が偽物だと安易に発覚してしまう。遺体に間違えられて供養されている彼の命は幾つか重なった偶発的事象によって保全されていたが、その保証は鼻紙の薄さに等しい軽薄である。

葦原は葬儀を攪乱する命令を受けたが、葦原自身が今や攪乱の只中にある。

読経の最中ではあるが、葦原がコンニチハと起き上がれば葬儀は攪乱するだろうか。
「コンニチワ!ボクだよ!」
撹乱するかもしれないが、彼は黒服達に忽ち囚われるだろう。

そうであるなら、と葦原カミートは考えた。武装した参列者達の前にサプライズに飛び出るのは得策では無い。
このまま通夜の儀が終わるまでこうして棺桶の中に寝ていたい。

だが。
川端組は其れを許さないだろう。もし、俺が何もせずに帰る事をすれば、俺はどうなる?

「ヤクザは体裁を失ったら終わりだよ」
昨晩の猫成の言葉を思い出した。真理であると思った。葦原カミートは体裁の為に此処にいた。
面子を潰された川端組は俺を許さないだろう。
殺されるだろうか。

川端組がこの度の襲撃に直截の組員を使わずに、三下見習いである葦原カミートを用いた事には理由があった。
川端組の名前で襲撃すれば、当然両者は戦争になる。
体裁の戦争には終わりがない。泥沼になる事が目に見えている。
ZET地区には立浪組、川端組、大泉組の三勢力が拮抗している。立浪組、川端組が抗争すれば力の弱まった二者をあわよくば蹂躙しようと大泉組が画策するのだ。

愛娘を失った組長が憤怒の極に達して全組員にカチコミを命じた時に、子分たちは鬼哭して其れを止めた。
戦争して滅ぶ訳にはいかない。

川端組の盃を受けていない三下見習いが襲撃すれば、川端組としてはシラを切れる。
立浪組も川端組の指示だと分かっていながら、追及は出来ない。其れが精々の落とし所であった。

だから葦原カミートが失敗すれば、組長の怒りは葦原カミートが負う事になる。
殺されるだろうか。
殺されるよりも酷い事をされるだろうか。
愛娘の死んだ悲しみを慰める為に、組長は俺を人類の考える最も凄惨な惨苦に遭わせるだろうか。


かつて葦原カミートは組長を裏切った部下が組長の飼育する熱帯魚の餌になりながら十日を掛けて死んだ話を聞いた。
熱帯魚が小さい事と、殺される男の旺盛な生命力の所為で予想外に時間が掛かったのだと云う。肉食魚の水槽に半身を沈め、見る間に男は凄惨の死を遂げる、との想像で残酷ショーは企画されたが、数刻経っても遅遅と進まぬ残酷ショーに組長を始め幹部たちも自らの方針の失敗に気付いた。だが、言い出した手前、方針転換を言い出すことに抵抗があった。いつかは知れないが、いつかは死ぬ。だから、此れで良しとされた。
初めの頃は組長も定期的に男を訪れたが、次第に飽きた。興味を失って様子も見なくなり、放置されるまま男は死んだ。

葦原カミートは死んだ事が無いので分からないが、嫌な死に方だと思う。
死んだ男は殺されるにも関わらず飽きられて忘れ去られた。何の為に殺されるのか、理由も無くして死ぬことに、存在価値を無くす事にひとつの殺人があって、忘却さるる事にまた殺人があって、肉体の死に至るまでに男は幾度も殺されたのだ。

何とかしなくちゃいけないぞ!
葦原カミートは思った。
ここから脱出する事。それから、川端組の自尊心をサティスファクションする事。
これを葦原カミート同時に行う必要があった。

艶っぽい婀娜な司会によって通夜の儀は粛々と進行した。

若衆筆頭の粟野国男は襲撃に備えて極限の緊張を纏っていた。それは筆頭補佐の蛯名黒大や、若衆古参の荒磯則夫、その弟分の帆立凱にとっても同じであった。襲撃は必ず来る、彼等は彼等特有の霊感によって、確信を感じていた。

杉原龍子女史の澱みない進行により通夜の儀は粛々と進行して粛々と終わった。

終わった!

葦原カミートは思った。思案ばかり巡らせて何もしないまま終わってしまった。例えて言うなれば無辜の死体。それが、今の彼であった。

それはそれとして。
葦原カミートは生きんと欲する決意が焔となって燃えている腹底の蠕動運動に不穏を感じて身を捩らせた。

トイレに行きたい。
彼はそう思った。緊張してお腹を壊してしまった。
括約筋を締めて彼は激甚に波立つ生理反応に抗った。全身が不如意の硬直をした。屁が漏れた。
腹底に憤怒の不動明王を納めて彼はまた身を捩らせた。

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葬儀場スタッフの松村M太郎は通夜を終えて簡素の後片付けを始めていた。
Q林と柿本は弔問客に渡す通夜振る舞いの仕出しをしていた。

本日の帳簿を付けて事務所から出た松村は、便所の前で不審の男に遭遇した。

松村は我が目を疑った。
「生きているかのような死体」が、生きている!

松村は暗い廊下を照らすためにモバイルフォンを取り出して、照明のボタンを探した。点灯した照明で廊下を照らした時にはもう廊下には誰もいなかった。

先程の男は今日、棺に収まっている人物、立浪組若頭補佐、故・鱧宮骸骨であった。
先程、棺桶の中で見た男に間違い無かった。それが、手洗いから平然と出てきた。
そして消えた。

M太郎は祭壇の棺桶に向かった。
合掌して、蓋についた扉を開けた。
棺の中から死体が消えていた。

「死体が無くなった」
松村M太郎はQ林に言った。

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通夜が終わった報せを受けて荒磯は漸く今日一日の緊張を解いた。
生きているようだと評判の遺体を見に行こうかと表玄関に向かった時に建物の角から出てきた男に衝突した。
「パルドン」
男は言った。

「気をつけろ」
荒磯は言った。ぶつかった拍子にピストルが落ちた。荒磯の銃は調整が悪くて暴発癖がある。
暴発しなくて良かった。
荒磯は思った。
彼は落としたピストルを拾った。

男は立ち去った。
白いスーツを着ていた。

荒磯は若頭補佐の遺体を拝みに行くことにした。
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Q林は死体が無くなったことを隠蔽しようと数刻を奮闘したが、御遺体との面会を希望する組員たちが押し寄せ、到頭秘密は暴露された。
間もなく日付が変わろうとしていた。
一瞬前まで棺に安置された死体が、一瞬後に忽然と消えた。そのトリックは誰にも分からない。
ただ、死体が盗まれたという事実だけが此処にある。

「死体が生き返ったんだ」
松村は言った。
「そんな筈があるか」
荒磯が言った。
組員たちによって管内の隅々が捜索されたが、死体は何処にも見当たらないのであった。
「川端組に攫われたんだ」
と、結論するしか無かった。

「責任を取れ」
粟野は言った。

「どうやって」
Q林は言った。
死体が盗まれたとして、盗まれた死体が何処にあるかなど見当の付けようがない。

蛯名が粟野に耳打ちをした。
「川端組のお嬢さんの死体を攫って来い」
粟野は言った。

「 ヤクザは体裁失ったら終わりだよ 。やられたら、やり返さないと」

柿本と松村は人質に取られた。

「失敗したら、コイツらは観音様になるぜ」
粟野は言った。
「助けてくれ、兄貴!」
松村は悲鳴をあげた。

その時、粟野のモバイルフォンが不穏に鳴った。
粟野はモバイルフォンを蛯名に渡した。

「なんだ」
と、電話に出た蛯名の顔が歪んだ。
「兄貴」
蛯名は言った。
「川端組のお嬢さんの死体が盗まれたそうです」
狼狽の波が組員の間隙を駆け抜けた。
最近は死体を盗むのが流行っているんだろうか。
Q林は思った。
「それ、ウチがやったのか」
「違うと、思います」
「他に死体なんて誰が盗むんだよ」
「分かりません」

「それで?」
粟野は聞いた。報告には続きがある。
「激怒した川端組が戦争の準備を始めたそうです」
蛯名は言った。
粟野は大きな溜息をついた。
戦争の準備を始めたからには、戦争をするしか無い。ヤクザにバックギアは無い。急停止するための制動装置も無い。粟野も覚悟を決めるしか無かった。
「全員に迎え撃つ準備をさせろ」
「はい」

「おい、冗談じゃねえよ。俺達を巻き込むなよ」
Q林は言った。
「悪いなアンタ。報復の手間が省けたぜ」
粟野は言った。

「待て待て」
Q林は言った。
「無くなった死体は俺が見つける。見つけてキチンと両家の葬儀を執り行う。だから戦争は待ってくれ」

「コッチが待ったって向こうは待たねえんだよ」
粟野が言った。
「奴らは何時来るんだ」
粟野は蛯名に聞いた。

蛯名は外を指差した。
「今です」

外に並んだ武装車が一斉にハイビームで葬儀場を照らした。

粟野は目を細めて、外を見た。
瞬間に、銃が掃射されて葬儀場の窓ガラスが割れた。

武装車の前に川端組の組長と思しき男が立っていた。

「娘は何処だ」
「知らねえよ」
粟野は叫んだ。
ライトの中で男が右手を挙げた。
再び銃が掃射されて、ジェット葬祭の公用車がダメになった。
「本当なんだよ」
粟野は言った。
本当だとしても、手遅れであることは同業者である粟野も重々承知していた。

「待ってくれ」
両者の間にQ林が飛び出た。
「二人の死体は俺が見つけるから、戦争は待ってくれ」

「お前は誰だ」
武装車の中から誰かが言った。
「俺は葬儀屋だ。死体が盗まれたのは俺の責任だ」

「必ず葬儀は執り行うから」
「そんな保証が何処にあるんだ」
どちらの組かも分からない誰かが言った
「信じられるか」
誰かが言った
「葬儀屋は引っ込んでろ」
殺気立った男達は今にも引鉄を引くべく対峙していた。
「俺は葬儀屋なんだ!」
Q林は言った。

「成仏させるのが俺の仕事だ!俺が怖いのはウチが引き受けたホトケを成仏させられない事だけだ!任された葬式は必ず終わらせるから、二人の葬儀は無事に終わらせるから、葬式の事は一切俺に任せやがれ!」

光の中の組長は手を下げた。
「明日の朝までだ」

組長に侍る男が言った。
「朝までに見つけなかったらお前たちを潰す」

「やってみろバカヤロー」
粟野が言った

「明日の告別式は10時だ。10時に来てくれ。二人の告別式をジェット葬祭がまとめて執り行う。」
Q林が言った。

武装車は去った。

粟野は蛯名に言った。
「組に戻って戦争の準備だ」

「二人は見つける」
Q林は言った。
「期待はしないよ」
粟野は言った。

立浪組は事務所に帰った。

葬儀場はガラスが割れて寒風が吹き込んだ。

「駐在に言いましょう」
柿本は言った。
「言ってホトケが成仏するか、塩っぱい事言うなバカヤロー」
Q林は言った。

「見つけるアテはあるんですか?」
松村は言った。

「ないよ」
「じゃあなんで…」
「なんか意地になっちゃったんだよ」
「どうするんですか」
「お前達は帰って良いよ」
「そんな訳には」
「いいよ、もうお前たちはクビだ」
Q林は二人を追い出した。

一人残ったQ林は先ず割れたガラスを掃き集めて、掃除を行った。

遺体の無い祭壇の遺影に向かって合掌した。

どうしたものかQ林には全く見当がつかない。
空を見上げた。
月が出ている。

Q林の吐く息が凍った。

月の光を反射して地面で何かが光った。
Q林が光に近付くとヤクザが落としたのかピストルが落ちていた。
本物のようであった。

試しに撃ってみようと構えたら暴発して、目の前に停めていたQ林の車が撃ち抜かれた。
当たり所が悪かったのか車は突如爆発した。
公用車はヤクザによって破壊され、自家用車は何の因果か自らが破壊した。
こうなった以上Q林は移動手段が徒歩しかない。

Q林の自家用車を燃やす業火の陽炎に、松村M太郎が立っていた。
Q林は言った。
「車が燃えて仕舞った」
松村は笑った。

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ジェット葬祭のガレージを開けると長らく使われていない古い社用車がカバーを掛けられていた。
Q林は覆いを剥いだ。
金装飾が照明を反射して燦然と輝いた。
其れはキャデラックの宮型霊柩車である。
車両の後部に金塗りの装飾が施された屋根と堂が付いている。
納車してから十数年、数限りない遺体を搬送したジェット葬祭の愛車である。
死者を弔う派手な装飾が時代と共に嫌忌されて、いまは扱われなくなった骨董品であった。
Q林と松村は霊柩車に乗り込んだ。
「コイツに乗るのは数年ぶりだ」
Q林がハンドルを握りエンジンキーを回した。
エンジンが好調に始動した。
原動機内部の爆発が心地好い振動となって、Q林と松村の細胞を震わせる。

カーステレオから古いコンチネンタルタンゴが流れた。ジェット葬祭は明日に向かって走るのだ。

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そんな騒動を露知らず、葬儀場から逃げ出した葦原は酒屋でジンリッキーを買った。喉が、乾いていた。お腹を壊して脱水を起こしたのかもしれない。だが、そればかりでは無い。緊張したのだ。生死の狭間で。
葦原カミートは死の極限に立っていた。死んでいるような生者、それが先程までの彼であった。

月が出ていた。

葦原カミートはドリンクの缶を開けた。炭酸が音を立てた。
其れに口付けて葦原は缶を煽った。
冷えたジンリッキーが喉奥に流れて、炭酸が喉を胃を熱く刺激した。

生きてる!
葦原カミートは自分の生命に乾杯した。

「生命に乾杯」
と言ったのは彼では無い。
葦原カミートの目の前に一人の男が座った。
白いスーツ姿で眉毛の無いリーゼントに見覚えがある。立浪組若頭補佐の故・鱧宮骸骨である。
故人が葦原カミートのジンリッキーを一口に飲み干した。

「危険だぞ」
故・鱧宮骸骨は葦原カミートに言った。
「逃げないと」
そう言って故・鱧宮骸骨は葦原カミートの前から姿を消した。
直後に現れた黒服の男は葦原を見て驚いた。
「兄貴!」
「違う」
「違うなら何だお前はバカヤロー殺すぞ」
黒服の男は銃を構えた。
慌てて葦原も自身が持つピストル型のライターを構えようとしたが、無い。何処かで落としたらしい。
「死ね」
黒服の男は引鉄を弾いた。だが、何処で取り違えたのか、彼が持っていたのはピストル型の改造ライターで、引き金をひいて出たのは火柱だった。

「ナンダコレは」
黒服の男は言った。
「俺の銃だ」
カミートは言った。
「なんでお前の銃を俺が持ってるんだ」
黒服の男は言った。
「言えない」
カミートは言った。
「言えよコノヤロー殺すぞ」
黒服の男は引鉄を弾いた。ピストルライターが火を吹いた。
葦原カミートはそれを見て笑った。
「笑うな」
黒服の男は葦原カミートに掴みかかった。
カミートは逃げた。


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立浪組組員の荒磯と川端組の刺客、葦原カミートは長い追走劇の末に河原に着いた。

何とか葦原カミートの服裾を掴んだ荒磯則夫は言った。
「もう、いい。もう、いい、から。何も聞かないから煙草を吸わせてくれ」
息が切れて立っている事も出来なかった。
荒磯は倒れたが、それは葦原カミートも同じであった。
川辺では枯れた芒が揺れていた。
仰向けに倒れて見上げた空に月が浮いている。
荒磯は煙草を咥えてピストルライターで火を付けようとした。火勢が強く荒磯の前髪を焦がした。
「熱い」
葦原カミートは息を切らしながら笑った。
「笑うなよ」
荒磯は言った。
葦原カミートは自分の普通のライターで荒磯の煙草に火を付けた。
荒磯もカミートの咥えた煙草に火を付けた。
無言で二人は煙を吐いた。

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ジェット葬祭のキャデラック宮型霊柩車は宛も無いまま、深夜の街道を走った。
コンチネンタルタンゴが流れていた。

宛も無いまま走り、ラストタンゴが終曲した時、二人はこれが死出の旅と現世の万事を諦念した。

Q林は車を停めた。ピストルを取り出して二人の間に置いた。
「死体は無い。ピストルはある。どうしたら良い?」
松村は少し考えてから言った。
「川端組を襲撃しますか」
「良いねえ」
二人は車を降りて河川敷で空き缶を撃って遊んだ。

川辺に黒服の男が倒れていた。
見た事のある男だ。
確か荒磯という年季の入った組員だ。

荒磯は死んでいた。
僻村に不穏な空気が漂っていた。明朝を待たず抗争は静かに始まっている。
Q林は言った。
「行こうか」

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川端組の事務所の前に人の気配は無かった。
事務所の前に乗り付けた二人は窓を開けて銃を構えた。
「弾はどれくらい残ってるんですか」
松村は聞いた。
Q林は銃を持ち直して確認しようとした瞬間に銃は暴発して、弾丸は車内を跳弾した。

最後の弾丸だった。
二人は笑った。

その時、杉原龍子から電話があった。

「死体が盗まれたんですって」
杉原龍子は言った。
「柿本君から電話が来たわよ」

今すぐ街のマジックミラーバーに来いと云う。

そんな浮ついた場所に行く気分では無いことを伝えたが、早く来いと言って聞かない。
詮無くマジックミラーバーに着いた二人が目撃したものは憔悴しきった故人、川端秋桜子と鱧宮骸骨であった。
此処は地獄かとQ林と松村は目を疑った。

「どういう事?」
Q林は杉原龍子に尋ねた。

マジックミラーバーはマジックミラーの向こう側にランジェリー姿の女子が並び、彼女たちは各々が好きに時間を潰している。
店内は青い照明の中に沈んで、それはさながら南国の海を模した巨大な水槽であった。
客たちはテーブルに座って水槽の中の彼女たちを見ながら酒を飲む。
マジックミラーであるので、女達に客は見えない。
というのは建前で、実はマジックミラーバーのマジックミラーと言われるものは単なる透明ガラスである。つまり、女の子達からも客共の惚けた面構えは見えている。
杉原龍子は個人的趣味でこのマジックミラーバーに登録する嬢であった。
昨夜、葬儀場のアルバイトを終えた杉原龍子女史はマジックミラーバー「ディープシー」に入店し、赤いランジェリーの上にシースルーのガウンを羽織り水槽の中に入った。
水槽の中で静かに小説を読む。読みながら水槽に見蕩れる男たちの顔を眺める。
見られているとは気付かない男達の緩んだ顔が愉快であった。
金魚鉢の金魚を見る者は金魚からもまた見られているのだ。

その中に、先程司会業の務めを果たした故人の顔がある。
見間違いでは無い。女連れだ。
何かから逃げてきたのか、ぐったりと疲弊している。
男はボーイにアルコールを注文した。
ボーイは二人にジンを運んだ。
何も言わず、二人はアルコールを口に運んだ。

電話がかかってきた。
ジェット葬祭職員の柿本木蓮だ。
「もしもし」
杉原龍子は電話に出た。
「ご遺体が盗まれたんです。それでQ林さんと松村さんは霊柩車に乗って探しに行きました。僕はとにかく色んな人に電話をして情報を」

「待って、死体が、盗まれた、ですって!」
その盗まれた筈の死体がいま眼前にいる。

杉原龍子は慌ててQ林に電話をしたのであった。

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結論から云えば、鱧宮骸骨と川端秋桜子は死んでいない。新興勢力大泉組の組員、犬鳴豊明と大泉組の抱える闇医者によって企てられた偽装工作であった。
実の所以前より恋仲であった二人は将来を悲観して心中をした。だが、それをボウリング大会に参加した犬鳴が見つけて闇医者に運び二人の命は救われた。二人の境遇を不憫に思った犬鳴は闇医者に死亡診断書を作成させ、自らナックル教団の宗教家三川十王に扮して葬儀を仕切って公衆の面前で二人を土葬に付す計画を立てた。二人が死んだと見せかけて逃がそうとしたのだ。
所が、川端組の猫成一誠が送り込んだ刺客、葦原カミートが鱧宮骸骨の棺桶に入ってしまい、更には逃亡してしまった事で葬儀は継続できず、計画は大きく狂った。立浪組の報復により戦争が起こるかも知れず、葬儀場に残された川端秋桜子に危険が及ぶかもしれない。仕方なく、祭壇に隠れて成り行きを見守っていた鱧宮骸骨は自ら川端秋桜子の葬儀が行われるダイナマイト葬祭に向かい恋人、川端秋桜子を奪い去ったのである。
だが、街中では立浪組と川端組組員が死体を探すため警邏をしていた。
彼等の目から逃げるようにして避難したのがこの店だった。

と、説明したのは大泉組幹部犬鳴豊明であった。

「あんた達が居なくなった事で両家は戦争に入ろうとしてるんだぜ」
松村は言った。
「どうしたら」
鱧宮が言った。
「簡単だ、あんた達は戻って葬儀を続ければ良い。葬儀が終わればあんた達は晴れて死人だ。何処へでも行けるさ。」
告別式は明日の十時。これで葬儀場も助かり、両家の戦争も回避できる。
Q林は安堵した。

「そうかな」
いつの間にか、店の片隅には川端組組員の猫成がいた。
大泉組の犬鳴豊明は言った。
「お前、聞いてたのか」
猫成は言った。
「まさか大泉組が手引きしてるとは」
「お前、馬鹿な事考えてるんじゃねえだろうな」
「馬鹿な事?其処にあるのは死体でしょう」
「死体じゃねえぞ」
「死体ですよ」
猫成は黒鞄を開いた。
眉毛の無い男、葦原カミートの首である。
「お前、自分の部下を殺したのか」
「これだけ色んな人間に目撃されて生きてちゃ不味いでしょう。……な?」
猫成一誠は葦原カミートの頭を叩いた。
「死んでる人間には死んでて貰わないと」
猫成は銃を構えた。

「そうじゃないと体裁が悪いや」
猫成が銃を撃った。
その猫成を犬鳴豊明が撃った。
犬鳴の銃弾は猫成の額を撃ち抜いて、猫成は無言で死んだ。
Q林は鱧宮と秋桜子を見た。
猫成の銃弾もまた二人の脳天を貫いていた。
二人は既に物言わぬ死体であった。

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Q林と松村は二人の死体を葬儀場に運んだ。彼等は二人の衣服を脱がして腰巻を当てた。腹部を圧迫して残尿と残便を排出した。鼻の穴にチューブを入れて胃の残渣物を吸引した。
それから彼等を冷水に付けて熱湯を加え、湯温を調整して彼等の身体を洗った。
彼等の衣服は噴血によって赤く染まったが、漂白剤を用いて洗濯すると白に戻った。鱧宮骸骨は白いスーツ、川端秋桜子は簡素な白いドレスであった。
彼らの顔面には銃創が出来ていたので、縫合して傷を塞いだ。
元通り衣服を着せた彼らにQ村は死化粧を施した。白い衣服を着て並んだ遺体は冥婚のようだ。
Q林と松村は二人の遺体を納棺して祭壇の前に並べた。

朝になり、二人の合同葬儀は予定通り行われた。
川端組組長は遺体が無事に戻って来た事を喜んだ。
立浪組若衆筆頭の粟野も兄貴分の帰還を喜んだ。

「体裁だ」
Q林は言った。

遺体を見て昨日とは異なる血色に言及するものはいなかった。彼等は死人の色をして、死んでいた。
導師の三川十王とジェット葬祭は淡々と葬儀をこなした。
犬鳴が用意していた2台のリムジン霊柩車に遺体が運ばれ、リムジン霊柩車は長く、哀悼のクラクションを鳴らした。
Q林は合掌した。
それがQ林の仕事であった。

霊柩車は出発し、棺は山中の墓所へ土葬に付された。

(了)


短編小説「ダイ・ア・リトル、ダンス・ザ・タンゴ」


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