内側にある世界

友達がSNSを始めた。彼は素敵な文章や才能あふれてる自分のジョークを投稿してるんだけど、いまいち"いいね"が増えず、自分が世間から無視されてるように感じるとぼくに話してくれた。SNSで自分の発信したものが、アクセス数や、いいねの数となって、自分を評価する指標に感じてしまう世代は、そのいいねの数が低ければ、自分の作ったものが実は良くないものなんじゃないのかと錯覚してしまうこともあると思うし、いいねの数が多ければ、自分の作ったものは、いいものなんだ、と思い込んでしまう。しかし、たとえば、最近、当時のダウンタウンのごっつええ感じというコント番組があってコントの中で、芸人が女性タレントの体を触ったり、キスをしてる画像が流れてて「こんなもの当時はよく笑ってたな、いまではアウトだろ」「ただのセクハラだろ」など、批判が殺到してた。しかし、当時、"いいね"ボタンがあったら、あのコントは、いいねが沢山ついてるコントだったと思う。しかしそのコントは今の時代ではバッドボタンが連発されてる。たとえば、日本でヒットしてる歌やコメディをアメリカに持っていっても日本みたいにヒットするとは限らない、逆もそうだ。言語や文化背景も違うから、そっちのあるあるはこっちではあるあるじゃなかったり。要は、時代や国で評価なんかコロコロ変わる。誰かの高評価が自分の評価であるならば、自分は存在せず、いつまでも子供の頃の親の期待にちゃんと応えてるいい子であって、あなたではない。コロコロ変わる外の世界なんて気にしてもしょうがないということだ。この時代は、どうしても外の世界からの評価に自分の存在価値をすりあわせがちなんだけど、特に作品を作る人間はどれだけ内なる世界を気にできるかだと思う。たとえばぼくなら、これは笑いがとれても、やりたくないから、やめようとか。自分こそが、自分のネタに沢山いいねを、押せる人でありたいと思う。それが世間に流されない個人であるということなんじゃないだろうか。最近、カナダで知り合った日本人がスタンドアップコメディに挑戦していた。共通の知り合いが、彼が最近いいネタを作ったと教えてくれた。どんなネタかと聞いたら、黒人に使う差別用語をうまく使ったネタだと、しかも、黒人の人も笑わせれるネタだったらしい。そのネタを見た人は、彼は大きな笑いをとってたと言っていた。しかし彼はそのネタを捨てた。そこまでやりたいネタじゃなかった、と言っていた。ぼくは素晴らしいなと思った。特にお笑い芸人はお客さんの反応ですべったうけた、と自分のネタの評価にする。要はウケれば勝ちという世界だ。彼は、大きな笑いはとれた、しかし、自分の性格的にそれを舞台に立ってわざわざやるほどでもない、と言っていた。誰かのいいね、よりも自分の世界を優先した。それがとっても個人的であって、今の人たちに足りないものなんじゃないかと思った。個人的である、それは外からの声より自分の世界を優先すること。明日には別の人のようにコロコロ変わる外からの評価より内なる世界に生きよう。



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