生命、快感、そこにある光
生命は快感によって駆動されている。
快感とは物事が移動することである。
物事とは、空気、音、食料、身体、情報、貨幣などのことである。
移動とは、呼吸、発声、飲食、運動、旅行、会話、手紙、売買などのことである。
スピードが上昇し、短時間で移動すればするほどに、人が得られる快感は増大する。
其の伝でいけば、スケボー、自転車、オートバイ、自動車、鉄道、船、飛行機、ホームラン、ホールインワン、ロングシュートなどにワクワクすることは自然な反応である。
究極の快感は、光のスピードで移動することだろう。
移動するスピードを上げることには、苦しみや死のリスクを伴うのだが、それでも人は人生において快感を追い続ける。
どうやら、快感、苦しみ、生、死、は渾然一体であり、それぞれに独立した概念ではなさそうだ。
おとなしくしていてもいつかは死んでしまうのだし、ならば生きた証として光のスピードにチャレンジしてやろう、ということなのか?
それなのに、快感の先にある死を恐れるあまり、目の前にある生までも苦しんでしまう人がいる。
ということは、宗教とは、人が抱える生の苦しみと死への恐怖を和らげるための安全装置ということなのか?
だから、太陽のように直視できないほどの眩しい光とともにある存在を、人は神や仏と呼ぶのかもしれない。
P.S. 夜空に浮かぶ星のように、直視できる光とともにある存在は、読んで字の如く、スタ ーと呼ばれる。