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仮設のもつプリミティブな可能性。

この数年来、神戸の東遊園地で社会実験「アーバンピクニック」を続けてきました。6月前後に設営し11月初旬までの毎年4~5ヶ月間の社会実験でしたが、予算が常に乏しかったこともあり、また数ヶ月後に撤去するときになるべくゴミを出したくなかったこともあり、単管パイプなど建築現場で使う仮設資材をなるべく活用して、カフェをはじめとする毎年のPOP UP空間をつくってきました。

必要に駆られて仮設感覚の空間づくりをしてきたわけですが、来場者の多くがその仮設空間を積極的に好んでいることも次第に分かってきました。自分自身、いつか立派なカフェがどーんと建ち、心地よい空間が完璧に準備されている公園をイメージすると、なぜかそんなに魅力を感じません。

人は、関与できる余白が残る仮設的な空間にこそ、魅力を感じるのかもしれません。

日本の公共空間には、寺社や道などを、本来の用途とは別の共有空間として一時的に構築した記憶が、今でも根付いています。屋台やのぼりを立てるプロセスにはじまり、その仮設物でできた期間限定の設えが、普段とは違うハレのアクティビティにつながったのです。

ひょっとすると、本来、公共空間への愛着と仮設性(あるいは構築に関わるプロセス)の間には、切っても切れない関係があるのかもしれません。バルセロナのサグラダファミリアに、着工後130年がたっても寄進が集まり、建築が続いている情熱と、きっと根は同じです。

そして古代から広場を都市空間の基本として常設化してきたヨーロッパやオリエント世界と比べると、仮設性という公共空間のプリミティブな性格を現代に最も残しているのが、日本なのかもしれないのです。

昨今、Park-PFIなど法制度の整備にも背中を押され、日本中で注目を集めている公共空間の活用ですが、最高の空間を創ってそれを大切に維持管理していこうという発想自体が、大きくピントを外しているのかもしれません。明治の初期にヨーロッパをまねて整備された公園の多くが、未だに使いこなされていないのと、同じことを繰り返しているようです。

むしろ大切にすべきは、仮設性が常に残っていて、その変化に関わることができること。その変化を重ねてはじめて、今の市民目線に育てられ、愛される、日本らしい公共空間が生まれるはず。そう思います。

参考文献:「日本の公共的空間の整備・活用におけるプレイスメイキングの展開に関する研究」園田聡著
写真  :2018年のアーバンピクニック、開幕前夜の準備風景。

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