エヴァンゲリオンのあれこれ

はじめに

エヴァはガンダムみたいに後の世代が続編作ってくれりゃいいのに〜みたいなことを庵野監督が言ってたらしいが、エヴァの良さって結局庵野の思考回路を俺らがどう消化(昇華)するかであって、結局庵野以外の誰かがエヴァ作ったところでそれはただの思想強めのロボット映画なんだよな。
だから"いわゆる"エヴァンゲリオンを再構築したいなら庵野のエヴァ自体を自身の目線で評論するのが一番良い。それこそが俺らの求めてるエヴァサーガみたいなものだと思う。だから俺もやる。これは庵野秀明フィルターと俺フィルターで通して見た世界。

1. 俺らは全員一度エバーに乗ってる

①エヴァってなんなの?

エヴァには母親の魂が入ってて、強い母性によって動くみたいな設定あるね?じゃあもちろんエヴァはお母さんだね。だってEVEだよ?人類初のお母さんやんそんなん。その前提すらちょっと無視されがちで時々悲しいね。
エヴァはパイロットにとって1人の親で、初号機に関しては肉体がリリス(人類の祖)だから即ち人類からの愛でシンジが生かされてるともとれるね。
監督のドデカモノローグであるエヴァだからもちろんエヴァは庵野秀明自身が人の優しさに気づいた話で、だから旧劇最終話ではエヴァ=全ての人類に向けて「ありがとう」だったし、シンエヴァは全てのエヴァ=人類に向けて「さようなら」だったわけなんですね。
その点シンエヴァってめちゃくちゃわかりやすく旧劇と同じこと伝えてるだけなんだよな。「なんでみんなそんなに優しいんだよォ…」って言っちゃうんだもん。優しいのはお前だよ。
もしかしたら旧劇で監督は「なんでこれで伝わんねぇんだよ!」ってキレてたかもしれんけどそりゃわからんでしょ。ロボットがお母さんなわけないしぼくの考えた最強のバリアーATフィールドがただの心の壁なわけないだろ。俺は厨二病だぞ。

②そんなの、できるわけないよォ!(デストルドー)

シンジとエヴァの関係を考える時、まず僕らはシンジに関して

  1.  庵野としてのシンジ

  2. 少年としてのシンジ

  3.  胎児としてのシンジ

  4. 親としてのシンジ

の4つの人格を同時に考えなきゃいけない。彼一丁前に制服着てるからシンジのことを少年だって誤解しちゃうけど、さっきも言った通りシンジは庵野だし、エヴァはお母さんで、お母さんの体内にいるシンジは赤ちゃんだし、操縦してるシンジもまたエヴァに憑依してお母さんになれる。シンジはお母さんです。これは単に子供は親と同じ成分でできてるから逆戻りすれば実質お母さんだよね〜ってことなんだけど。
前述の通りエヴァに乗ることって胎内にいることと同じなんだよね。でそのエヴァに乗れないってシンジがゴネるところって「産まれなきゃ他人と関わらなくて済む」ってメンヘラ発言みたいなもんだし、突き詰めたら「産まれなきゃ死なないから最強」って究極のデストルドーなわけ。これって俺らが反抗期の時に色々嫌になって「なんで俺なんか産んだんだよ!!」って言った時と似てませんか?そう。シンジくんは反抗期のメンヘラです。それに対して親父が愛想尽かして「乗るなら早くしろ。乗らないなら帰れ(べつに産みたくて産んだわけじゃねーよ)」ってゴミ発言をしてるわけですね。俺は個人的にゲンドウが嫌いです。

あとシンジくんは父親としても存在してますからね。初号機が零号機を裂いて綾波を助けるシーン、どう考えても帝王切開ですから。でもシンジのそれって父性と性欲が同一なものって暗に示しててめちゃくちゃ気持ち悪い。べつに俺にはガキいないから知らんけど。

ちなみに新劇旧劇の矛盾点が気になった人いると思うけど新劇は旧劇の設定を完全に引き継いでて旧劇との矛盾を多元宇宙とかループで解決してるだけだから、基本のパーソナリティは旧劇が基本になる。都合の良い設定は新劇からもらう。新劇も旧劇も全部監督の思考だからそれは悪いことじゃない。ハナから一貫性は重要じゃない。
で、監督のドデカモノローグ理論でいくと旧劇にいなかったマリはどう考えても奥さんで、監督が現実世界で溺れてる母性そのものだからマリはエヴァを操縦できる。完全無欠。結局男は女に勝てない。

2. ホモソーシャルって、厄介

①父さんはカオルくんなんだ(錯乱)

マジで父さんはカオルくんなんだけどな。なんでちゃんとシンジくんがそのまま言葉にしてるのにお前ら意味不明って言ってんだ?って俺は半分キレながらべつに俺も「そこまでやらなくても…」って思ってた。なんで父さんがカオルくんで納得すると思ってんだよ!ってのがみんなの意見だと思うけど、それにも一応理由付けされてるんだよな。ゴルゴダオブジェクトがそれなんだけど、新劇で最初に出てきた時に、俺は「あ〜これって監督のアイデアの象徴で、エヴァの世界から見たら多元宇宙の無限の可能性なんだろうな〜」ってわかった。
旧劇の失敗は物語の終着点であるサードインパクトの時点で監督の思想を垂れ流してしまったこと。本来それをするためには一旦物語を終わらせた上で監督が自分語りをする理由をつけないといけなかった。でもきっと彼は映画以外の場所での感想戦みたいなことはしたくない。だから新劇では物語を終わらせた後のアディショナルインパクトだし、あの佳境にゴルゴダオブジェクトっていう新アイテムなんだよね。
それで、公式に自分語りができるようになったらやっとゲンドウとカオルを同一人物のつもりで描いてたことを物語の設定に盛り込める。さあこれでゲンドウはカオルくんです。まだ納得いかない?うるせぇな。冷たいゲンドウの代わりに優しいカオルくんを出したよ!設定は後付け!これは岡田斗司夫の受け売りだからお前らも信じるだろ。

②父さんは僕が要らないんじゃなかったの?

要らないです。でも何度も妻に怒られたので妻に愛されるためには必要なことがわかりました。
ってのが大筋なんだけど、なんでゲンドウは息子を愛せなかったんだろうか。
ゲンドウは冷徹で浮気性で、若い頃は攻撃的なんだけど、やっぱりなぜかそういう男はよくモテる。モテ続けるためにはそういう男である必要があって、そのためにはゲンドウとしては息子って絶対に邪魔な存在なんだよな。男同士の〜とか女にはわからん〜とか、そういうホモソーシャルは女を排除しつつホモセクシャルも排除することで正常な性自認をアピールする行為なんだが、ゲンドウはそれを一人で完結させてモテてきた。だから女を排除するような行為はゲンドウにとって無意味なんだよね。そんな彼にとっては息子ですらユイとの関係を脅かす存在に見えてしまった。過剰なホモソーシャルの敬遠がゲンドウの冷徹さの真実で、そのカウンターで究極のホモソーシャルとして現れたのがカオルだったんじゃないかと思う。
ホモソーシャルって即ち男への親愛を裏返した女への攻撃性で、女に好かれるために息子を否定したゲンドウはメスに対する攻撃性を失ったのでユイに否定された。ゲンドウが否定したホモソーシャルは、肯定すれば女を寄せ付けないが否定し尽くすと女への攻撃性を完全に失って逆にモテなくなるという矛盾を孕んでいる。で、ホモソーシャル第一主義のカオルくんは腐女子にバカウケ。そういうことですわ。
このパラドックスをわかりやすく言えば付き合ってから彼女にデレる男は冷められやすい。それに尽きる。

3. おめでとう

なにが?俺は普通にアニメを見ていただけだが?俺また何かやっちまったのか?
大丈夫。監督が自分自身とスタッフにお疲れ様って言ってるだけだし、厨二病の俺らに「お前らも引きこもってないではよ他人の優しさに気づけよ」って言ってるだけ。俺らはTVアニメごときに啓蒙されてんのよ。でもデストルドーとか母胎帰りみたいな根源的な男の欲求を自覚できるのは良いことだと思うし、他人の行動を見て自分の身を正すみたいなそういう視点で見るべきアニメだと思う。
結論もなにもないけど思考はある。それが俺にとっての良いエヴァだと思うからここまで

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