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ヒメムカシヨモギの林(海洋性昆虫フィールドノート)

深海艇は海底洞窟の中を浮上していた。

洞窟内は広い。
サーチライトに照らされてマリンスノウが漂っていた。
その光の円を生き物たちが時折、横切る。
ウミムカデのつがいが長い躯体をしならせて泳いでいく。深海艇のフロントガラスを無数に並んだ側脚が擦る。キシキシとガラスが鳴った。

「大きいな」
誰ともなく呟いた。
ウミムカデは攻撃性が高いことで知られる。こんなに大きなウミムカデに遭遇したら生身の体ではひとたまりもない。

ムカデはきっと無数の側脚を広げて襲い掛かってくる。しなやかな筋肉を運動させて、獲物に巻き付くのだ。ギリギリと身を絞り、鈎爪を食い込ませながら、一本の麻縄のように捕食対象を縛り上げていく。ムカデに縛られた皮膚は圧迫されて紫色にうっ血するだろう。鈎爪が食い込んで破けた皮膚から血が滲むだろう。身じろぎすればする程、ムカデは剛直に肉体を縛るのだ。

考えるだけでおぞましい。恐ろしいことだ。

ムカデの大きな顎からは毒液が分泌される。一度噛まれれば捕食対象は激痛とともに身体機能が停止する。痛みの余り、動くことも息をすることもできないのだ。そして生きながらゆっくりと食餌されるていく。
わが身を捕食対象に置き換えた忌避本能的な恐怖と深海艇に守られた安堵からため息ともつかぬ独り言が溢れた。
「まるで化け物だ。」
体長は10メートルを超えようかという大きさであった。
「私もこんなに大きなものは見たことがありません。」と岸辺が言った。

「もしかしたら鯨だって食べるかもしれない。」
「そうだね。そんな光景は見たくないけれどね。」
「俺は見たいな。」玄海が言った。
「迫力があるじゃないか。」
「鯨が悶絶する水流に巻き込まれたら、この艦だって無事では済みませんよ。」岸辺が言った。

悶絶しながら喰らわれて刻々と存在を消失する鯨。何匹ものウミムカデが雁字搦めに絡みついている。ムカデたちの絶え間なく蠢く触覚。血液と肉片で真っ赤に濁った海。
「ゾッとしますよ。」

「小さい方はメスかしら」
小さなウミムカデが大きなウミムカデに付き従っている。体色は黒。側脚は赤。地上のムカデに似る。
「ムカデはつがいで行動するというね。」
玄海が言った。
「それは誤解なんですよ。迷信です。」
岸辺が口を挟んだ。
「地上のムカデもつがいで行動している訳ではないのです。」
「そうなのかい?ムカデが現れたら、もう一匹を続けて目撃することが多い気がするが。」
「そうですね。」
と玄海に同調したのは上川田であった。ムキになって口を尖らせている。
「現にこうして二匹連れ立っているじゃないか」

「いいえ、これは親子なんですよ。」
「親子?」
「はい。ムカデは卵が孵化すると、母親がしばらく子どもムカデを養育するのです。こうして一緒になって行動することもあります。きっと周囲には他の子どもムカデもいますよ。窓から見えていないだけで。」
「父親はいないんだね」
「父親は生殖行動が終わるといなくなります。昆虫の世界では家族の概念がありませんから。カマキリなんて交尾の後にオスはメスに食べられてしまいますよね。」
「ああ、それこそ怖い話だ。男女の愛憎程怖いものはない。」と玄海はおどけてみせた。
「瀬戸さんも気を付けなよ。」

「あたしが何を気を付けるんですか?」
と瀬戸さんは笑っていた。

浮遊するカイチュウテントウムシの群体の間を抜けると深海艇は地上に出た。
岸壁に隔絶された場所でドーム状の天井に天穴が開いていた。天穴から太陽光が射していた。
暫くの間、僕たちは深海艇の中で気圧と太陽から隔絶されていたのだ。久々に太陽光線を浴びて僕たちは開放感に背伸びをした。

「あちらにロッジがありますよ。」と岸辺が緑色の木立を指差した。深海艇の整備をしながら、僕たちは暫くここで休憩をするらしい。
僕たちの旅路はまだ長いのだ。
「どうせなら外でランチは取れないかしら」と瀬戸さんがこぼした。
「暫く外にいたいわ」
太陽の光は魅力的だ。深海の美しさに僕たちは深く魅せられていたが、それでも太陽の初源の美しさには叶わないのかもしれない。僕たちははやはり地上の生き物なのだ。こんなにも太陽に恋い焦がれている。

緑の木立が目に眩しい。
植物の青さはなんと清涼なのだろう。
この輝かしい色彩の世界。
僕は頭上を見上げた。
緑の葉が頭上に茂っている。

「はて、これは木じゃないな。」
先程から木立を見上げていた玄海が言った。

幹の太さは大人二人が手を伸ばしたくらい、樹高は6階建ての建物と同じくらい。巨木であるが幹が緑色をしている。この植物は樹木ではない。巨大な草であるようだ。

だが、こんなに巨大な草を僕は見たことがない。まるで植物の進化が後退して太古の光景を見ているようだ。
真っ直ぐに屹立する姿は杉の木立を思わせる。
茎は円柱形で枝が無い。葉が直接茎から生える。形から察するに維管束植物の分類だろう。
「ヒメムカシヨモギじゃないかな。」と僕は言った。
うん、そうだ、きっと。
これは巨大化したヒメムカシヨモギだ。
「何だって?」上川田が尋ねた。

「ヒメムカシヨモギですよ。知りませんか?」

ヒメムカシヨモギは乾燥して固い地盤に生える野草だ。更地やあぜ道、路脇などに群生する。北米原産だが、繁殖力が強く世界中に拡散し帰化した外来生物。よく似た種に南米原産のオオアレチノギクがある。これも直立した茎の四方から細長い葉が直接生える。茎も葉も青々とした緑色をしている。これらの種は背丈が高く草高は2メートル程に育つ。

「登れそうだな。」玄海が言った。
「登りましょうか」上川田が言った。
「うん、登ってみたまえ」

葉の付け根を掴めば易易と登れそうであった。
上川田は二段三段と手をかけて忽ち3メートル程登ってみせた。
「ロッジが見えますよ。」
「楽しいかい。」
「それなりに。」
「よし。俺も登ろう。」
玄海が登り始めた。
やはり3メートル程の所まで登って葉の付け根に腰掛けた。
「君たちもどうだ。」
と玄海が言った。
僕と岸辺はお互いに顔を見合わせた。
そして瀬戸さんを見た。
「あたしは登らないわよ。」

僕と岸辺もそれぞれのヒメムカシヨモギを登った。茎を細かな毛が覆っている。葉の付け根は思ったよりも丈夫であった。足をかけても折れることがない。
付け根の部分に手を掛け、足を掛け、やはり僕たちも3メートル程登った。それから葉の付け根に立って周囲を見回した。
(その間に上川田は調子に乗って更に一メートル程高く登った。)
ヒメムカシヨモギの林は上に行くほど葉が茂り見通しが悪い。
だが、一面の緑は悪くない。
「悪くない。」
僕は言った。
「そうだな。」
岸辺が言った。
「木登りなんて子供の頃以来だよ。」
「そうだな。」
「俺が子供の頃は毎日木登りをしたよ。」
付け根の部分に腰かけて玄海が言った。
「山の頂上の木に登って、町を見下ろしたもんだ。楽しかったな。」
「玄海さんに未だにそんな体力があるとは驚きました。」
岸辺が言うと玄海は嬉しそうに笑った。
下を見下ろすと瀬戸さんがこちらを見上げていた。
僕は手を振った。
瀬戸さんも手を振った。
瀬戸さんは少し呆れた顔をしていた。

「わ。」上川田が頓狂な声をあげた。
見ると上川田の周りを何かが夥しく囲んでいた。
小さな何かの群体が。

「蝶だ」
蝶の群れが上川田の上ったヒメムカシヨモギの葉裏で休んでいたのだろう。急に現れたストレンジャーに驚いて、上川田の姿が見えなくなるほどの蝶の大群が飛び交っている。
翅色は明るいオレンジ色。その翅が黒く縁どられている。

「オオカバマダラかな。」
岸辺が言った。
「渡り蝶だよ。大群で長い距離を旅するんだよ。アメリカのオオカバマダラは越冬するためにカナダからメキシコまで飛ぶんだ。」
「助けてくれ」上川田が悲鳴を上げた。
「下に降りれば良いんだよ。オオカバマダラは人を襲わない。」

上川田は頓狂な声を上げながら慌てて樹上から退散した。最後に足を踏み外してドスンと尻もちをついた。
僕たちも一緒に下に降りた。
「ああ、酷い目に遭った」
上川田の慌てた様子に僕たちは苦笑した。

樹上から僕たちの上に何かが降ってきた。
「綿毛だ」
ヒメムカシヨモギは頂点に頭花を戴く。頭花は熟して綿毛になる。先程の衝撃が茎上に伝わり綿毛を散らしたのだろう。

「雪のようだね」
ゆっくりと空気中を踊るように綿毛が落ちてくる。

地に落ちたヒメムカシヨモギの種子は冬の間に発芽してロゼット形態で越冬する。季節は巡る。何度も何度も。
ヒメムカシヨモギは二年草である。しかし眼前の種はこれだけ大きいのだ。恐らく枯れることもなく、何年にも渡って成長を続ける種なのだろう。ここまでの巨樹に育つのにどれくらいの年月を要するのか。
僕たちは無言で綿毛が落ちる様を見ていた。

(海洋性昆虫フィールドノート「ヒメムカシヨモギの林」村崎懐炉)

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