回想Ⅱ【第十話】
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○年○月○日
地元
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好きでもない事をするのは、とても苦痛だ。自分から行っている分、強要よりたちが悪い。
なんの事かと問われれば、それは授業を受ける事にほかならない。そもそもこの学校自体が私の第一志望ではないし、何をすることもないのだ。ただ高校は卒業したという人としての最低条件を身に付ける為だけの高校生活だった。
それでも、一年の時とは大きく違うことがある。それは今私の隣で真面目に(私との対比として見て)授業を聞いてる綾香が居るからこそだった。綾香がいなければ、もっと陰鬱な高校生活だっただろう。
そして私は彼女に恋をしている。もちろんそんなことを彼女には伝えてない。伝えたところで気味悪がられる可能性があるし、そうなったら私はとにかく傷つくだろうと思う。どうせ叶わぬ想いなら、伝えずに心の中で想っている方が誰も傷つかない。逃げだと思われるならそれでもいい。もう、傷つくのはたくさんだから。
お昼になれば私達は隣同士で弁当箱を広げる。いつも綾香は自分で作ってくる。でも、適当なありあわせではない。焦げ目のない小さなオムレツ。緑鮮やかに萌えるブロッコリー。キラキラとした白いご飯に誘うような照りを見せる生姜焼き。何時間も掛けて作っているのではと聞いたこともあるが、朝の一時間程でできると聞いて私は腰を抜かした。冗談じゃない。私がこんなレベルの弁当を作ったら、それこそ一日仕事だ。(私のは母の適当なありあわせなので割愛)
放課後に次いでこのお昼時間が、私にとっての至福のときでもある。お弁当を食べて、午後の緩やかな時間を二人の世界で過ごすのは、食後の午睡に負けず劣らずの快感だった。
そんな私はいつも綾香の唇ばかり見ている。彼女の唇はリップもあるだろうがいつ見ても滑らかに濡れている。適度な湿度を保っているのだ。私はその唇にいつか触れてみたいと思いながらも、もちろんそんなことはしなかった。そんな事は恋人同士、ひいては男女の仲でする事なのだ。
そうして自分自身を納得させると、心は落ち着くが寂しい気分にもなった。
「ねぇ、聞いてる?」綾香は唐突に私のは目を覗き込んだ。私ははっとした。
「うん、聞いてる」
「嘘ばっかり。たまに意識飛んでる時あるよね。どこへ飛んでるの?」
綾香と二人っきりの世界。と言いたいのを我慢して、私は適当に答える。言ってはだめだ。だめなんだ。
私が適当に答えると、綾香はムッとして、私にデコピンをした。仄かな痛みと熱が額の真ん中にじわりと広がった。
「もう。今日、学校終わったらどこ行くの?って話だよ」
「どこでもいいよ。綾香とならどこでも楽しいし」
やれやれと言う風に、彼女は座ったまま背伸びした。昨日は綾香が決めた。だから今日は私が決める番だ。私は少し思考し、ドーナツを思い出した。
「じゃあドーナツ食べに行こ。新作ドーナツ出てるらしいよ」私がそう言うと、綾香は目を輝かせた。
「おっ、それいいね」
彼女はドーナツを愛していた。ドーナツを渡すだけで悪かった機嫌は一発で治るし、そんな時の彼女にかかれば世界的テロリストも放免するに違いない。そんな笑顔を見せてくれる。なので、困った時はいつもドーナツだった。
ちなみに不思議なことに、これだけドーナツを食べるドーナツモンスターの割に、綾香は全くもって太る気配がない。それよりも彼女に付き合って食べている私の方が太ってきている。どうなっているのだろうかと首を傾げるばかりだ。
灰色のベールが覆う学校の帰り道。重苦しい空気が街全体を包んでいるのだが、私にはそんなことは関係なかった。この時間が私の人生において一番の快楽の時間だ。大地を揺るがしながら側を通る大型トラックの排気ガスすら、祝砲の煙に思える。
大きな川を渡すこの大橋はいつも人通りと車の通りが多い。緩やかな川の流れが眼下に広がる。きれいな川ではないが、この橋から見える街の様子と混ざり合うととても美しく見える。
私がこの街を好きになったのも綾香と出会ってからだ。それまでは正直どうでもいい街だったし、いつ出てしまってもいいようにこっそりと貯金もしている。生まれたときから街に歓迎されているように感じなかったし、私自身も特になんとも感じたことはない。
今は綾香というフイルターを通すとなんでも美しく見えるようになった。さっきの大型トラックの例もその一つだ。ネガティブがポジディブに変わる。おそらく綾香さえいれば、私はどんな過酷な環境下でも生きていける自信がある。どんな迫害でも受ける。どんな差別だって受け流す。
ドーナツ屋でのいつもの綾香の長考を経て、混み合う頃に店を出た。そしていつもの帰路につく。
ここで私が彼女の袖を引っ張って、涙でも流しながら頬を上気させて「帰りたくないの」といったらどんな顔を向けるだろう。どんな迫害でも差別でも耐えれると私は言ったけれど、それは他者からのものに限る。綾香からもしそれらを受けたら、私はきっと一瞬で崩れてしまうだろう。
でももしかしたら、一緒にいてくれるかもしれない。そう考えると、いつもポロッと本音が出かけてしまう。
もちろん今まで言ったことはない。言ったら高確率で壊れてしまう。それだけは避けたかった。
「じゃあまた明日ね」
「うん、明日」
私はいつもの交差点で綾香と別れ、数メートル先で左へ曲がって消えるまで見送る。音がフェードアウトしていくような、儚げな印象がいつも私を襲う。もしかして曲がった先に誰か待っていて、私以外のその人と遊んだりするのだろうか。なんて事を考える。
それほどまでに私はいつもこの時間が寂しかった。たった一人この世界に取り残されている様な、絶望的な孤独。そして死が約束されているような恐怖。ネガティブな様々な感情が私を苛む。チクチクと針で刺されるような厭らしい痛み。
今日は特にひどい。音も空気も景色も全てが希薄になっていくように感じた。視界にある綾香の小さくなる背中を中心に全てが希薄になっていく。
すべてが落ちる、奈落に落ちる。太古から続く遺伝子レベルの恐怖と絶望が、私の肩を叩く。壊れてしまう。なぜかわからない。壊れる。分子レベルで砕けてしまう。このままだと私が私でなくなってしまう。暗い洞窟で滴る水の様な緩慢な速度で指先から分子がチリチリと崩れていくような気がした。私はそこ─
「ちょっと、どうしたの?」
すべてが消え去ると、綾香が私を心配そうに見つめていた。「顔が真っ青。体調が悪いの?」
「あ、何でもないよ。そんなに変かな?」
「うん、体調悪いんじゃない?家まで一緒に帰ろう。送るよ」
「ありがとう。でもなんで戻ってきたの?」
「角を曲がるときに、なんだか寂しそうな顔で立ってたから。いつもはそんな顔してないのになって。心配になって戻ってきたの」
それだけ言言うと綾香は私の手を引っ張って、いつも綾香が帰る方向とは反対の方向へ歩き出す。私が呆然としてなすがままになってると、急に足を止めた。私は綾香の背中にぶつかった。
「なに?どうしたの?」私がそう問うと、綾香はゆっくり振り向いて、照れくさそうに微笑んだ。
「私、祐奈の家知らないや」
それは綾香が初めて私の家に来た日だった。
☆
ふと私は自宅アパートでそんなことを思い出した。外がどっしりした曇りだからだろう。連想させるのだ、あの頃を。
時計は17時頃を指している。あぁ、ドーナツ食べたいなぁ。と、私は出かけることにした。綾香と地元でよく行ったドーナツ屋は全国区のチェーン店で、大学周りにもある。もちろん雰囲気は違うが、ものは同じだ。
さっき思い出した新作のドーナツはいまではレギュラーメニューとなっていて、いつでも食べられる。
ドーナツはいつでも食べれるのに、と私は思った。
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